深夜のビルの屋上で、強風に煽られながら新一は立っていた。 あれ以来、時々というより定期的にKIDの逃走経路にやってくる。以前は、それほど関心というか関わりはなかったのだが、偶然自分を癒せるほど清浄な空気をまとった人間であることがわかって、ついつい空気洗浄機の代わりにするため通ってしまった。 その後、倒れた自分を回復させるためKIDを強引にビックジュエルで釣って連れて来たという経緯もある。 今は、相互理解の上で会っている。 新一の事情を知ってしまったKIDはもう新一を拒まない。少し手を貸してくれる。 現場で酷い気に当てられても、KIDにあえばさくさくと直るのだ。ついついこうして待ってしまうのは仕方がない。 「今夜も巧くいっているみたいだなー」 眼下に見えるパトカーのネオンと木霊するサイレン。段々と遠くなっていくことからKIDが警察官を上手に巻いたのだとわかる。 月の光が注ぐ中、そのうちKIDは颯爽とやって来るだろう。 白いマントを翻して、シルクハットを目深かにかぶり、片眼鏡のレンズが月光を反射する。 まさに、月下の奇術師という異名を欲しいままにしている。 「こんばんは、名探偵」 白い鳥がビルの屋上に降り立った。 「ああ、久しいな。KID」 友好的に新一も片手をあげた。すでに探偵だからとか怪盗だからという意識が薄れている。敵対しているという認識が欠片もないせいだろう。 靴音も響かせて、KIDが近寄る。強風にマントがひらりと揺れて、新一はぶるりと身体をふるわせた。 何だ。 ひょっとして怪我しているのか?風に乗って血の香りが届く。新一は若干顔をしかめた。 現場に度々行く探偵の新一にとって血の臭いは嗅ぎ慣れている。体質的にも血には敏感だ。彼から血の臭いがするということは、途中で怪我をしたと考えることが妥当だろう。 「……大丈夫か?怪我したんだろ?」 「すみません。やはりおわかりになるのですね」 左腕を手で押さえてからKIDは苦笑した。探偵には隠し事ができないのだと再認識したのだ。 「珍しいじゃねえか。……難しかったのか?それとも追われた?」 心配そうに新一が目を細めると、KIDは口元に笑みを浮かべた。 「ご心配をおかけしましたけれど、このくらいどってことないですよ。怪我くらいで私は失敗などしません。……ほら、ここに」 今日の獲物もあります、とKIDは盗んだビックジュエルを取り出した。 月光にきらりと光るロイヤルムーンストーン。正しく月の滴のような宝石は、KIDに相応しい佇まいをしている。 「それ、噂のあるヤツだろ?持ち主が何代も変わった。……呪われているってテレビの特集でやっていた」 新一はKIDの手にある子供の拳大のビックジュエルを胡乱そうな目で見た。そういたもには新一はできるなら触れたくない。 「もっぱら噂ですけどね。話題作りでしょう。……確かに月光によってより輝いています。青白い光を乳白色の宝石が放っているようだ。神秘的で、幻想的。どこか畏怖さえ感じます……」 KIDは歌うように語りならその宝石を月に翳しながら眺めた。 きらり、と月に光る宝石は喜んでいるようにも見える。魅入られる、青白い輝き。まるで意志があるような魔が魔がしい銀色の光が宝石から闇夜に広がった。 瞬間、手にしているKIDを銀色の光が包み込む。KIDは視界を一度奪われて、すぐに身体から力が抜け膝を付く。 「……っ」 KIDの身体が大きく揺れた。じっと何かに耐えるように佇み、やがてゆっくり顔を上げて新一を見る。その瞳の色は暗い。 「KID?」 新一はKIDの眼差しを見取って瞬間後ずさる。 どこか狂気が伺える空気。鋭く、怪しい目の色。 まずい。とても、まずい。 古い宝石。それは力があるものだ。呪いの宝石と言われるものは本当にある。有名なものでは「コー・イ・ヌール」「サンシー」「ホープ」などがある。いずれも持ち主に不幸を呼び込む。家族を亡くしたり病気になったり暗殺されたりと、血なまぐさい。 どうしてその宝石が人に不幸を呼び込むのか、定かではないし解明もされていないが、確かに呪いと恐れられるに相応しい宝石だ。 新一が見る限り、どうやら、取り憑かれたようだ。あのKIDが。信じられないことだが。 もしかしたら、怪我をしていることが原因かもしれない。