ゴンドラに乗って運河を一巡り。それが、『ヴェネツイアン・ゴンドラ』の売りである。乗り場から、不安定なゴンドラに乗るとパラッツオ・カナルと呼ばれる美しい水路をいくつもの橋をくぐり抜けながらゴンドラ乗りが細長い櫂を使って器用に進んでいく。 ゆらゆらと、揺られながら水面に起きる波にそっと手を伸ばし、冷たい水の感触を楽しむ。 「綺麗ね」 「優雅な旅ね」 うっとりと囁きながら、楽しんでいる母二人。もちろん二人は前方に座り移り変わる景色眺めている。後方に座った息子二人は、ぼんやりとゆっくりと流れていく景色を意識の端で認めながら、別のことを考えていた。 「なあ、リョーマ」 「うん?」 「今日は、多分夕食取ってパレード見てホテル帰るだろうけど、時間がないからそれほどは回れないだろう。そうなると、明日もシーを回ることになると思う」 「だろうね。……今日はもう仕方ないけど、明日はテニスしたいな」 「ああ。だから、明日は少なくとも夕方には別れて移動した方がいいな。ここからだと、どこのテニスコートがいいだろう……。3時間ほど室内コートの予約をしておく」 「Thanks」 さくさくと予定を立てていく跡部に、リョーマが機嫌良さそうに口元に笑みを浮かべ隣に座る跡部に身体を寄せて頬にキスをした。 「現金だな」 つい、とリョーマの額を指で軽くはじき跡部も笑った。 母親達に対抗するには二人で協力するしかない。跡部には跡部にしかできないことを。リョーマにはリョーマにしかできないことを。役割分担を互いにわかっているため、打ち合わせる必要はない。 「だが、さっきのは、本気か?」 「さっきのって?」 「本場のってやつだ」 ああ、とリョーマは思い出すように頷き、 「それなりに。どうせならステイツがいい。アトラクションも壮大だし迫力満点だし。1日では見られないもん。1週間くらい回る気でいないと、とてもとても。人が多いのは嫌だけど、あそこは元が広いから気にならないし、列なんてそうできないから。……Keyと一緒なら楽しいと思うよ」 俺、絶叫系も得意とリョーマは笑った。 どうやら、本気らしい。母親達は横に置いておくとして、リョーマと共に本場で1週間くらい遊ぶのも悪くない。どうせリョーマのことだから、遊んだ後はテニスしようと言うのだから。 「そうだな。時間が取れたらな」 すぐには無理な身分である。跡部はこれでも氷帝のテニス部部長であり、生徒会長であり受験生なのだ。 「うん!」 跡部の立場をよく知っているリョーマは、いつかねと結んだ。 日本の高校に入学してきてから、そういえばあまり遊びに行っていない。中学生の時の滞在は忍足、芥川と跡部を交えた4人でテニスは言うまでもないが、かなり遊びまくったことを覚えている。年齢だけのせいでもないだろう。それは、リョーマが無闇にどこへでも行かないようにしているためだ。 身の安全のため、一人では出歩かないようにこんこんと言い渡されている。それでも、全くという訳にはいかないのが現状だし、窮屈な生活などしたくないリョーマはそれなりに忍足や芥川、テニス部部員などと誘いあって遊んでいる。 暇を見つけてどこかリョーマが行きたい場所へ行ってもいいかもしれないなと跡部は思った。 パレードを見ながら夕食を取って、ホテルに帰ってきた。 部屋は4人が泊まれるファミリータイプだ。本当はスイートが良かったのだが、4ベッドある部屋がファミリータイプしかなかたため、彩子はそこを取った。それでも、一番広い部屋を用意したらしい。 バスルームにテレビがあるし、風呂にはジェットバス、別にシャワーブースもある。インテリアもシックな色合いに統一され家具などもアールデコスタイルだ。 ベッドルームは2つありそれぞれに2ベッドある。母親達と息子達とに当然別れて荷物が置いてある。 「じゃあ、先にお風呂に入るわね」 「どうぞ」 手をひらひらと振り跡部は自分の母親を見送った。リビングでは残った3人がお茶を飲んでいる。 「そうそう。朝はルームサービスで朝食を取るつもりなの。時間は一応8時にお願いしてあるから、それまでに起きてね」 にこりと上品に微笑みながら倫子は決定事項を告げた。 「はーい」 それには、リョーマが片手を上げて了解の返事をした。 「寝坊しないでね」 我が子のことをよく知っている母親は、そう笑いを堪えながら注意した。眠ることとお風呂とテニスが好きなリョーマである。遊び疲れると惰眠を貪る傾向にある。 「わかってるって。それからさ、明日はテニスしたいから夕方には別行動を取るから。彩子さんにも言っておいて」 タイミングを見計らい、リョーマは切り出した。元々テニスの練習はしたいとお願いしてあるのだ。できるならその時間を多く取りたいし、疲れることのお付き合いを少なくしたいと思うのが人情であるが。欲張りはしないことにする。 リョーマが母親と顔をあわせ他愛もなく遊ぶことで、少しでも母親が安心してくれるなら多少の我慢はするつもりなのだから。アメリカと日本と離ればなれになっている。