跡部邸で過ごす事になったリョーマは、次の日から跡部の後を付いて歩いた。とことこと付いてくるリョーマが跡部は可愛くて仕方なかった。兄弟がいないため弟とはこういうものかと深く感じ入り、懐いてくれるリョーマの手を引いて楽しく過ごした。 一緒にご飯を食べ、遊び、風呂に入り寝る。 リョーマは跡部から離れなかった。 そんなある日のことだ。 リョーマが庭に黄色い花が咲く木の前でぽつんと立ち止まり、手を伸ばして花を抱えるようにして香りをかいだ。 どうした?と跡部が聞くと、ママの好きな花なのだという。 リョーマの母親か。跡部は思う。まだ、会ったことはないがリョーマに似ているんだろうか。正確にはリョーマが母親に似ているかどうかなのだが、きっと似ているだろうと思った。リョーマの容姿で父親似だとは想像できない。 「ママ……」 小さく呟くと、リョーマはぎゅっと唇を噛むと、瞼を震わせぽろりと一筋涙を流した。 「リョーマ?」 跡部が驚き、近寄って顔を覗き込むとリョーマは小さな身体を震わせて目尻にいっぱいの涙を浮かべている。そして、我慢できなくなったのか、涙をぽろぽろと溢れさせて泣き出した。 「リョーマ?リョーマ。……リョーマ」 顔に手を当てて、泣きじゃくるリョーマに跡部は困惑した。 こんな風に泣くリョーマは初めてだ。よく考えたら幼児であるリョーマが今まで泣かなかった方がおかしいのだ。子供はよく泣く。自分も子供であることを棚に上げて跡部は思う。 「ママ。ママ。ママ……」 ああ、母親と離れているせいなのだ。寂しいのだ。悲しいのだ。 跡部は、リョーマの自分より小さな身体を抱きしめた。己も子供だから決して大きくはないが、リョーマよりは手だって大きい。震える身体から悲しみが伝わってくる。 その時はまだ子供で、よく考えれば異常な状況だということに気づかなかった。 幼子を母親と引き離して、他家で預かる。いくなんでも、おかしい。また、期間も長かった。 リョーマが母親を想って泣き出したのは、2週間ほど過ぎた頃だ。その後もしばらく跡部邸に滞在したのだが、その時点で経過した2週間も尋常ではない。 ただ、その時はそこまで考えが及ばなかった。母親を想って泣いているリョーマを慰めたかった。今まできっと我慢していたのだ。子供心に、我が儘をいってはいけないと。 とても、いじらしい。 跡部はよしよしと頭や背中を撫でて慰めた。 「なあ、リョーマ。そんなに泣くな」 胸に抱きしめたリョーマに、跡部は優しい声音で囁く。嗚咽も漏らしながら、リョーマが跡部を見上げる。 「俺が一緒にいてやるから。ずっと一緒にいてやるから。約束するから」 だから、そんなに泣くなと跡部が言うとリョーマはぱちぱちと目を瞬かせて、realy?と聞いた。跡部はYesと即答した。 こくりと頷いて泣きながら少しだけ笑顔を見せて、リョーマはしばらく跡部に抱きついて泣いていた。 抱きしめながら、この可愛い弟を守ろうと跡部は心から思った。 跡部が大人の事情がわかる年齢なった時、理由を母親である彩子に聞いた。跡部が聡い子供であり、他言しない事を理解した上で、彩子は己の大事な友人であるリョーマの母親倫子について語った。 あの時。なぜ、幼子をこの跡部邸で預かったのか。 それは、倫子がとてもリョーマを手元に置いておけない事情があったからだ。倫子は妊娠していて、リョーマには弟か妹ができるはずだったが、流産した。当然身体の体調は悪く、かつ精神的にも打撃を受けてしまった。もう、二度と子供が産めないと医者に宣告されたのだ。そのため、幼いリョーマを側に置いておけない精神状態になった。愛している我が子だが、倫子の負った精神的ストレスは大きかった。見かねた彩子がリョーマを預かったのだ。 だから、リョーマは寂しいと言わなかった。子供心にもわかっていたのだ。己の母親の体調も精神状態もよくないことを。母親の元に帰りたいと言ってはいけないと。リョーマは泣いても、絶対に帰りたいとは言わなかった。 幼子であるというのに、なんという精神力だろう。今でもそうだが、リョーマの強い心は跡部からしても尊敬に値する。決して言わないけれど。 母親同士が仲がいいため、その後も二人は時々顔をあわせることになった。 次に会ったのは、アメリカだ。跡部の方が彩子に連れていかれた。 時期はクリスマス前。冬休みに入ってすぐに、アメリカに渡った。自由に生きている彩子は事業をある程度やって後は任せ、父親も置いて最愛の親友の元を訪れた。 息子の跡部を引っ張っていくのは、なにも母親らしい訳ではなくリョーマがいるからに他ならない。それに跡部は知っていた。倫子がリョーマが懐いた親友の息子に会いたいと言っていたためだ。なんと自分の欲望に忠実なのだろう。あの母親の血を引いているかと思うと、さい先不安だ。 