「薔薇色のトリル」4 




 


「今日は、雅ですね」

 その日キッドが王妃の部屋を訪れたのは、夕刻だった。
 やることが多すぎて、どうにかこうにか政務を終えてやっと姫に会いに行けると思ったら、もうすぐ夕餉の時間だった。これを逃せば今日はもう会えないだろうと思うと、足が向いていた。
 夕餉の邪魔なら、会ってすぐに暇を告げようと思って部屋の扉をたたくと中から胡弓の音色が聞こえてきた。
「キッド?」
 新一は手はそのままにキッドを見つめる。
「はい。遅い時刻ですが、よろしいですか?」
「それはもちろん。……ああ、夕餉は食べたのか?」
「まだですが」
 キッドは語尾を残す。帰れと言われるのだろうか。
「なら、一緒に取ればいいな。蘭、キッドの分も用意してくれ」
 蘭は一礼してから、国王の分を用意するため部屋から出ていった。
「座れば?」
「はい。……胡弓、私も聞きたいのですが、弾いてもらえますか?」
 ありがたく即されるままキッドは腰を下ろし、胡弓を抱えている新一にそっとねだった。
「まあ、いい」
 新一は弓を弦に滑らせ、奏で始めた。
 情感たっぷりの豊かな音色は部屋中に広がっている。キッドの胸にも深く響いてくる。 胡弓に詳しくない人間でも、素晴らしい腕前だとわかるだろう。そのくらい上手い。
「……知らない曲です」
 一曲終わるとキッドは拍手して称え、うっとりと呟いた。
「ティターンの北部地方に伝わる曲だから。恋人を待っている曲だ。エウーダの曲は少ししか知らないけど、それでもいいか?」
「エウーダの曲もご存じなんですか?」
 驚くキッドに新一はふっと目を細めて笑う。
「楽の師が他国の曲も詳しかったから、覚えた。ヴェイカやカリヤ、ハテューリの曲も弾ける」
 エウーダ国の横に位置するヴェイカ、その向こうのカリヤ、ハテューリはティターンの北に位置する国だ。師は各国を旅したことがあるのかもしれない。
「では、エウーダの曲を弾いてもらえますか?」
「ああ」
 キッドの希望を聞いて新一は胡弓を弾き始めた。
 今度はキッドも知っている曲だ。もの悲しい曲調で、ゆったりと流れるような恋歌。エウーダで有名な曲である。
 聞き惚れている間に蘭が戻ってきて、キッドの夕餉を目の前に用意した。
 杯に並々と葡萄酒が注がれている。
 
「素晴らしい演奏ですね。ありがとうございます」
「……ああ」
 一端新一は胡弓を下に置いた。
「姫もご一緒に、頂くんですよね?」
「そのつもり」
 素っ気なくいって、新一も夕餉を取ることにした。
 エウーダの料理は魚介類がティタ−ンより多い。内陸に位置するティターンでは海は遠いからだ。その点、エウーダは少しだが海があり、港がある。もっと南部の国なら海の恵みが豊かだろう。
 羊や牛など放牧しているから肉料理もある。味付けも香辛料が多く使ってあって、食欲が進む。
 そんなことをエウーダに来て初めて新一は実感した。知識で知ってはいても、実際は違うものだ。
 
 
「今度遠乗りに行ってみますか?」
 夕餉を食べて食後のお茶をしていると、キッドがおもむろに誘った。
「え?」
「国から馬を連れてきたでしょう?」
「……」
「いい馬ですね。何頭か連れてきた中、どう見ても主人がいる馬がいました。姫も馬術を習われていると思いまして。私の妹も、馬を上手に乗れましたよ。遠乗りにも行きました」
 身分が高くなればなるほど、乗馬ができるものだ。王女といえど、習うものである。腕前はひとそれぞれではあるが。
 キッドの妹姫が馬術が得意であった、という事実は新一を喜ばせた。
 つまり、遠乗りを断らなくてもいいということだ。
 本当は行きたくて仕方ない。遠くまで行きたい。城の中に閉じこめられていては息が詰まる。
「どうですか?」
「行きたい」
「はい」
 思わず欲求のまま答えた新一に、キッドは笑って頷いた。新一は欲求に素直すぎる自分を恥ずかしく思いながら、話を逸らした。
「そういえば、この国の歴史を読んでみた。創世記も読んでみたけど、一緒に読むと興味深かった。国の歴史はある程度形ができてから、今の領土ができるまで書いてあるけれど、創世記はその前だし。国で読んだ内容とやっぱり細かい部分で違う」
「ほう。どんな点ですか?」
 キッドも自国のものしか知らないため、目を輝かせる。
「男神が自分の髪から昼と瞳の色から太陽を作り、女神が自分の髪で夜と瞳の色で月を作った。女神が地上をかき混ぜて、大陸を作った。男神が血で人を作った。女神の涙から海ができた。そうしてできた世界から始まる。ここまでは一緒だけれど、その後国が出来る道筋が違う。ティターンでは最初の王は神の血に連なるものだと書いてある。だが、エウーダはその記述がない。その代わりに王の妃が神の子孫だそうだ。結局、王は神の血筋なのだということは変わりない」
「……つまり、最初に国を治めた一族はこの世界を作った神の子孫だということですね。それが本当かどうか今の私たちでは真実かどうかはわかりませんが、そうやって神聖化してるのは間違いがないでしょう」
 キッドの冷静な意見に新一は笑った。
「ああ。尊敬を集める祖となる初代国王が、本当に神の血が入っていたかどうかは、調べる術もない。いまさら、それにどうとも思わない。が、伝説というは箔が大事だから」
「そうですね。歴史とは、争いに勝ったものの主張ですから」
 新一は目を瞬く。キッドは一国の王として、大きな視野と冷静な考えを持っている。この王がいれば、この国は安泰だろう。
「なら、エウーダの記録とティターンの記録は違うのかもな」
 争いに勝った負けたという結論がなく停戦となった今回は、領土も変わらないため互いの国の記述は大きく違わないだろうが、これがもっと激しく領土争いをしていれば勝利国と敗戦国として歴史に残っただろう。その際、自国が正しいと書くものだが、大概勝利国の都合で進むため、歴史はそう動く。
「そうですね、願わくは食い違いが少ないといいのですが。……姫にはこの目でエウーダを見てもらえたらと思います」
「遠乗り、楽しみだな」
 期待を込めて新一は微笑んだ。
 
