「黒猫のワルツ」2−1





 ぱちりと目が覚めたリョーマはカーテンから漏れる太陽の光にまぶしげに目を細めて、ベッドから起き上がり伸びをした。
 休みの日なのに、かなり早起きだ。
 惰眠を貪ることも大好きだが、早朝少々ひんやりとして澄んだ空気の中を歩くのも嫌いではない。
 そう思い付くと、手早く動きやすい服装に着替えた。
 そして、部屋を抜け出して廊下を突き進み玄関に向かう。途中で執事の日下部にあった。
 日下部の朝はリョーマよりずっと早い。
 平日であろうが、休日であろうがリョーマが起きた時はどんな時もすでにいつものスーツに身を包み頭を撫で付けた顔をして控えている。執事の見本のような人だとリョーマは密かに思っている。
「おはようございます」
 日下部がリョーマに向かって目に微笑を浮かべながら挨拶してきたのでリョーマも笑う。
「おはよう!ちょっとカルと散歩に行って来るから!」
 そして、日下部が何かいう前に笑顔のまま走りながら言い捨てた。そのまま止められないように外に出ようと加速すると後ろで声が聞こえた。
「お気を付けて、リョーマさま」
「うん!」
 リョーマは元気に返事をして駆けだした。
 散歩という名目は胸に抱いた愛猫であるカルピンだ。こちらに来てから外に出すことがなかった。何分、屋敷が広くて広くて、屋敷から出なくてもカルピンが運動不足になることはなかった。それに、知らない場所で迷子になられても困る。一応野良ではないのだから。
 カルピンは白い毛がふわふわとしているヒマラヤンだ。撫でると気持ちがいい。
 Keyから言わせれば、まるで狸だと表現する。失礼な奴だ。
 リョーマはカルピンを胸に抱いて、ふらふらと歩いた。
 目の前に広がるのは、まだ知らない道。知らない景色ばかりだ。
 リョーマはに日本来て氷帝学園と跡部邸の行き帰りだけで、まだこの近所の地理に詳しくない。詳しくないというと聞こえはいいが、はっきり言ってまるでわかっていない。
 それでも、そんなことを気にもせずリョーマは気の向くままに歩いた。途中でカルピンを下ろして一緒に歩いたり、走ったりしながら。
 
 どれだけ来たのか定かではないが、どこからかボールの音が聞こえた。リョーマは興味を引かれて音のする方に駆け出した。
 やがて、目前にテニスコートが現れた。

 
 背の高い青年がサーブの練習を一人でしている。
 リョーマはフェンス越しにそのフォームを見つめる。正確で非の打ち所のない綺麗なフォームから繰り出されるサーブはコーナーに落ちる。
 視線はそのままに腕の中にいるカルピンをぎゅっと抱きしめた。
 目を奪われるテニスを見ると、素直に嬉しくなる。自分とは違うプレイスタイル、動き、サーブ、真似したいとは思わないけれど、己だったらどう戦うか試したくなる。自分もやりたくなってうずうずするのだ。
 リョーマの関心が他にあるのが気に入らないのか、抱きしめられているのが億劫になったのかカルピンは身じろぎして、腕から飛び出した。ひらりと着地するとそのまま駆け出してフェンスを周りコートへ入って行った。
「カル?」
 リョーマは慌てて後を追いかけた。
 カルピンがコートを横切り青年へと走っていくのが見えてリョーマは目を剥く。
 練習中にいきなり猫が飛び出してきたら誰だって驚くだろうし、困るだろう。自分だったら練習を邪魔されたら、怒る。まあ、リョーマは愛猫家だから、猫が絡んだのなら怒ることはないだろうが。
 青年がカルピンに気づいて手を止めた。カルピンは青年の足下に近寄りすり寄るように頭を押しつけた。青年は困惑しながらも、カルピンを抱き上げて思案げに首をひねりながら眉間にしわを刻んでいる。
「sorry」
 リョーマはその状態に驚いて、カルピンを抱き上げている青年に近寄った。
 青年は困惑しているようだが、怒ってはいないようだ。
「君の猫か?」
「うん」
 青年はリョーマの姿を認め、腕の中のカルピンとリョーマを交互に見つめて問う。リョーマはこくりと頷くと手を伸ばした。
「カル、おいで」
 腕の中に素直に戻って来て喉を鳴らすカルピンの頭を撫でてやりリョーマは青年を見上げた。自分より背が高く痩身だが鍛えられた身体付きだ。眼鏡をかけていて表情は読みにくいが、硝子越しの瞳は怜悧だ。彼の周りは涼やかな気配がする。それは彼が持つ端正な顔立ちと酷く温度を感じ難い瞳のせいだろう。
「Thanks」
 リョーマはにこりと笑う。無表情の中にただ対応に困っただけなのだという意図を読み取ったため躊躇もない。感情表現が不器用な人なのだろう。
「いや」
 青年はわずかに首を振って否定する。
「練習の邪魔して、ごめん。……でも、上手いね。正確で綺麗なお手本みたいなフォームだった」
 リョーマは率直に賞賛した。
「……」
「……あのさ、ひょっとして肘、故障したことある?」
 リョーマは言ってよいか迷いながら、青年の練習を見ていて気になったことを口にする。
「わかるのか?」
 青年はわずかに表情を変えた。
「なんとなく、だけど……」
「君はテニスをするのか?」
 それは確認だった。できないはずがない、と青年は思う。見ただけで自分の過去の怪我まで見抜くことができる目を持った人間は数少ない。
 スポーツ医療に従事している人間ならともかく、目の前の少年はどこから見ても学生で自分より年下だった。
「うん。ラケット持ってたら、お願いするのにね」
 一人より相手がいる方が練習できるもんね、とリョーマは首を傾げる。
「……」
 青年は荷物が置いてある角へ歩くとテニスバッグからラケットを1本取り出すと戻ってくる。そして、リョーマに差し出した。
「いいの?」
「ああ」
 青年は頷く。
 リョーマ嬉しそうに目を細めて、ラケットを受け取るとカルピンをベンチへ下ろす。
「しばらく、待ってろよ」
 そう話しかけると、パーカーを脱いでカルピンにかける。
 身体を回して軽く柔軟し準備体操に変えた。ここにくる前に走ったりしているため、身体は暖たまっているから問題ないだろう。
 
