「君ぞ恋しき」2





「マーガレットーーーーっ!」

 エドワードは手にしていたドーナツが入った紙袋を取り落とし駆け出した。アルフォンスがすぐに続いて走り出す。
 二人がその場に駆け付け時、周りは騒然となっていた。
 あまりにも現実感が薄いせいか、事実を認められないせいか、誰も近付くことができない。
 血を流すマーガレットを抱きしめているジョージオは、口元に笑みを浮かべている。明らかに異常だ。
 大切そうに両手で抱きしめているマーガレットの左胸にはナイフが突き刺さっていて、そこからどくどくと鮮血が流れている。赤い血は服を紅に染め石畳まで広がっている。ジョージオから贈られた赤い薔薇が同じように石畳に散っていて、赤い花が咲き乱れているようだ。
 それに対比するように、だらりと力無く垂れている腕と血の気のない白い顔。
 死人のような顔色と動かない表情に、エドワードは恐怖を覚えた。
「僕のものだ。僕のものだよ、マーガレット」
 ジョージオは幸せそうに呟く。
 マーガレット以外誰もその目に入っていないようだ。
「医者をっ。早く!」
 エドワードは大声で叫んだ。
 それを聞いたアルフォンスは周りの人に近くにお医者さんはいませんか、と聞く。その問いに答えられる人間はいない。
 
 エドワードは、ジョージオに抱えられているマーガレットの元に膝を付いて顔を覗き込んだ。しかし、ぴくりとも彼女の顔は動かない。
 一瞬、ジョージオからマーガレットを離させようとエドワードは考えるが、ここで無闇に動かしてはいけない。ジョージオは逃げようとはしていない。彼を刺激してはいけない。
 彼女の胸に刺さったナイフを抜くこともできない。抜いたら余計に血が噴き出してしまう。
 どうにか止血しなくてと頭で思いながらエドワードが彼女に触れようとすると、ジョージオは誰にも触れさせないように、よりマーガレットを抱え込んだ。
「おいっ」
「駄目だよ。彼女は僕だけのものだから」
 ジョージオは首を振って拒絶する。
「死ぬんだぞ、このままだとっ」
 エドワードが糾弾しても、ジョージオは微笑みを浮かべているだけだ。
 狂っている。
 男の目は、何も映していない。
 彼女以外の全てを拒絶している。
 まるで、この世界には二人しかいないようだ。
「メグっ」
 エドワードはジョージオを鋭く睨んでマーガレットに視線を移した。青白い横顔からは生き生きとした緑の瞳は見られない。その表情からは苦痛の色さえ見られなくて、不安が押し寄せる。
 石畳に落ちた腕、その手には金色の指輪がはまっていた。
 エドワードは目を剥く。
 先ほどまで、その指にはなかったものだ。つまり、ジョージオがはめたということだろうか。それなのに、金色の指輪は血に濡れて鈍く光るだけだ。
 エドワードは苦しげに眉間に皺を刻み、その手を取った。
 冷たい手。血液だけが生温い体温を伝えている。
「取り押さえろっ」
「急げ」
「病院へ」
 エドワードの耳に騒がしい声が届いた。すぐに憲兵が寄ってきた。
 取り押さえられる男と病院へ運ばれるマーガレットをエドワードはただ見送った。特別聞かれる事もない。エドワードは誰が見ても部外者だ。
 無言で立ちつくすエドワードにアルフォンスが声をかけた。
「兄さん」
 ふと見るとエドワードの白い手袋がマーガレットの血で汚れていた。アルフォンスが心配そうな空気を漂わせて兄の後ろに立ち肩に手を置く。
「兄さん」
 アルフォンスの呼び声にもエドワードは反応を返さない。
「兄さん、ホテルに行こう」
 兄の背に腕を回してアルフォンスは促した。
 
 
 
 
 
