どこだ、ここ……? 重い瞼を持ち上げて、真っ先に視界に飛び込んで来たのは白い天井。 そして薬品の匂いがする室内。 自分は簡易なベッドに寝かされているようだ。 どう見ても病室。そして、自分が収容された部屋。 なんで、俺はここにいるんだ……? エドワードは記憶を辿る。 ふと、蘇る記憶は目に焼き付いて離れないだろう女性の最後だった。 血に濡れて胸を押さえ倒れ伏した身体から血溜まりが広がった。 「死んでも私はあの子に逢えないわ。だって、私が行くのは地獄だもの……」と残して、微笑むと息途絶えた。 己が覚えているのはそこまでで。 あの時、大佐がいた。 カーテンの隙間から太陽の光が差し込んで、僅かに見える窓越しの穏やかな風景。 その光の明るさに、一体、今は何時なんだと思いながらエドワードは肘を付いて身を起こそうとする。そこで己の右腕と左足が元通り付いていることを知る。 思わず、機械鎧の右腕を握って開いてみた。何事もなく動くようだ。ふうと安堵の吐息を付いて、結ばれていない髪が頬に掛かり邪魔くさくて、エドワードはそれを後ろへかき上げる。 「あ、起きたの、兄さん?」 ドアの開く音がすると、アルフォンスがひょいと顔を出した。 「アル……」 「良かった。気が付いて。ずっと寝ていたんだよ」 白い花が生けられた花瓶を持ったアルフォンスは部屋を横切り、花瓶を備え付けられた小さな台の上に置くと、ベッドの横にあるパイプ椅子を引いて腰掛けエドワードの顔を覗き込む。 「顔色良さそうだね。どこかおかしいとこない?大丈夫?」 「ああ。平気」 エドワードはベッドの上で自分の腕や足を伸ばしたり回したりして動かし異常がない事を確かめる。若干まだ身体が重いがそれ以外は至って問題がないようだ。 「そう。ああ、ここはローザントの病院だよ。すぐに運び込める場所がここしかなかったから。あと、兄さん意識が戻らなかったからあれから1日経っているよ」 「1日って、丸1日?」 「丸1日。だから、兄さんが意識をなくしてから一昼夜後の今は午後。わかった?」 「……」 嘘だろ、とエドワードは言いたい気分だった。まさかそれほど眠っていたとは思わなかった。どうりで身体が怠いはずだ。寝過ぎではないのか、と他人が聞いたら呆れる事をエドワードは考えた。 「兄さん」 「うん?」 アルフォンスの声にエドワードは頭を抱えたい気分だったが顔を上げた。鎧の姿で表情などないけれどエドワードにはアルフォンスの喜怒哀楽がわかった。その気配で笑っている事や怒っている事、困っている時、焦っている時と考えなくても自然にわかる。 今は、真摯な声だった。そして雰囲気がする。 「無事で、良かった……。本当に、本当に」 貯めていた感情を吐き出すような声音でベッドに腕を付いてアルフォンスは俯く。両の手をぎゅっと握り拳にしている様が、どれほど心配をかけたか物語っている。 「ごめんな、心配かけた」 優しい弟はとても気にいていたに違いない。 うっかり1日中寝こける自分を見て心を痛めていたのだろう。 エドワードは側にあるアルフォンスに腕を伸ばした。一度その拳を上から重ねて、鎧の身体を抱きしめる。自分の体温がアルフォンスに伝わる事はない。抱きしめている感触さえどこまで伝えられているのかと思う。でも、伝わらなくても構わなかった。 必ず、元に戻してやる。 自分に残されたたった一人の弟なのだ。 このままでなんていない。 あの女のようには、ならない。 逝く先は同じ地獄だけれど、生きている間に必ず叶えるのだ。 エドワードは自身に言い聞かせる。 「ううん、心配するのは当たり前だからいいんだ。こうして無事に戻って来てくれだだけでいいんだ」 アルフォンスはエドワードの謝罪を首を振って否定する。 兄は知らない。 あの瞬間を。 意識を失った兄を女に浚われた時の己の絶叫を。抵抗もできず奪われた自分の不甲斐なさと悔いと絶望を。 こうして触れられる距離にいてくれるその安堵感がどれほどのものか。 己を抱きしめる兄の背中を加減しながら鎧の腕を回す。兄が柔ではない事を知っていても小さな身体は強く抱きしめたら壊してしまいそうだ。 二人は無事を確かめあうようにしばらくそのままじっとしていた。 が、今一現状が把握できていないエドワードは顔を上げると結局口を開いた。 「えと、それでさ。一体全体どうなったんだ?」 自分が知らない間に、何があったのか。あの瞬間、正に危機的状況に都合良く大佐が現れた。つまり、犯人を特定できたということだ。 「兄さんが浚われてから、大佐達と合流したんだ。そしたらヒューズ中佐から連絡が入ってね、憲兵の詰め所に戻って電話して情報を貰った。すぐに車で向かって……無闇に押し込むのも不味いし、相手はとんでもない使い手だし。結局大佐が行くことになった。側にいて足手まといになるのも避けたかったら車の側で僕たち、中尉と少尉も待機していた。窓から漏れる光があって。そこにいるかもしれないと祈るように待っていた。