「黒猫のワルツ」災厄の日々1





「あー、空が青いね」
 
 首を上げた先にある蒼穹の空を見て、リョーマはため息を付いた。
 晴れ渡った今日は、絶好の練習日よりである。昨日までなら、間違いなくテニスの練習に励んでいたことだろう。今度他校と練習試合をすると言っていたから、校内でも選手同士が試合をしようという話になっていた。楽しみにしていたのに……。
「リョーマ」
「何、Key」
「そうため息を付くな。俺まで憂鬱になる」
 気持ちはわかるが、と跡部は肩をすくめてみせリョーマの頭に手をやりくしゃくしゃと撫でた。
「……」
 リョーマも仕方なさそうに小さく笑うと、テーブルにある紙コップを掴み、ふーと息を吐いてから一口すすった。
 口中にどっしりとした珈琲とミルクたっぷりのカフェオレの味が広がる。
 オープンテラスになった場所から行き交う人達がはしゃいでいる様が伺える。ここで仏頂面をしているのは多分二人だけであろう。
 なんと言っても夢の国だ。
 誰もがここに微笑みを求めてやって来る。年齢も忘れ世俗を忘れただ楽しく過ごす場所。
 そう、浦安にあるネズミの国。それも海の方だ。
 
 
 


「ひさしぶりね、リョーマ。元気にしていた?」
 顔を見るのは、2ヶ月ぶりである。久しぶりではない訳では決してないが、リョーマからすれば、国際電話やメールなどやり取りしているため、あまり久しぶりという実感がない。
「母さん、いつ来たの?」
 リョーマは迎えの車を下り玄関を駆け足で走り、リビングまで速攻で顔を出すとソファに優雅に座る倫子に近寄り疑問を口にした。
「もちろん、さっきよ。それで彩子とお茶しているの」
 確かにテーブルの上にはカップが置かれ、紅茶の香りが漂っている。
「そうよ!倫子が来るっていうから私も仕事片づけて来たのよ。多少、残っているけどそれは部下に任せてきたし。私も最近休暇を取れていないから、この際まとめて休暇を取ることにしたの」
 彩子は、おほほと上機嫌に高笑う。
「嬉しいわ。彩子と過ごせるなんて。景吾君もリョーマもいるし。本当に楽しみね」
 にこりと倫子にまで微笑まれて、リョーマは降参したように項垂れた。
「それで、どのような予定ですか?」
 最初から諦めていた跡部は、母親達に聞いた。リョーマの後を追い、母親達がいるだろうリビングへ入ると落ち着くまで黙って立っていたのだ。
 返答によって、自分達の運命が決まるのだ。倫子の滞在期間はどれだけか。彩子の休暇はどれだけか。日数によって行く場所に差が出てくる。
「私は5日間、休暇をもぎ取ったわ」
「私は1週間ね。これには移動時間も入っているから、だいだい彩子と同じくらいかしら」
「なるほど。それで、行く場所はもう決まっているんですか?」
 心の中で5日間だと微妙だなと跡部は思いながら表面は穏やかに先を促した。
「ええ。倫子がシーに行ったことがないっていうから、それならリゾート気分で遊ぼうと思って」
「そうなの。日本のにはランドの方しか行ったことがないから。やっぱり話のタネに行っておくべきかしらと思って。彩子に聞いたらホテルやショップも昔より充実しているっていうし」
 それはそれは楽しそうにころころと笑う倫子に、跡部は胸中で大きなため息を付いた。
 母である彩子は、大事な親友の頼みを最大限叶えるように努力するだろと目に見えていた。それをしないはずがないのだ。きっと、すでにホテルには予約が入っているに違いない。
 まあ、どこか遠方へ旅行に連れて行かれるよりましなのかもしれない。
 リョーマがテニスがしたいと嘆いていたが、都内近辺ならどこにでもテニスコートはあるから、どうにでもなるだろう。そう跡部は考えた。
「そうですか」
「そうよ。だから、リョーマ君もいいわよね?」
「……はい。ご存分に」
 口元を引きつらせながらリョーマが答える。
「ただ、テニスがしたいなって。身体が鈍るから、練習を欠かしたくないし」
 そう、跡部が助言した通り彩子に訴えた。
「わかったわ。テニスする時間は考慮に入れましょう。その代わり、それなりに付き合ってね」
 にっこりと笑う彩子に、こくりとリョーマは頷いた。諦めの境地である。過去を思い返してみても、母親二人に勝てた試しがなかった。余計な体力は使うべきではない。体力と気力の無駄だ。それが身に染みている跡部とリョーマは対処法も学んでいた。
「ホテルには何でもあるっていうし。必要なものだけ持って行きましょう」
 颯爽と倫子が立ち上がった。
 すでに、行く気満々であるらしい。
 自分たちがまだ制服姿で帰宅したばかりだということは考慮に入れてもらえないらしい。
 着替えくらいさせてくれ、とさすがに思った二人は15分欲しいと言い置いて部屋から出ていった。その息子たちの後ろ姿を満足そうに母親達は見ていた。
 