そんな理由で、やってきたアメリカで再び跡部はリョーマに会う。 まだ髪は長く、一見少女のようだ。洋服はズボンを履いていたが、スカートでないと少女に見えないことはなかった。元から可愛い容姿をした子供のため、服を選ばないのだ。 跡部に会ったリョーマは喜んでくれて、近所を案内してくれた。子供の足だから遠くにいけないが、なかなか異国は面白かった。 クリスマスがやって来ると、同時にリョーマの誕生日を祝った。 その時、またリョーマは深い赤色のワンピースを着せられていて、どこからどう見ても少女にしか見えなかった。きっと本人にとっては嬉しくないのだろうが、おかげで母親は達は着飾ることが楽しくて仕方ないらしい。跡部は自分が同じ目にあわなくて心底よかったと思った。 クリスマスが終わり年末になると正月はやはり日本がいいと母親達は宣い、実行に移した。 跡部邸で日本らしい正月。門松、注連縄。そしてお雑煮に豪勢なお節料理。お酒は当然付いてくる。 あれは、宴というのだろう。飲めや騒げや。いつになく陽気な母親を見た。 リョーマなど今度は色鮮やかな晴れ着を着せられ、さすがにむっつりとしていた。最後は大好きな和食で機嫌を直していたが。 結局、親同士が騒いでいる横で子供同士、和やかに遊んでいた。 そんな付き合いがリョーマとは続いた。 ある時。偶々跡部の誕生日に倫子に連れられてリョーマが日本へと来たことがある。 リョーマは驚いた顔で「realy?」と聞き、笑顔で「Congratulations!Key」と言って跡部に近寄り、頬にちゅうとキスをした。 ……少し跡部は唖然としてしまった。向こうの習慣だとわかっていても、照れくさいのだ。 だが、そこで母親の彩子が「あ、いいな。私も。リョーマ君!」と羨ましそうに、リョーマに強請った。 「birthdayなの?」 リョーマは、まっすぐに疑っていない瞳で彩子を見上げた。彩子は、さすがに口ごもり、 「……違うけど。でも。私もして欲しいなーって。だめ?」 と図々しくもお願いした。リョーマは、少し考えやがてにっこりといい笑顔を浮かべ、「birthdayにしてあげる」 と言った。当然である。リョーマは気にしていないが、跡部の方が頭を押さえたい気分だった。 なんてふてぶてしいババアなんだろう。 「いい年齢にもなって強請るのか?小さな子供に、キスを……」 跡部が刺々しく窘めると彩子は反省など全くせず、開き直った。 「いいじゃない。リョーマ君、可愛いんだもん。景吾と違ってさー。ああー、本当に。可愛い」 彩子は素早い動きでリョーマを抱きしめすりすりと頬を擦り寄せる。 「ババア!いい加減にしておけ?恥を晒すな」 跡部の堪忍袋の緒がぶちっと切れる。自分の母親の人となりが情けないことこの上ない。 リョーマを離さない彩子に跡部が実力行使をしようとすると、舌打ちして渋々リョーマを腕から降ろした。 跡部はリョーマの腕を引いて彩子から引き離し自分の後ろに庇う。そして、母親の毒牙にかけてなるものか、という意気込みが伝わる鋭い目で彩子を睨んでリョーマを連れてその場を後にする。 「悪い……」 跡部は思わず謝った。自分の母親の所業に肩が落ちる。 「いいよ。Keyが謝ることないもん」 リョーマは笑って跡部の謝罪を流すと、テニスしようと誘った。もちろん跡部に否やはない。 「ああ」 跡部は小学校へあがってから切った黒髪をくしゃりと撫でた。やっと伸ばしていた髪を切った時のリョーマは清々した顔をしていた。 跡部は苦笑を浮かべながら、家にあるコートでいいな?と聞いた。 「もちろん」 リョーマが機嫌よく答える。テニスが出来れば大概のことはリョーマにどうでもよくなるのだ。 一年に一度、よければ二度くらい会って親交を深めて来た。会わなくても時々はカードや手紙のやりとりをした。最近は会えばテニスをすることが多い。互いにテニスをしているせいだろう。第一、リョーマの父親は元プロテニスプレイヤーだ。 リョーマは父親を相手にしているせいで、幼くても身体が小さくても負けん気が強く挑んでくる。実際、上手い。 そして。 リョーマが中学一年の時の夏休みに、跡部邸で一ヶ月以上過すことになったのだ。滞在中ずっと「テニスしよう、Key」そう笑顔でリョーマは誘って来た。 夏休みのせいで跡部邸にやってきた幼なじみのような存在である忍足やジローは、リョーマに出会いあっという間にと仲良くなった。英語と日本語が混じったリョーマの言葉にもすぐに慣れて、学校で学んだ英語を駆使して二人は会話した。氷帝学園の外国語教育の賜かもしれない。ネイティブな発音ができるのだから。 結果、四人はテニスもするが、遊園地や買い物、ゲームなど遊びまくった。 今思い出しても楽しい夏休みだった。 |