 青年がコートに入ると、リョーマも反対側に入り構える。ただし、ラケットは右手で持っている。
 通常いきなり利き手である左ではやらないのが、リョーマの普通だ。
 相手の様子を見るためであり、なかなか本気を出して戦える相手がいないせいでもある。本気になれる相手と出会ったら、夢中になって時間を忘れてしまうという欠点がある。
 ネットを挟んだ相手は、本気でやってもいいように思うが、試合をするための場でもなく、相手の好意でラケットを借りている状況ではそれも躊躇われる。第一、強い相手と打ち合うだけでもリョーマは嬉しい。
 綺麗なフォームからサーブが打ち込まれた。
 リョーマはそれを打ち返す。ラケットで返すとわかるが切れがある。
 一つ一つに無駄がない動きは、見ていて楽しいものだ。
 試合ではないからポイントを取るのが目的ではなく、遊びと本気と交えて互いの腕を試すような打ち合いは、どこか会話に似ている。
 言葉は無口な人間でもテニスでは饒舌なプレーヤーなのだ、彼は。
 リョーマが今まで試合した様々な人間の中には、同じように普段はわかり難いがテニスでは本質が見えるという面白い人種がいた。その中でも彼は、顕著だ。
 
 だた、打ち合うのが楽しくてリョーマは時間を忘れていた。
 いつの間にか、太陽がかなりの位置まで上った事から時間が過ぎたことがわかる。
 いきなり、リョーマの上着から携帯の音が鳴り響いた。それがコートいっぱいに届き、リョーマは顔色を変えた。
 しまった……。
 ちょっと散歩と日下部に言いながら、1時間半以上も経っている。
 まずい。
 多分、間違いなく電話の相手はKeyだ。リョーマは無視することもできず、ベンチに駆け寄り携帯を取り出した。
「Hello?」
『リョーマ!お前、どこにいる』
 予想通りKeyの怒っている声がした。
「ごめん。カルが迷ってさ。遠くまできちゃった」
 嘘である。
 ふらふらしていて遠くまできたのは自分のせいだ。きっかけは確かにカルピンがテニスコートに入ってしまったからであるが。
『お前は……』
「すぐ帰るから!good-bye!」
 リョーマはそう言い切ると電源を切った。跡部のリョーマ!という叫び声は無視した。
 そして、心配そうな表情を微かに覗かせた青年に謝る。
「ごめん、帰るよ。相手してくれてありがとう」
「ああ」
 リョーマから差し出されたラケットを青年は受け取った。
 パーカーを着込み、カルピンを抱き上げたリョーマは青年に手を上げて、じゃあと言い去っていこうとする。
「あ、名前は?」
 青年は、ふと尋ねる。そのまま打ち合いをしていたため、自己紹介も何もしていない。
「越前リョーマ。あんたは?」
 リョーマは振り返り、にこりと笑った。
「手塚、手塚国光」
「テヅカ、クニミツね。俺はリョーマでいいよ。じゃあね、クニミツ!」
 そういって大きく手を振るとカルピンを抱えてリョーマは走り出す。高くまで上った太陽の光がリョーマに降り注いでいる。
 
 その後ろ姿をまぶしそうに手塚は見つめていた。





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