「なあ、あいつはどうなったんだ?」
 翌日、エドワードは再び東方司令部を訪れていた。今回は、もう寄るつもりのなかった場所である。
 東方司令部最高責任者といって過言ではないロイ・マスタング大佐の執務室。
 不機嫌そうに歪めた顔でエドワードは扉を開くと開口一番、そう告げた。
「あいつとは、誰かね?」
 ちらりと机上の書類から視線を上げてロイはエドワードを見る。
 エドワードの後ろには、アルフォンスが勢い勇んで入室した兄を止めようと立っていた。ロイの視線に気付いてぺこりと頭を下げる。
「昨日殺人罪で掴まった男、ジョージオだ。わかってるだろ?」
 マーガレットはあのまま再び目を開けることはなかった、
 胸を刺された彼女は、すでに瀕死の状態だったのだ。病院へ運ばれる時点でエドワードが見る限り意識もなく出血多量の状態だった。
 嫌でもわかった。助からない、と。
 そして、あの場にエドワードが居合わせた事をロイが知らないはずがなかった。エドワードとアルフォンスは目立つ。まして、現場はこのイーストシティで東方司令部の近所である。軍の人間で彼ら兄弟を知らない者はいないと言っていい。
 誰かが告げているはずだ。エドワードの後見人であるロイに。
「その男がどうだというのかな」
「会わせろ」
 エドワードは望みを要求する。
「会ってどうするのだね?」
 しかし、ロイは顔色も変えない。淡々とエドワードに質問する。
「どうするって…」
「君は被害者の家族でもない。ただの顔見知りだ。偶然あの場所に居合わせただけの他人だ。加害者に会う必用も権利もないと思うが?」
 ロイは正論を述べる。
「それとも、少佐相当の立場を利用するのかね?」
 越権行為と言わないか、とロイは示唆する。
 エドワードは詰まった。
「すでに、調書は上がっている」
 聞くかね、とロイは読めない顔でエドワードを伺う。
 小さく頷くエドワードを認めるとロイは執務椅子から立ち上がり、エドワードに背を向け後ろ手に腕を組み、窓から外を眺める。
 今日はなかなか良い天気だ。散歩や昼寝に適した気候だろう。
 ロイは口を開く。
「加害者、ジョージオ・サンド。サンド家の長男。優しく人受けも良く顔もいいと評判で自慢の跡取りだったそうだ。被害者マーガレット・ミューラーに懸想してドーナツ屋へ通い詰める。宝石、洋服などを贈るが突き返され、唯一花だけ受け取ってもらえたため、毎日花束を持参していたらしい。彼女は家の売り子をしているため、商品ドーナツを買うことから、客を無下にもできなかった。客として対応していた。彼女に幾度となくプロポーズをして、食事に誘っていたがことごとく断られ、彼は思いあまって殺害に及んだ」
 ロイの口調は淀みない。
「……何で、殺すんだ」
 絞り出すような掠れた声でエドワードは問うた。
「彼女を誰にも渡したくなかったそうだ。彼女が向ける笑顔を誰にも見せたくなかった。自分だけのものにしたかった。自分以外の人間が彼女の名前を呼ぶこと自体許せなかった。自分が呼べない愛称で他人が呼ぶ声さえ聞きたくなかった。ジョージオはそう言っている」
「メグって、呼んだのがきっかけなのか?」
 エドワードは苦しげに唇を噛む。
 あの時。あの男の前で「メグ」と呼んだのは自分だ。親しげに手を振って笑顔で別れた。
「要因の一つ、だ。元々煮詰まっていたそうだ」
「そんなっ」
 エドワードは顔を上げてロイを見た。
「鋼の。確かに、君は被害者を知っているかもしれない。けれど、それだけで事件に介入する事は許されない。加害者に会うことなど許可できない。それくらい君ならわかるだろう?」
「……」
「よくある事だ。ありふれた事件とも言えない事件だ。振り向いてもらえない相手を思いあまって殺す。男女の間では日常的なことだ。そして、すでに終わった事件だ」
「……」
 エドワードは平坦な声で告げられる事実に手をぎゅっと握りしめた。
「鋼の。ここに自由に出入りできるからと言って、感情的になってもらってわめき散らされても迷惑だ。軍属に身を置く人間が簡単に感傷的になってもらっては困る。子供は帰りたまえ」
 鋭利なナイフで斬りつけられたような言葉。
 そこには、厳しさだけがあった。
 軍の大佐しての正しい命令。
 エドワードは部屋から飛び出しだ。

「兄さんっ」
 アルフォンスが呼んでも、振り向きもせず走り去る。アルフォンスは一度大きくため息を付くとロイに向き直り謝った。
「すみません、大佐」
「いや、君が謝る必用はない」
 アルフォンスはいいえ、と首を振る。
「兄もわかっているんです。ただ、メグが……。彼女、実は母に少し似ていたんです。似ている部分は髪と瞳の色だけで、容姿は全く違うんですけど。笑顔というか、どこか母親を思わせるものがあって。だから、兄は余計に感情的になっているんだと思います」
「……」
 ロイは若干眉を潜めるが、無表情のまま話を聞く。
「マーガレットが血を流している場面を見た時の兄は、激しいショックを受けていましたから。あの時、僕の声も聞こえないくらい」
 呆然と立ちつくす兄の姿は、アルフォンスの記憶に焼き付いている。
 ただでさえ、小さな肩がより小さく見えた。
「それは、君も同じだろう?」
 エルリック兄弟はいつも行動を共にしている。アルフォンスも被害者の女性と同じように親しかったはずだ。
「僕は、兄と少し違いますから。多分、微妙に……」
 言い辛そうにアルフォンスは困ったような声音で言葉を続ける。
「僕と兄の体験ににはズレがありますから。僕は人体錬成に失敗してこの世界から消えて兄が僕の魂を錬成してくれるまでの間の出来事を知りません」
 彼らの事情をロイは知っているが、彼らの間にしか理解できない事もある。禁忌を犯した時の心情は想像するしかできないのだ。
「では、失礼します」
 アルフォンスは、そう言うとお邪魔しましたと頭を下げて退出した。
 




 

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