「君ぞ恋しき」3





 司令部の屋上から見下ろす街並み。中央には及ばないがイーストシティも都市の一角だけあっていつも賑わっている。駅を中心に街が広がり数多の店が並び商売を営んでいる。街から街を繋ぐ駅は南北へ線路が走っている。汽車がちょうど着いたところのようで、煙を上げているのがわかる。
 東部はまだ不穏だというけれど、目に見えている部分だけで判断するなら平和に見えるだろう。
 いい天気だ。
 そのせいか、人も出ている。
 頭上を眺めると、真っ青な空がどこまでも続いていて太陽がさんさんと輝いている。
 悩むのが馬鹿らしくなるほど、いい天気だ。
 この空に浮かぶ雲は故郷であるリゼンブールまで届く。
 きっと、どこでも空の色は綺麗な青い色をしているような気がする。
 誰が見ても、どこでも見ても、どんな気持ちで見ても同じだ。
 
 
 わかっている。
 自分だってわかっているのだ。
 ただ、溢れるように沸き上がってくる感情が押さえきれないだけで。留めておけないだけで。
 マーガレットの笑顔が脳裏に浮かぶ。
 優しい緑色の瞳。深緑の色彩は生ける植物の根源の色だ。
 その色を見ているととても落ち着く。
 自分達兄弟にそんな瞳で笑いかけてくれる度、嬉しかった。暖かい気持ちになった。
 雨宿りしていきなさいと、優しさを見せられた時その手の柔らかさに今は亡い母親を思いだした。
 見返りを求めない親愛。
 心に積もるわだかまりを吹き飛ばすようなモノをもっている女性。
 人を幸せにする人だった。人気者だった。
 彼女が青白い顔で血を流している姿を見た時、背徳を犯した瞬間の罪の証を思い出した。
 絶望。絶叫。慟哭。切望。
 およそ、あらゆる激しい感情が吹き荒れる嵐のような、瞬く程短い時間。
 忘れることのない記憶。魂まで刻まれた罪の烙印。
 鮮やかに蘇る罪と罰の奔流に、全ての音が消えた。
 
 どうしてなのか。
 好きな人を大切にしたいという気持ちは誰にでもあるはずだ。
 想う相手に好きになって欲しいと望む。それだって、理解できる。
 好きな人に嫌われたら辛い。
 自分に笑いかけてくれたら、名前を呼んでもらって話をして過ごせたら嬉しい。

 けれど。
 振り向いてもらえなかったからといって、どうして殺すのだろう。
 殺して、自分のものにしたいと思うのだろう。
 エドワードにはわからなかった。
 
 この世からいなくなってしまったら、二度と逢えないのに。
 殺してしまったら、笑いかけてくれない。話しかけてもくれない。声も聞けない。
 自分の想った分だけ想いを返してもらう事などできるはずがないのだ。
 気持ちは等価の法則ではない。
 成り立たないのだ、初めから。
 
 何を捧げても、人の心は手に入らない。
 己の持てるもの全てを、魂も、肉体も、全てを差し出しても、手に入れられないものがある。
 錬金術師は、等価交換の原理を知っている。
 でも。
 心は、同じ分だけ返って来ることはない。同じだけ愛してくれるなんて幻想だ。
 他人の心なんて、本当の意味で理解できることはないだろう。
 心臓は重さや構成物質が分析できても、心は重みも人それぞれで感じ方も違う。
 そんな、想いをどうして身勝手に欲しいと言うのか。
 
 あの男は間違っている。
 間違っているのに、どうしてあんなに嬉しそうに幸せそうに笑うのだろう。
 エドワードが見た男はマーガレットの亡骸を抱いて、微笑んでいた。
 彼女を自分のものにできた男は満足そうだった。
 彼女の指にはまった金の指輪。男の愛の印。
 まるで、彼女をそれで繋ぎ止めようとしているような。自分のものだという証のような金の鎖。
 
 狂っている。そう思った。
 彼女の笑顔を誰にも見せたくないなんて。彼女の名前を誰にも呼ばせたくないなんて。
 独占欲、と言うにはあまりにも利己的で排他的な願いだ。
 他人の介入を拒絶し、彼女と二人の世界に住もうとした男。
 