血を流していると邪気を呼び込みやすい。条件がそろってしまったのだろう、多分。 月光に当てるという事が、恐らく最大の、魔の解放だったのだ。 宝石が持つ、邪気。妄執。人の欲望。断片的な欠片が寄り集まると大きな力にある。 「どうしました?名探偵?」 KIDはいつもとは違う薄ら寒い笑みを浮かべて新一に一歩近づいた。 彼の身体を取り巻く銀色。雰囲気も瞳の色も異質に変えて、狂気に彩られている。 このまま放っておいたら、最悪死に至る。宝石の持ち主に不幸を、死を与える魔石であれば間違いなく。どの程度のものかわからないが、かなりまずかった。 新一は覚悟を決めた。こくりと唾を飲み込んで、KIDに一歩一歩近づく。 そして、手早く宝石を持っているKIDの手首に自分の腕から外した水晶で出来た数珠をはめ込んで、動きが止まった隙を付いて宝石を奪う。宝石はポケットからハンカチを取り出し包み胸ポケットにお守りとして入れていた札も一緒にして地面にそっと置く。自分にできる応急処置だ。 そして、腕にはめた数珠の力で動きを一時だけ止めているKIDに抱きついた。ぎゅうと首に腕を回して、己に禁忌としている力を使う。 新一から沸き上がる青白い生気。それがKIDをあっという間に包み込み、銀色をしていた光とぶつかるように輝いて、やがて暗闇に散っていった。ゆっくりと現実離れした光が収まると、新一はそれを見届けて、意識を失った。 「……名探偵?」 KIDが呟く。 コンクリートに膝を付いている自分にもたれるようにして気を失っている名探偵。 目を瞬いて、段々と状況を把握する。 正気を取り戻したKIDは置かれている危機的状況を瞬時に理解した。 自分を失いそうになって、どこか凶暴な感情があふれてきて。あの時自分はなにを考えていたのか。思い出そうとしても、わからない。 ただ狂いそうな何かの意志に自分が支配されそうになった。初めての経験だ。 宝石に取り憑かれた?自分が?まさか。 これでも意志は強いと思ってきた。プライドも高いと思ってきた。そうでなくてポーカーフェイスで怪盗なんてできる訳がない。信念のために犯罪などできない。 それなのに。 恐らく、血を流したことがいけなかったのかもしれない。万全の状態なら宝石の魔力のようなものに巻き込まれることもなかったかもしれない。今まで様々なビックジュエルを手にしてきたが、こんなことは初めてだ。呪われる宝石など、そうはないが。 その、宝石に意識を奪われた自分を、新一が止めた。その結果、自分の腕の中でぐったりとしている。抱いている身体の体温が低い。ひんやりとした冷たい手は指先まで冷え切っている。青白い顔には血の気がまったくない。呼吸も少ない。堅く閉ざした瞼は開かれる様子もない。 KIDは、迷う。自分の力だけではこの新一をどうすることもできない。救うことも治療することも、自分の知識だけではなにもできない。己の力も少しも役立つだろうことは経験から理解できているが、それだけだ。 圧倒的に、情報が足りない。 迷いを一瞬で振り切って、KIDは鈴木園子へと電話することにした。前回のことがあってから、携帯電話の番号は調べてある。 早急に電話すると、KIDであることを名乗り新一が倒れたことを伝えた。園子はKIDから電話が入ったことは特に驚くことはなかったが、新一が倒れたと聞いた時だけ息を飲んだがすぐに、指示を出した。 そのまま新一を連れて工藤邸へと行けと。自分も行くから、迅速に。 あの屋敷なら結界が張ってあると言っていた。前回と同じように、あの部屋に運べばいいのだろう。KIDは新一を丁寧に抱えて夜空へと飛んだ。 KIDが急いで夜空を飛び工藤邸へと降り立つと、すでに園子が到着していた。 「待っていたわ」 厳しい顔をしながら園子はKIDに抱き上げられ力無くぐったりしている新一に眉を寄せる。 玄関の扉を大きく開けてKIDを促してから扉を一旦閉め、園子は先に立って歩く。KIDは新一を慎重な仕草で腕に抱えあげて後ろを付いて行く。前回と同じ部屋の前で止まり、園子が開けてくれた中へと進むと、ピキン、とガラスがこすれるような壊れるような音がした。 園子が眉間に深いしわを刻んだ。 「結界が壊れたわ。