「女神の涙」




 林檎だったら「王琳」。さくらんぼだったら「佐藤錦」。みかんだったら、熊本か三ヶ日。柿だったら「富有柿」。梨だったら「幸水」。苺だったら「女蜂」「とよのか」。葡萄だったら「マスカット・アレキサンドリア」。

 それまでは果物は普通に好きだった。
 不味いより、美味しい方が当然いいけれどこれといってこだわりなどなかった。けれど彼が食卓に料理やお菓子を並べるようになってからは、かなりこだわりができた。
 それまでは知らなかった名前の数々。

 それが、果物の名前なのか?と疑いたくなるほどの凝った名前が付いているものもある。品種改良されて日々美味しいものを作っているから、種類も年々増えるらしい………。それは果物だけではなく、食べ物全般に言えることであるが。
 さつまいもで焼き芋にする代表が「金時」だとは知っていた。が、白菜やかぶにそんな名前が付いていると驚くではないか………。「天王寺蕪」とか「聖護院蕪」などそれは何だと思うのが普通ではないか?
 
 そんなことで、最近気に入っている果物がある。
 それは洋梨。
 わざわざ洋梨を買って食べる習慣など、当然なかった。

 よくケーキなどに使われているから、食す機会はあったとしても、家で皮を剥いて自分が食べるなんて想像もしなかった。第一、新一は皮を剥くのが嫌いだ。剥けないのではなく、面倒なだけである。だから、剥かねばならない果物は必然的に食べる機会は減る。剥かなくていい苺やさくらんぼ、林檎。剥きやすいバナナなどが良かった。そして、葡萄は種なしがベストだと思う。

 剥いて食卓に出された時は驚いた。
 そして、意外に美味しいのに、これまた驚いた。
 食べ頃の触感の柔らかさと甘み。甘すぎないのがいい。
 柿など熟すと糖度が増して新一には甘すぎる。それがいいという人間もいるだろうが、甘いものが苦手な新一には甘いだけでは美味しく感じないのだ。程良く酸味がある果物が好きだ。そして、しゃっきりとした歯ごたえのあるものがいい。
 どこがいいのかと理由を聞かれれば、甘すぎない。甘みがちょうどいい。歯ごたえはあまりなくやわらかだが、触感がどうやらいい。そして、わずかに香る甘い匂い。

 そのどれもが、思いの外新一を惹き付けた………。
 それ以来、食べたいと、快斗にせがむようになった。

 「美味しい」

 新一は目の前に剥かれた洋梨をぱくりと食べた。租借して口中に広がる甘みと酸味を楽しんで至極満面の笑みを浮かべる。
 食後に食べる果物は、旬のものが美味しいと知っている。
 でも、食べたくて、これだけは自分でも買う。
 たまたまスーパーに行くことがあると、迷わずカゴに入れている。そんな新一を見て、快斗はこれほど気に入るとは思わなかった、と楽しそうに笑った。新一だってそう思う。

 「そう?美味しい?」
 「ああ。ちょうどいい具合に熟してる」
 「ああ、美味しいね」

 快斗もガラスの皿から洋なしをフォークで刺して口に運ぶ。口内に広がる甘みに満足そうに目を細める。

 「今日のはラ・フランスだけど………、やっぱり新一はラ・フランスが好き?」
 「ああ。これが一番かな?」

 洋梨にも種類がたくさんある。「ラ・フランス」が有名であるが、「マルゲリット・マリーラ」「ウインターネリス」「シルバーベル」「パスクラケン」等々。聞いたこともないような種類が多い。

 「ケーキとかに使われてるのも「ラ・フランス」が多いしね。食べやすいかな?」
 「快斗が作る果物のケーキはどれも美味しい。もちろん洋梨のコンポートやタルトも好きで美味しいけど。これだけは生が一番だな」

 快斗は旬の果物を買ってきては、ケーキを作る。それは甘過ぎず、新一の味覚にあって喜ばせることもしばしばだ。美味しいからまた作ってほしいとリクエストを出すこともある。けれど、洋梨だけは生が一番いいと新一は思う。

 「新一がそんなこと言うの珍しいよね………」
 「俺も、そう思う」

 自身でも感心しているのか、素直に頷いた。それを快斗は微笑ましく見守る。
 食べ物に関してあまり執着のない新一が、これが好き、と自己主張することは快斗としては大歓迎だ。食の細い新一にいかに食べさせるか日夜努力をしているのだから………。

 「今度「ル・レクチェ」が手に入るかもしれないよ。楽しみにしてて」
 「本当か?………食べてみたい………!!」

 新一は顔をほころばせて、意気込んだ。

 「ル・レクチェ」とは幻の洋梨と言われている。新潟で作られ大層美味しいが少量しか産出されなくて大層高価なのだ。どこの店でも並んでいるものではない。新一が、雑誌を見ていて、食べてみたいと漏らしたことを快斗は覚えていた。新一のためならいかなる努力も苦にならない彼であるから、願いを叶えることは彼の幸せの一つだ。
 西洋では洋梨はこの世界で最も美しい果物として、その形は女神の乳房やグラマラスな女性にたとえられる。そして、芳しい果汁はビーナスの涙とも言われる。真珠を「pearl」と書くが「pear」に雫の「l」が付いたのだとも言われている。つまり洋梨の雫が真珠であるのだ。

 そんな雫を新一が食べたら、より綺麗になるかもしれない、などと彼には言えないが馬鹿なことを真剣に快斗は思っていた。綺麗になるのも大歓迎であるのだけれど、自分以外が目にするのは業腹だし、見せるのは勿体ないと狭量に思う。しかし、そんなことを言っても全くもって自覚がないため、わかってもらえない。
 まあ、その時は自分の腕の見せ所であり甲斐性だろうと納得させて、新一が綺麗になる果物でも食べ物でも何でも揃えてみせるよと快斗は心中で呟く。

 「手に入ったら、ちょっと冷やして食べようね?」
 「ああ!」

 嬉しそうに新一が微笑むので、快斗も微笑み返した。
 
 その新一の綺麗な笑顔もうきうきと子供みたいな顔もそこに至るまでの喜ばせるための過程も全ての表情は快斗のものだ。誰にもその権利は渡さない。
 そんな快斗の決意を新一は知らなかったが、快斗以外にいろんなことをせがむ気もなかったのだから、快斗の心配は杞憂であったに違いない。
 





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