 
 



 「馬を見に行く前に、すこしお見せしたいものがあります」
 遠乗りの前に厩舎へ馬の様子を見に行こうということで、回廊をいくつも渡りもうすぐ着きますよとキッドが誘導していた時のことだ。今回は国から連れてきた馬を見るため、蘭も園子も後ろに付いている。彼女たちの馬も一緒にいるからだ。ちなみに蘭だけは時々馬の様子を見て世話をしている。
 
「なに、これ?」
 目の前にあるものは高い柵だった。その中はティターンでは見掛けない植物、緑豊かで大きな葉が茂った植物があった。草も木々も緑濃い。空気まで湿気っていそうだ。
「ここに、わが国でも珍しい動物がいます。南方地域の生き物で、数年前国交友好のため贈られました」
「なるほど。で、どんな生き物?」
 目を生き生きと輝かせて新一は広がる緑を見つめる。
「もう少し近寄ってみていいですよ。……ほら、あそこです」
 キッドが指さす方向をじっと視線で追うと、そこには黒い生き物がいた。しなやかな身体を木の上で伸び上がらせている。
「黒豹です」
「……」
 新一は前に出て、豹を一心に見つめた。全身真っ黒できっと動いたら俊敏なのだろう身体をしている。初めて見る生き物に、新一は目を離せなかった。
 ひたりと見つめる視線に豹も気付いたのか、ちらりと目を開けて新一を見た。金色の獰猛な目と新一の蒼い目がかちあう。
「……綺麗だ。すごく」
 ぽつりと呟く新一に自覚はない。
「王だ。動物の中の王」
 頂点に立つ獣。瞳の強さは王者の風格があった。獣でも人間でも、同じ生き物だ。そこにある輝きは変わらない。
 瞬きすら忘れて新一はただ見つめる。
 黒豹は新一が言った言葉を理解した訳ではないだろうが、身体をゆったりと起きあがらせて木から飛び降りた。ひらりと音もなく着地するとそのまま柵まで寄ってくる。
 新一は嬉しそうにその姿を見た。にこりと微笑むと、後ろに控えていた蘭に「胡弓」と言った。持っていた胡弓を蘭は新一にそっと渡す。新一はそれを受け取り、ゆっくり弓を弾く。
 胡弓のたおやかな音色が流れ出す。
 ゆったりと穏やかに、時に激しく奏でられる弦の音は、周りに響きわたり空気に溶けるように消えていく。
 目を閉じて、弾いている新一はここがどこか忘れているように見える。
 妙なる音を紡ぎ出す細い指先は美しく目を奪われる。心の中の奥底まで入り込んで揺さぶる音の洪水。
 新一には、天賦の才がある。
 齢14にして、これほどの楽の才があるものは滅多にいないだろう。
 その師が、技術ではなく心で演奏できる才を認め、自分が教えることは「曲」だけだと褒めちぎったほどだ。
 そのことを知らないキッドでも、今耳にしている音色が素晴らしいものであるとわかった。
 じっと楽の音を聞いていた黒豹は、そのまま木に駆け上り大振りの枝から身体をぎゅうと丸めると、一気に飛び上がった。
 跳躍。
 美しい肢体を新一の前に晒した。
 この豹にとって柵などあってもなくても一緒だったのだ。わざわざ労力を払う必要を今まで感じなかっただけなのだ。
 新一はその場に座り、胡弓を鳴らす。黒豹もその傍らにしゃがみ込み目を伏せた。
 まるで夢のような風景だった。
 キッドは止めることができなかった。本当なら危険だからと黒豹から離さなければならないのに。
「シュヴァ、です」
「……?」
 キッドの声に、新一は問うような視線を向ける。手は胡弓を鳴らしたまま。
「彼の名前です。『シュヴァ』と呼ばれています」
「シュヴァ……?」
 そっと新一は呼んだ。むくりと頭をもたげ、黒豹は新一を見る。
「触ってもいい?」
 胡弓を膝の上に置いて、新一は黒豹に聞いた。黒豹はのっそりと動き新一の膝に顎を乗せた。新一は明らかな意志表示に、ころころと笑いそっと頭を撫でた。
「気持ちいい、毛並み。……ありがとう」
 何度も何度も頭から首、身体を撫でてから首筋にぎゅうと抱き付く。黒豹はこともあろうに、ごろごろと喉を鳴らした。
 おまえは、猫か?
 そう見ているものが思ってしまっても仕方ないだろう。
 
「ごめん。馬を見るはずなのに」
 余分な時間をかけてしまったことに、新一は詫びた。キッドは王として仕事がある。時間は限られているのだ。
「いいえ、いつでも馬の様子なら見に行けますし。遠乗りだって行けますから。……是非、行った先で胡弓を聞きたいですね。草原で聞く音色は格別でしょう」
 キッドはついでとばかりに、自身の願いを口にした。
 なんというか、黒豹ばかりにいい思いをさせるのが我慢ならなかったのだ。大人として、口には出せなかったが。
 自分にも特別に弾いて欲しい。キッドがそう思っていると新一は知らなかった。
 



 

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