 彼を、憎いのか、哀れんでいるのか、蔑んでいるのか、同情しているのか、エドワードにはわからなかった。
 どんな感情を向けていいかも、わからない。
 許せないという気持ちだけは定かであったけれど……。
 
 
 
 

 屋上へ続く扉を開けると、風が吹き込んできた。ロイは目を眇めながら一帯を見渡した。目の端に赤いコートの小さな子供が飛び込んでくる。
「鋼の」
 ロイは少年を呼んだ。
 声が聞こえているだろうに、返事をしないエドワードにロイは近付く。
「鋼の、アルフォンス君が心配しているよ」
 屋上の端という非常に危険な場所に腰掛けているエドワードの一歩後ろでロイは立ち止まる。
 ロイが背後に立ってもエドワードは無言だ。
 振り向きもしない。
 ロイは一度エドワードが見つめている先の、真っ青な空にぽっかりと浮かぶ白い雲と輝く太陽いう極普通で穏やかな景色を手を翳して眺めるが、視線を戻して今度ははっきりとした声で呼んだ。
「鋼の」
 エドワードはゆっくりと振り向いた。
 二人の視線があう。瞬きする間互いを無言で見つめるが、ロイは口の端を釣り上げて小さく笑いを乗せた。
「好きな相手に、同じだけ好きになって欲しいと思わないかね?」
 その台詞は昨日執務室で聞いたのと同じものだ。
 報告に来ていて、書類を提出しながら説明をした後の世間話でなぜだかそんな話題になった。
 その時、エドワードは馬鹿馬鹿しいと答えた。
 恋とはそういうものだよというロイに理解できないと表情で告げると、子供扱いされた。それを思い出して、今この場で同じ質問をするロイにエドワードは内心苦笑する。
 昨日のことが随分昔の事のように感じる。たった一日だけなのに、すでに感情も考え方も変化している。
「人の想いに等価交換なんてない。同じだけなんてあり得ない。望むものじゃない」
 エドワードは断言した。
 同じなんて、この世に存在しないのだ。
「理性では、誰でもそうだろう。けれど、人間は弱いものだからね」
 恋をすると、そう思ってしまうのだよ、とロイは大人の顔で言う。
 エドワードは子供だ。まだ身を焦がすような激しい恋などしたことはない。経験がないから、恋とはどういったものかと言われてもぴんとこない。
 反して、ロイはいい大人だ。
 すでに恋の一つや二つどころか、百戦錬磨。大層女性にもてていると軍でも噂されている。実際ロイに狙っていた女性を取られたと愚痴めいた醜聞もそこかしこで聞かれた。
 それがやっかみであるのか、事実であるのかはエドワードの知るところではないが、半々ではないかというのが大方の推測だ。
「それでも、だ。俺はあいつを許さない。許せない。禁忌を犯した俺が言う権利はないのかもしれないけれど、人間の弱さを理由にして許す事はできない。好きになってもらえないからといって、相手を殺していい訳がない。それで自分のものになんて決してならない。……死んだ人間は生き返らないのに」
 二度と笑いかけてくれないのに。自分を見てもくれないのに。
 亡くした母親が兄弟に笑ってくれることはないのだ。
 絶対に、後悔する。
 愛しているからなんて理由受け入れられない。
「あんな理由で人を殺しては駄目だ」
「……あんな理由ね」
 ロイは目を細める。
 何か含んだ口調だ。子供の言い分を仕方なく聞いている、と感じる。
 しかし、エドワードは大人の事情など、理解したいとは思わなかった。納得しては、いけないと思う。そこまで、達観できないし、したくない。
 マーガレットが死んだ事を、仕方ないでは済ませてはいけない。
「俺は国家錬金術だ。軍属の身だ。いつか必ず人を殺す日が来るだろう。どんな理由があったとしても人殺しは人殺しだ。許されはしない。けど、だからこそ。好きな人を、自分のエゴで殺しては駄目だ」
 強い瞳。
 金色の両眼がロイを射抜く。
 初めて出逢った時、死んだ目が焔を得て生き返った様と同じように輝いている。
 強烈に人の意識に入り込んでくる目だ。
 その感情をまざまざと伝える瞳は、彼が持つものの中で一番彼らしい。
「理由があれば人を殺してもいいと?」
「違う」
「君が言う、あんな理由を否定する意味はあるのかい?人殺しに理由はないよ。第一、君の理屈で言えば、私は立派な人殺しだ。それも大勢の民を一度に葬った恐ろしい殺人鬼だ」
 面白そうに、謡うようにロイは言う。
 イシュヴァールの内戦で生き残った軍人。その活躍のせいで一気に上り詰めた男。
 焔を操る国家錬金術師が活躍するという事は、大勢のイシュヴァール人を殺したということだ。
 命令は、殲滅。
 戦場では相手を殺さなければ自分が死ぬことになる。
 敵となった相手に恨みはなくとも、命令であれば理由なく人の命を奪うのが軍人だ。
 軍人は忌み嫌われ、恐れられる。
 その要因を体現しているような男だ。
「これからも軍の命令一つで顔色も変えずに殺人を犯す悪魔だ」
 国家錬金術師は軍の狗であり、悪魔だと影で囁かれている。
 人間兵器。
 たった一人で何百人という人間を滅ぼす事ができる兵器だ。
 その戦場で恐れられ、畏怖され、功績を認められた焔の錬金術師。別名、赤い悪魔。赤い炎が上がっている場所に味方は誰も近付かなかった。その焔に自分が巻き込まれることを恐れて。
「この手から生まれる高温の焔であっという間に人は死ぬ。私は簡単に人の命を奪うよ」
 薄い笑みさえ浮かべて、ロイは言う。
 白い手袋に刻まれた火蜥蜴の錬成陣。
 その指が弾けば、赤い焔が現れて目の前にあるもの全てを燃やすだろう。跡形もなく消え去る。残るのは灰だけだ。
「怖いかね?」
 黒い双眸は暗くて表情を読ませない。他人を拒絶するような眼差し。声だけ聞けばとても優しいのに。
「大佐」
 エドワードは座っている己が見上げるには幾分高い位置にあるロイの瞳を真っ直ぐに反らさないで見つめた。そして、もう一度呼ぶ。
「大佐」
 ロイは一歩近付いた。すぐ目の前に迫ったロイにエドワードは告げた。
「怖くなんて、ないよ」
 エドワードの否定にロイは何も言わない。エドワードは続ける。
「大佐の理屈で言っても俺はすでに殺人者だよ。背徳を犯し、母親をまた殺した。アルだって失った。奇跡的に魂を錬成できたからいいようなものの、俺はこの手で家族を殺したんだ。十分罪深いだろ?そして、賢者の石を探しているのも再び禁忌を侵そうとしているからだ。元の身体を取り戻すために。俺が大佐を怖がるなんてある訳ないだろ?俺の手なんてすでに赤く染まっているだ」
 エドワードは己の手の平を持ち上げ見つめると、唇を噛んだ。
 