……KID、ひょっとして血を流している?」 「はい」 「ちっ。でも私じゃ無理だし。いいわ、そのまま寝かせて」 園子は舌打ちする。 園子一人の力で新一は運べない。KIDが言われるがまま、そっと新一を丁寧にベッドに寝かせる。それを見ていた園子は、早くとKIDを戸口で呼ぶ。 KIDを早く部屋から出さないと、せっかくの清浄な空間がぶち壊される。すでに血で汚されていて、結界が破損していても、これ以上の被害は押さえるべきだ。血を流しているKIDを新一の側に置いておけない。 「別の部屋で怪我の手当をしないと、部屋に近づくこともできないわよ」 「すみません」 「私に謝ってもらってもね……」 足早に園子の側まで寄ってKIDは室内から出る。園子の顔は渋いままだ。 「園子!」 そこへ、小さな少女が駆けてきた。 薄茶の肩で切りそろえた髪、焦げ茶の瞳をした少女だ。小学校の3、4年くらいだろうか。 「哀ちゃん!結界が血で壊れてるの。直してもらえる?」 「なんですって?わかった。すぐに取りかかるわ」 KIDなど視界にも入れず、哀と呼ばれた少女は新一が寝ている部屋に入っていった。 「これで、いいわ。……手当しましょう。そうしないと、何もできないから」 園子は斜め向かいの部屋にKIDを連れて行き、KIDの服を脱がして血を拭い消毒して化膿止めを塗りくるくると包帯を巻き終わると、部屋の奥にあるクローゼットへ歩き替えの洋服を適当に出した。 この部屋には様々なものが置いてある。何かあった時に備えている。強固な結界の部屋から近い場所。仮眠が取れるようにベッドやソファもあるし、医療器具もある。泊まり込んでもいいように、自分達の着替えまで準備してある。 「あなたの詮索なんてしないけど。血に汚れた服は着替えてもらうわよ」 「はい」 素直に言う通りにする。 すべて、KIDが招いたことだ。 差し出された洋服に手早く着替える。KIDの衣装を脱いでしまえば、存在感はあるが普通の青年に見える。KIDは衣装を畳み、シルクハットは片眼鏡、手袋などをまとめる。 「ここに置いておけばいいわ」 プラスチックの籠を園子がKIDに渡す。編み目になったそれは部屋にいくつもある。用途を選ばないため、サイズをそろえてある。 KIDは、ありがとうございますと、お礼を言った。そしてその中にKIDの衣装と今日盗んだ呪いの宝石も入れた。新一が包んだハンカチのままだ。 二人は、そのまま新一が寝ている部屋の扉の前まで来て、一度立ち止まる。園子はノックして、哀ちゃんと室内に呼びかける。 すると、いいわよ、と答えが返ってきた。園子はゆっくりと扉を開けて、室内へと踏み出す。KIDは、扉の前で待ってる。自分が今入っても悪影響が出ないかどうか判断などできない。許可がなければ、とても立ち入れない。 哀が新一のベッドの側に付いている。 「哀ちゃん」 園子が呼ぶと、哀は新一から視線を外さないで求められている説明をする。 「結界はすべて張り終えたわ。今のところこれ以上の浸食は止めてあるけど、いつ意識が戻るかどうかはわからないわ」 「うん。じゃあ、着替えさせておこうか」 「そうね」 二人で新一を白い着物に着替えさせることにする。一人では意識のない人間を着替えさせるのは重労働だが二人ならすでに慣れていて簡単だ。それを遠目で見てKIDは視線を外す。人の着替えを凝視する趣味はない。 「で、あなたが元凶?」 やがて、新一の着替えを終え準備を整えた哀がKIDを鋭く睨んで、強烈な言葉を吐いた。 「……はい」 「詳しく話してもらいましょうか。私は園子から緊急事態だって呼び出されただけなのよ」 哀が、園子から携帯で呼び出されて駆けつけることができたのは、ラッキーだった。今日は、隣家に滞在中で近所に出かけていただけだった。すぐに、阿笠博士をせかして工藤邸へとやって来ることができたのだ。 「はい」 KIDは神妙に頷いた。 自分の話はきっと余計に怒りを買うことになるだろうが、それで名探偵を助けることができるなら、どれだけでも打ち明けるつもりだ。そして、自分にできることなら、何でもする。 三人は、部屋にあるソファに座って話しをすることにした。KIDが部屋に入れたのは新一がKIDの腕にはめた数珠と哀からもらった札のおかげだ。 |