……銃声が響いてガラスが割れる音はするし、僕たち合図がしたら向かう手はずになっていたから、はらはらしながら待っていたんだ」 アルフォンスはエドワードの疑問に簡略して答えた。 本当なら氷漬けにされてロイに溶かしてもらった事等あるのだが、それは今必要ない。 一方エドワードは大佐一人が現れて、他の人間が踏み込んでこなかった理由を知る。 女を撃った銃弾。普通なら射撃の名手のホークアイが実行する。 けれど、大佐から匂った硝煙といいガラスを割って踏み込んだタイミングといい、撃ったのは大佐以外考えられなかったのだ……。 「大佐が意識のない兄さんを抱き上げて歩いて来た時、安堵と不安がない交ぜになった気分だったよ」 生きていてくれて良かったと思う安堵と意識を失いぐったりとしている不安。 シーツに包まれた兄を見た時の衝撃はきっと忘れない。 大佐に感謝した。 そして、奪われた自分の力のなさに悔いが残る。足りない自分を、このままではいけないという焦燥感が襲う。 部屋の残状は、目を覆う程だった。 血溜まりの中に倒れ伏す女性。錬成陣が描かれていた床は見事に崩れていてぼろぼろだった。ガラス窓は壊れ、破片が飛び散ってランプの光にちかちかと鈍く輝いている。 その、後景に一瞬立ちつくす。 何が、あったのか瞬時に悟った。 説明はいらなかった。 この場所で行われていた事、それは禁忌の人体錬成。人が、子供が浚われていた事実が頭をかすめ、兄が浚われた現実が何に起因していたのか知る。 結局その場に誰かが残り、これからの対応をしなければならず。ハボックと憲兵が残った。一台の車で来たため、ホークアイが運転し兄を抱えたままの大佐に自分が乗り込んで病院へ走った。 軍への連絡、対応。 兄を病院へ預け、無事を確認すると大佐と中尉は中央への報告、東方司令部への応援と目まぐるしく働いていた。 アルフォンスは、当然兄に付き添っていた。 目覚めない兄の寝顔をずっと見ていた。時間を見つけて大佐も中尉も少尉も顔を出してくれて、まだ目を開かない兄を見舞った。 強い薬を使われていたらしい。その上ままならない身体で力も使ったようだ。相変わらず無茶をする。おかげで意識が戻らない。身体が休養を欲しているだけだから、大丈夫ですよと医者が保証してくれてどれほど安堵したことか。 「あー、今回は足を引っ張ってばかりだな……、情けねえ」 自分の知らない間の事を聞いたエドワードの感想は、そんな的外れなものだった。 自分達が何に怒り、絶望したか本当の意味を兄はわかっていない。 きっとあの女性に掴まった事も自分の力がないせいだと思っているのだ。みすみす目の前で浚われた自分の焦燥感も自分こそが感じる情けなさもわかっていない。 なんでこんなに、馬鹿かなあ……。 頭はいいのに、人の感情にも聡いのに。自分に掛けられる好意も気遣いも鈍いのだ。 そうでない兄など知らないけれど、それでこそ兄なのだけれど……。 仕方ないか、とアルフォンスは思う。 何があっても、変わっても変わらなくても、自分の兄なのだから。 「もう少し寝てたら?それとも先生呼んで来ようか?」 「いいよ、もう。十分寝たって」 エドワードはひらひらと手を振る。 ちなみにエドワードの平気、大丈夫、何でもないは信用ならない。アルフォンスはそれを鵜呑みにするほど付き合いは浅くなかった。生まれた時からの付き合いは、誤魔化しが一切効かない。それなのに、時々エドワードは辛くても平気な顔をするのだ。その度にアルフォンスが問いつめたい事を我慢しているなんて、エドワードは知らない。 「兄さん、いいから横になって」 問答無用でアルフォンスは兄をベッドに押し戻した。衝撃で長い金の髪がばさりとシーツに散らばる。 「アルっ」 髪を乱して反抗しようとするのを軽く押さえ込んで、言うことを効かないと牛乳の刑だよと脅した。ぐっと詰まり反抗を止めたエドワードからアルフォンスは手を離す。 そこへ、軽いドアを開ける音がした。二人が振り返るとそこには青い軍服の男女が立っていた。 「やあ、鋼の」 「こんにちは、エドワード君」 ロイとホークアイだ。室内へ入りエドワードの側までやって来る。 「一応、見舞いだ」 ロイが持っているのは、果物籠だった。籠には林檎や洋梨、オレンジ、バナナにメロンなどが盛ってある。花ではなく食べ物を選ぶ時点でエドワードの価値観を心得ている。 「ありがとうございます」 アルフォンスはエドワードの代わりに果物籠を受け取って頭を下げた。 「……サンキュー」 そっぽを向きながらも小さくお礼を言うエドワードは大層珍しい。 「僕、折角だから剥いて来るよ」 アルフォンスは籠から林檎とオレンジを掴むと小さな戸棚にある皿とナイフを持ち部屋から出ていった。 気を使ったのだ。 軍として犯人と相対したエドワードの話をまだ聞いていない。事情聴取は必用だった。軍人ではない自分が席を外すという必要性をアルフォンスは心得ていた。 |