 今は手袋に覆われている鋼の右手。
 冷たくて、体温などない、人工物。鈍く光る色を見る度忘れることなどない。
 それは罪の証だ。
 俺は11歳で、ほとんどのものを失った。
 無知な子供だったんだ。禁忌の意味も罰も知らなかった。
 それでも、失われたものを再び取り戻すために、己は精一杯足掻くのだ。
 みっともなくてもいい。格好悪くてもいい。罵られてもいい。
 己は軍から命令されたら人を殺すのだ。それは歴然とした事実だ。
 誰かの犠牲の上にしか成り立たない望み。それでも、捨てきれない望みがある限り自分は国家錬金術師を止めない。
 
「ごめん、人殺しに理由なんてないな。許せないと言ったあの男と俺は何も変わらない。責める権利なんてなかった。今でも許せないと思っている。メグを殺した男を簡単に許せる程俺は大人じゃない。けど、違うんだな。自分のエゴだろうと軍の命令で仕方なくだろうと、所詮、罪は同じだ。人の命を奪う行為に変わりがない……」
 本当に、嫌になるくらい、自分はまだ覚悟が足りない。
 自嘲するように呟くエドワードの側に膝を付いてロイはエドワードの両手を取った。
 そして、先ほどまでの、表面だけの笑いだけではない感情のこもった笑みを浮かべた。
 
