「薔薇色のトリル」7 




 


 三人は馬で駆けた。エウーダの草原を一気に掛け抜け、峠を越え、山道を慎重に進み、人里離れた場所へと向かう。
 途中で止まったのは馬に与える休憩のみだ。その時に水分は取っている。水分だけは取らないと人間生きていけないからだ。
 そして、辿り付いた先。新一は目指す小屋の前でひらりと馬を下りた。一人しか通れない道を歩いて扉を叩く。
 
「おばば」
 新一は鬱蒼とした小屋の扉を開けた。
 中は囲炉裏の火にかけた鍋から異様な香りが立ちこめていたし、周りには薬草や薬の元になるとは思えない様々なものが置いてあった。骸骨があるのは、なぜだろう。ひょっとして趣味なのか、と新一は思ったことがある。実は、人をからかうことも好きな老婆だから、やって来た人間のびくつく顔を見て楽しんでいるかもしれない。
 
「どうしたね?」
 久しぶりに見る顔だ、とおばばは口の端をあげる。
「少しみない間に、ずいぶん綺麗になったじゃないか」
 くつりと喉で奥で笑い、入るがいいと言う。
 新一は戸口から中に入った。
「お願いがあります。ザヤという毒に効くマーロウという薬が欲しいのです」
 新一は真摯に用件を述べた。余計なことなど必要ではない。
「誰ぞ、やれたのか?」
 ふつうに暮らしていて、ザヤなどの毒にはそうそう侵されない。
「私の夫が。毒に侵されています」
 新一は率直に述べた。事実だ。たとえ新一が男でも彼の王妃なのだから。
「……夫との?それは愉快な」
 おばばは、顔の皺をくしゃくしゃにしながら笑った。
「姫の夫とは、これいかに。しかし、その思いは本物のようだ。よかろう」
 おばばは立ち上がった。
「何でも、構いません。私が差し出せるものならば」
 覚悟を決め静寂を秘めた声音で、蒼い瞳に強い意志を乗せて新一は言った。
 おばばは薬の代価を貨幣では決して受け取らない。お金を持っているから、身分が高いからでは、絶対に薬はもらえない。
 おばばは、その人間が大切な人間のために払う対価がどれだけであるか推し量る。
 たとえば、目。たとえば、足。たとえば、腕。耳。
 自分の大切な誰かのために、その人間は自分を差し出すことができるのか。大切な誰かの命のために、自分をどれだけ差し出せるか。
 その命の価値と同等のものは、自分の持つ何と引き替えることができるか。
 持っている財産か、身分か。一生話さないという約定か。身体か。
「……そうだの。では、姫の髪にするかの。艶やかで美しい黒髪は姫の美の一つ」
「こんなものでよろしいのか?」
 新一は目を瞬きついで小さく笑うと、腰からナイフを取り出し、後ろ手にざくりと結んだところから黒髪を切り落とした。ばらりと頬に不揃いな黒髪が落ちる。
「「……っ」」
 後ろで見守っていた蘭と園子は驚愕と痛みで息を飲む。
「これでいいかの?ほんとうに?」
 おばばが求める代価としては優しいものだと新一は思う。
「いいのさ。第一、マーロウの薬を持ってこれから馬で走るのだろう?足や腕、目などもらったら、たどり着けないだろう?それに、姫の身体をもらうには、ちいと気が引けるからの。さ、これだ。持って急ぎ」
「ありがとございます、おばば」
 新一は渡された瓶を懐に大事に入れて一礼して背中を向けた。
「蘭、園子、行くぞ」
 用件を済ませると急いで三人は去っていった。
 
 
「ま、これで返せるだろうさ」
 おばばは笑う。
 今から何年も昔のこと。
 ティターン国、国王がやってきた。妃を助けて欲しいと。
 元々身体が弱く、子供を産んでからより病床に付いた。日に日に弱っていく愛妾に国王は悲しみに包まれた。残して逝かないで欲しい。そばにいて欲しい。
 自分を慈しんで、癒してくれる存在を亡くしたくない。その一心で、人里離れた場所に、国王がたった一人でやってきた。
 何でも差し出すから、どうか助けて欲しい。そう懇願する王におばばは問うた。
「何でもと簡単に言うでない。もし、その妃の子供の命といったらどうするのじゃ?愛妾との子供を差し出すのか?国王の名において。子供を捨てて妻を取るのか?」
「……っ」
 ぐっと拳を握って爪で傷つけた皮膚から血が出るほど激情を押さえ込んで、王は小さな声で呟いた。
「申し訳ありません。できないことなど言っては王としても、一人の人間としても許されません」
 深く頭を下げたのだ。国王が。
「どちらにしても、おまえの妃は薬でどうにかなるものではいだろうよ。妃に必要なものは、栄養のある食事と十分な睡眠と愛情だけだ。妃の命はすでに天命に任せるしかあるまい」
「……そうですか。ありがとうございます」
 そう言って再び頭を下げて力無く去っていく王を見送り、おばばは思った。
 どんなに尽くしても救えない命もある。それなら、救える命なら救うべきだ。
 とはいえ、何でもかんでも力に任せ金にまかせて薬を手に入れようとする人間は切り捨ててきたが。
 今度こそ、あの時王に天秤にかけさせた子供の大事な人間を助けることができた。
 本当に、あの王の子供だ。
 強い眼差しがそっくりだった。
 