母親の精神的負担を思えば、リョーマはその願いを無下にできない。 「はいはい。行ってらっしゃい。彩子にも言っておくわ」 倫子は、にこにこ笑いながらお茶を飲んでリョーマを愛おしそうに見つめた。手元から離れている息子の元気な姿を見られて、嬉しいのだとそこからありありと感じることができる。 「じゃあ、よろしく。あ、遅くなるかもしれないから、夕飯はそっちで取っておいて。こっちは別に食べるし」 そうリョーマは気軽に付け足した。仕方なさそうに倫子は頷いて跡部に視線を向け「景吾君、よろしくね」とお願いした。 「確かに」 跡部はもちろんと首肯した。昔から信頼を置いている跡部の態度に倫子は安堵を漏らし、何かあったら電話してねと返した。 その跡部と母親のやり取りを見て、リョーマは俺だけでは信用できないってこと?と心中ふくれていた。 翌朝、眠い目を擦りながらリョーマは指定された時間に起きた。跡部はさっさと目覚めシャワーを浴びて隙間なく準備が整っている。それを横目で見ながら、ベッドから起きあがり眠気覚ましにシャワーを浴びて戻ってくると、すでにテーブルには朝食が湯気を立てて並んでいた。朝の光が降り注ぐなかなか理想的な光景である。 リョーマを除く3人はすでに準備万端整っているのが、なんとも言えない気分になる。彩子はカジュアルなブラウススーツに身を包み、跡部によく似た美貌で涼しげに微笑んでいる。倫子は細身のパンツに柔らかそうな素材のジャケットにいつもは結っている髪を背中に流している。その姿は二人とも大層若々しい。 跡部は色柄のシャツにジーンズ、生成色の麻の上着は上物らしく形が美しい。 これに加わるのかと思うとリョーマは胸中でため息を付きたくなった。もっとも、すでに慣れているから今更であるが。 とはいえ、リョーマとて目立つ要素を持った人間であるのだが自身のことは棚に上げていた。 この日リョーマが身につけた洋服といえば、白いシャツにブラックジーンズ、ジップアップジャケットで、彼に誂えたようにぴったりのデザインだった。それをチョイスしたのは、母達でありリョーマを着飾らせることが大好きな人種だった。身につけるものに関してそこまでの関心がないリョーマは動きづらい物以外は大抵文句も言わず着る。 おかげで、リョーマのクローゼットは母達のセンスで選んだ洋服がどっさりと納められていた。まるで、愛娘のように洋服を与える姿は、娘がいない反動かもしれない。もし、二人に娘が生まれていたら今のリョーマなど比ではない程貢がれていただろう。 リョーマでも、端から見れば相当であるのにである。結局困った愛の行き着く場所にリョーマが選ばれたのだから、結果は同じなのかもしれない。 「早くいらっしゃい」 「リョーマ、座って」 母親達に促されリョーマは椅子に腰を下ろした。すると、目の前に紅茶の入ったカップが置かれる。 「Thanks」 サーバーしてくれた跡部にお礼を言って、リョーマは手をあわせた。 「いただきます」 「ああ」 ルームサービスで用意されている食事は、洋食である。リョーマとしては和食がいいのだが、ここで文句を言っても意味はない。我慢である。 グリーンサラダに目玉焼きとカリカリベーコン。パンは焼きたてでほかほかしていて、クルミブレッドとミルクブレッドの2種類が籠に並んでいる。フレッシュジュースはオレンジ。ヨーグルトには細かくした南国フルーツが入っている。 リョーマは遠慮なく、頬張る。 跡部邸での朝食に比べれば、少々劣るが許容範囲内の料理である。味やサービスに関して、跡部邸の使用人は類をみないほどのレベルにある。様々な分野から引き抜かれてきた専門の人間が、愛情をもって尽くすのである。それにホテルのサービスを比べる方が間違っている。 リョーマが満足いくまで食べると、すでに他の3人はお茶を飲みながらのんびりと会話に興じていた。 「ねえ、リョーマ君」 「何?彩子さん」 「まとまったお休み取れたら、本当に本場のディズニーへ一緒に行ってくれる?」 いつもは問答無用で人を振り回すというのに、今は珍しくお伺いを立ててくる。昨日から考えていたらしい。リョーマはくすりと口元に笑みを浮かべ、彩子を下からのぞき込んだ。 「いいよ。すぐにって訳にはいかないけど。予定を早めに立てておいてくれればそれにあわせるから。お休みが取れるようなら言って?」 高校生という年齢になれば様々な都合もある。つきあいもある。いきなり海外へと連れだし、1週間以上つき合わせるには、いくら彩子が傍若無人でも躊躇する。それがわかっているためか、リョーマは予め日程を確定するなら構わないと返事をしたのだ。 「ほんと?だったら、がんばって休み取るわ!」 途端朗らかに顔をゆるめ、彩子は意気込んだ。今から万全の用意を調えて行く気満々である。隣で倫子も穏やかな表情で微笑ましく見守っている。 「ね、Key」 リョーマはウインクしながら跡部に振った。 「そうだな」 昨日の会話を思い出して、跡部も小さく頷いた。「Keyと一緒なら楽しいと思うよ」と言ったリョーマ。跡部に否やはない。 |