「実はね、鋼の。殺人鬼も人間だから、人を好きにだってなる。想う相手に好きになってもらいたいと望む。誰だって同じだ。心を捧げた相手には嫌われたくない。笑って欲しい。声が聞きたい。幸せになって欲しい」
 まるで内緒話をするような声音でロイは殺人鬼の秘密を打ち明ける。
「だから、殺人鬼は好きな人だけは殺せない。好きな相手だから殺す人間もいれば、好きな相手だけは殺せない殺人鬼だっているさ」
 軍に身を置く国家錬金術師が、そんな勝手許されるはずがない。できっこない。
 好きな人でも殺せと命令されたら、殺さなくてはならない。そうでなければ、命令違反だ。身の破滅だ。
 例え、殺したくなくても、それが守られるかどうかなどわからない。
 優しい嘘みたいな、秘密。
 それでも、エドワードの心を明るくしてくれる言葉だ。
「大佐」
 大総統にまで上り詰めたら、あんたは実行できるのかな。
 好きな人を殺さないでもいられる世界を。
「こんな殺人鬼で良ければ、食事でもどうかな?」
 そんなエドワードのどこか遠くを彷徨わせた眼差しを受けたロイはにっこりと笑い、片方の手を誘うように持ち上げた。
「大佐って、馬鹿だよな」
 どうして、俺なんて甘やかすかな。
 大佐は悪くないのに。
 一方的に俺が子供で感情的になって無茶を言っただけなのに。
 はっきりと言われて身に染みた。俺は甘え過ぎだ。この東方司令部の皆に。大佐に。
 エドワードは決して泣かないけれど、泣き笑いのように顔を歪めて困ったように笑顔を作る。
「馬鹿とは、酷いね。でも、鋼のは元気に笑っている方がいい」
「何それ、大佐おかしいよ」
「子供は多少煩いくらいがいいって事だよ」
 静かな君は不気味だ、とロイはからかう。
「失礼だな、あんた!」
 わざと軽口を叩くロイにエドワードは心の底から暖かいモノが込み上げてくるのを感じた。
 なんだって、こんなやつがいるんだろう。
 大佐のくせにさ。二十代という若さで軍でも高位な位置にいる、野心家。
 もっともっと昇進を重ねこの国のトップ大総統までを視野に入れている大物。
 普段はさぼってばかりで書類をためてホークアイ中尉に怒られているくせに。
 雨の日は無能だって言われて部下に笑われているくせに。
 女性には優しくて男には素っ気ないって陰口叩かれているくせに、子供にまで優しいのは詐欺だな。
「仕方ないから、付き合ってやるよ。悪魔でも殺人鬼でも俺は怖くないからさ」
 エドワードは笑う。
 彼らしい笑顔で。意地っ張りな彼にしては珍しく皮肉も何もない素の笑顔だ。
「それは、光栄だね」
 ロイはさもありがたそうにエドワードの片手を恭しく持ち上げてみせると、危なっかしい屋上の端の上から引っぱり上げた。
 ふわりと浮いた身体はロイの胸元に納まる。驚いて顔を上げたエドワードに含みのない顔で笑うとロイはそのまま手を引いて歩き出した。
「何が食べたいかね?」
「旨いもん!」
 エドワードはロイの歩調にあわせるように早足で付いて歩きながら答えた。
「君はそればかりだね」
「どこが悪いっ。旨いもんたら、旨いもんなんだよ。奢りなんだから美味しくないと意味ないじゃん」
「食べた分まで大きくなれればいいんだがねえ」
「誰が豆でちびだってっ」
 エドワードの怒り声にロイは声を立てて笑った。
 
 
 
 
 
 
 

 貴方を愛している
 心から愛している
 
 どうしたら、私の事を想ってくれるのか
 どれだけ捧げたら、想いを返してくれるのか
 
 持てるもの、全てを投げ捨ててでも構わない
 己にできる事なら、何でもする
 
 どうしたら、貴方の心が手に入るのだろう
 貴方の指に金の指輪をはめたなら、私のものになってくれる?
 愛を囁いたら、花を捧げたら、好きになってくれる?
 
 どうしても己の手に入らないなら、
 自分以外の誰の手にも渡したくない
 
 私だけを見て
 私だけを想って
 
 願いを叶えるためなら、悪魔に魂だって売る
 だから、どうか、
 
 私だけの貴方でいて
 
 



                                                      END


 

BACKNEXT