 
 
「急ぐぞ」
「まって、新一」
 今にも馬に飛び乗ってしまいそうな新一を蘭が止める。なぜ、止める?という不満を浮かべた顔で振り向く新一を蘭は肩に手を置いて諫める。
「だめよ。ほとんど休憩も取らない来たんだから。どんなに急いでいても、急いでいるからこそ、ここで水分と簡単なものを食べて。そうでないと、途中で力尽きるし、効率が悪くて馬が飛ばせないわよ」
 新一の体力を考えれば当然である。
 14歳の子供の身体で昼夜馬で休憩もほとんど取らず駆けるのは無茶だった。気力で補えるにも限界がある。どれほど乗馬が得意でも、名馬でもできることとできないことが世の中にはある。
「……わかった。ごめん」
 人の命が掛かっている。でも、ここで新一がわずかの時間を惜しんで休憩も入れなかったら、城まで体力が持たないのだ。すでに新一の身体は疲労でむしばまれている。これから、また山道を越えエウーダの城まで戻るには体力が必要だ。わずかの休憩でどこまで回復できるか不明だがそれでも取らないよりましだ。特に、水分だけは絶対に。
「新一が今すぐにでも、行きたいのはわかる。命の危機だもの。だからなおさら、新一も自分の身体を大事にしてね。新一が無事でないと、意味がないんだから」
「うん」
 新一の身にこれで何かあれば、責任問題だ。
 国王が倒れ、王妃が解毒剤をもらいに人里離れた国境沿いまで飛び出して怪我、もしくは命を落としたら、間違いなくティターン国からは非難を受ける。そして、他国から攻められるだろう。
「はい。水。ゆっくり飲んで。それから、木の実」
 蘭から渡されるものを受け取って、新一は言われるがまま水を飲み、木の実を味わうように食べる。
「この木の実、栄養あるもんねー」
 一連のやりとりを無言で見守っていた園子が自分も同じように木の実を食べながら、明るい声を上げた。
 携帯食にもいろいろあるが、持ち運びの点と日持ちの点から木の実は重宝した。干し肉などもいいが、今はそれを食べている余裕がない。
「……新一。これから国境沿いの峠を夜中に通らなければならなくなる。山賊が出るかもしれない。どちらにしても、危険だわ。いい、その時は城に向かうことだけを考えるのよ?新一は前に進むことだけを優先すること。わかった?」
 真剣な眼差しで諭す蘭を新一はまっすぐに見つめた。
 言っていることは正しい。正しすぎる。
 反論できない新一は唇を噛みしめ手の中で水が入った皮袋に力を込めた。それでも、奥歯をかみしめて、頷く。
 何のために、ここにいるのか。誰のために、ここまで来たのか。それを考えたら否とは言えない。
「ということよ、園子」
「了解」
 園子が片手をおどけるように上げて片目を瞑った。
 彼らの役割分担である。剣の腕や馬の扱い、体力どれを取っても蘭が一番だ。並の男より頼りになるのだ。信じて任せるしかないだろう。
「さて、もう少しだけしたら出発するわ。今、馬も水を飲んでいるし」
 馬もしばし休憩を与えないと走れない。これからまた無理をさせる。新一は愛馬を見遣り、うんと素直に言った。
 
 
 
「現れたみたいね」
 遠くからいくつもの蹄の音がする。おそらく山賊だろう。蘭は馬を操りながら耳をすまし後方に意識を流す。
「いい、なにがあってもまっすぐに走るのよ?」
「……わかった!」
 新一ははっきり答える。
 
「来たわ」
 蘭は斜め後方に夜目にもわかる山賊の姿を確認して、ひらりと腰から剣を抜いた。
「園子!」
 呼ばれて園子は胸元から目潰し用の粉薬を取り出し、山賊へと投げた。地面に落ちた丸薬は白い粉をまき散らした。馬が方向性を失って、何人かの山賊は落馬しているのが見て取れた。それに、にっと笑って蘭は最後尾でやってくる山賊を切り捨て始めた。細身の剣は月光に照らされてきらりと闇の中光る。
 それを確認した園子は新一に視線を送り、自身もその後ろで馬を走らせた。蘭がくい止めているとはいえ、弓でも使われたら困る。
「蘭、待っているから!」
 一言叫ぶと新一は後ろを振り切り、前だけに集中する。
 無事に後から合流できると信じている。
 だから、自分は前に少しでも早く進むのだ。
 
 
 


 
 

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