 
 
 

 付いた先のホテルは、イクスペアリのすぐ隣にあるアンバサダーホテルだ。
 シーからとても、近い。
 アールデコスタイルのインテリアでまとめられている室内に、ロビーは3層の吹き抜けで、優雅な空間が広がっている。入った中央の奥には両サイドから大階段が続いている。
 一端、部屋に荷物だけ置いてすぐに園内へと入った。
 
「まず、ファストパスをもらって来ないと!最初は、『クリスタルスカルの魔宮』よ。人気があるだろうから、開いた時間にゴンドラに乗りましょう」
 さくさくと計画進める彩子はどうやら下調べがしてあるようだ。倫子を連れ回りエスコートする気らしい。
「ファストパス?」
 聞いたことのない言葉に倫子が首を傾げる。
「ああ。近年できたのよ。ずっと長時間待っているの疲れるでしょ?折角来ても待ち時間だけで終わっちゃうからその対処法として、希望するアトラクションの入り口付近に設置された発券機にパスポートを差し込んでファストパス・チケットを受け取るの。それに指定時間が記入してあるから、その時間まで自由に過ごせるって訳。この制度を使う人と今までのように列に待っている人とでは入り口が違うから、混乱も不満も起きないように配慮されているのよ。これはランドもシーも同じで、ただ長い列ができる混むものだけしかやっていないけどね」
 明快に彩子は答えた。
 さすがである。
「へえ、そうなの。便利になったのね」
 倫子はすっかり感心している。
「……ふうん。でも、やっぱり長時間待つのは遠慮したいなあ」
 説明を聞いていたリョーマが愚痴った。待つことが大嫌いのリョーマである。それを苦笑して認め……さすが長いつきあいであるから性格はばれている……彩子は、提案した。
「私達だってそんなに体力ないから、大行列には並ぶ気はないわよ。若いあなた達とは違うんだもの。一応、今日は平日の夕方で人は少ない方だからいいと思うけど、明日は人も多いかしらね」
 腰に手を当てて、ふむと彩子考える。
「俺、どうせ行くならステイツの方に行きたいな。あっちの方が広いしアトラクションも迫力もあるし、何より本場だ。だから、いつか休暇が取れたらそっちに行こう、彩子さん。今回は、こっちに付き合うけど、行列ができていたら俺達は待っているから二人で入って来てよ。ね?」
 可愛らしく微笑み、上目遣いでお願いするリョーマに彩子はさくっと落ちた。
「わかったわ!そうね、いつかアメリカの本場に行きましょうね!そう思うと、休暇を取るのが楽しみだわ」
 超ご機嫌である。
 そうして「行きましょう」と先導して歩いて行く。隣を倫子が楽しげに歩き、その後ろを跡部とリョーマが付いて行く。
「……やるなあ」
「Keyが、言ったんじゃん。強請れって。最前を尽くせって」
 感嘆を漏らす跡部にリョーマはふんと鼻を鳴らす。
「効果抜群だな。ほんっとうに、あの人はお前らに弱い」
 しみじみと呟くに跡部には少々疲れた色が見えた。
 昔から、親友である倫子に弱く、その息子であるリョーマも溺愛していた。自分の息子よりも可愛がっていた節がある。多分、この手の顔に弱いのであろう、我が母親は。
「いいんだよ。そんな事今はどうでも。……彩子さんのは今更だし!それより感謝して欲しいくらいだけど?列に並ぶのKeyだって嫌でしょ。これで、悠々とお茶でもしながら待っていられるよ」
「ああ。感謝している」
 恩着せがましいリョーマの言いように跡部は苦笑する。わざと言っているのだから、可愛いものだ。そして、黒髪をさらっと撫でて、行くぞ声を掛けた。
 少し前で倫子が手を振っている。どうやら、目的地に着いたらしい。跡部とリョーマは早足で向かった。





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