「あなたのとりこ 2」




 

 
「おはよう、新一」
「新一君、おはよう」
「おはよう、蘭、園子」
 新一はクラスメイトの毛利蘭と鈴木園子に手を振った。
 彼らは帝丹高校の2年生だ。毛利蘭は幼なじみ、鈴木園子も小学校からの付き合いがあり、かなり親しい。新一の抱える事情もほぼばれている。
「あら。随分ご機嫌ね」
「まあな!」
 蘭が尋ねると新一は明るく答えた。高らかな声に、蘭も園子も顔を見張る。
「ほんとに、いいわね。新一君。珍しい」
「ねえ、驚くくらいだわ」
 いつにない元気な新一の態度に、二人は目を大きく開いて見やる。
「昨日。ちょっとな」
 晴れやかな顔。いつもは不健康一歩手前の白い肌が今日は輝くように美しい。
「顔色がいいわね。それに、きらきらしている感じ」
 ふむと、蘭は新一の頬に指を伸ばして顔を覗き込む。そして、目の下にクマがないか、瞳の色は曇っていないか、頬に赤みがあるか、体温はどうか、真剣に検分して小さく頷く。
「肩だって軽いし」
 安心させるように、ほら、と肩を上下させて新一は笑った。
「稀にみる、いい状態ね」
 園子が新一の肩越しにそう言いながら細い首に腕を回しておんぶお化けのように懐く。体重をかけられた新一はそのまま抵抗なんてせず、園子にされるがままだ。
 園子は何かを確かめるような表情を浮かべて、おとなしくしている新一の身体を抱き込み、一度首をひねってから笑顔になって言った。
「異常なし」
「だろ?だって、身体軽いからな」
 自慢げにそう新一は胸を張る。
「素晴らしく、奇跡的に、清浄な空気の人間に会ったんだ。まじで?ちょー気持ちいいって言えばいいのか?そんな天国気分」
 ふふふと悦に入って笑い、新一は楽しそうに目を細める。
 本当に、幸せそうである。二人の目から見てもよくわかった。今日の新一は、奇跡的に体調がいい。気分も上々だ。
「へえ」
「よかったわね」
 目を瞬き、蘭と園子が自分のことのように手をあわせて喜ぶ。
「ああ!」
 答える新一の笑顔も惜しみない。
 
 新一は人とは少々変わった能力がある。特別、超能力があるとかではないが、人の気持ちに敏感だ。
 誰でも、親しい人間の喜怒哀楽はわかる。今、怒っている、嬉しいことがあったようだ、とその顔や雰囲気や口調から察することができる。普通の人間が皆持っている能力だ。
 その能力が、新一はもう少し強いのだ。
 親しくなくても、なんとなく感情が伝わって来る。考えていることがわかるということはない。心が読めるということもない。が、その感情が強ければ強いほど、伝わりやすいし、触れた場合の方が直に伝わってくる。
 その感覚は、個人差があるのだろう。新一も人に説明することは難しい。
 探偵をしている過程で、人を恨む気持ちや悪意が充満している現場は、本当なら精的的に辛いのだが新一は今までにそういったものを遮断する術を身につけている。あまりに強烈な意志はいくら壁を作っても防ぐことは不可能だから、すべてという訳にもいかないが、ある程度は能力を必要以上に使わないようにすることができる。
 それに、現場でその能力を使えば犯人を簡単に捕まえることができる訳ではない。どんなに悪意があっても恨みがあっても、その人物が犯人とは限らないのだ。それで、偏見で捜査に加わることはしてはならないから、新一は現場ではなるべく能力を使わないように気を付けている。
 それよりも、困ったことは対人関係だ。
 触れるとその人間の感情がなんとなく伝わってくる、ということは無闇に人と接触できないということだ。
 人の持つ、欲望、羨望、悪意、好奇心、愛情、恋情、悲しみ、怒り、狂気。犯罪を起こさない一般の人間でも皆がふつうに持っている感情だ。だが、それは新一の精神を蝕む。

 人の感情が入らないように、いつも絶えず気を張っていると疲れ過ぎる。疲弊すれば、余計に遮断することもできなくなる。悪循環に陥る。
 そのため、新一は人との接触を拒んでいる。人に触らないようにしている。
 だが、幸いなことに例外はあって、蘭と園子は新一が触れても、触れられても平気な人間だった。
 蘭は新一の幼なじみであり、昔からよく知っている上に欲望が限りなく薄い。空手という武道をしているせいで精神統一が上手くて安定しているせいで、まとう空気がかなり澄んでいる。
 園子は反対に、エネルギッシュだ。生気が溢れていて、新一の目からみればとても明るい。例えるなら黄色のオーラを持っている。欲望がないとは言わないが、それは滅多にないことだが暗くない。人を羨んだりという感情がなく、明るい向上心で常に上昇している魂のおかげで、新一は彼女に触れても平気だ。更に、パワーをもらえるくらいだ。
 新一の事情を知っている二人は、だから親密に触れてもまったく問題はない。
 
 その新一だが、日常を生きていれば嫌でも人の感情の中にいることになり、知らずに神経をすり減らす。だから、どんな時も多少の影響を受けて顔色が悪いことが多い。絶好調である新一など滅多にお目にかかれる代物ではない。
 対策をいろいろしていても、すべてをリセットできないため、疲れがない状態などないのだ。
 
 その、新一が。
 
 すっきり爽やかこの上ない笑顔で、身体も軽くまるでその背に翼でも生えたのではないかと疑うほどに、絶好調なのだ。二人が、どうしたのかと疑問に思っても仕方がない。基本として、新一を心配している二人だから体調がいいのなら、そこに発生した人物がどんな人間でも大歓迎だ。犯罪者であろうが、悪魔であろうが、新一が危害を加えられず無事なら問題にもならない。
 
「肩も凝ってないわねー。いいわー、なにも乗ってない感じで」
 椅子座った新一の背後から薄い肩をもみながら園子が笑う。暗に、変な重み、人間の持つ黒い部分がなくなっていると、言っている。
 つきあいが長い分、能力がなくとも彼女たちはそういった事がわかるようになっている。
「うん。こう触れているだけで身体が軽くなるんだよ。俺、あんな人間がいるって思わなかった。お風呂に入って、暖かくて身体から力抜けて、気持ちいいくらいの弛緩?おー、極楽っていうの?あれだよ!」
 例えが、かなり爺臭い。
 まあ、気持ちは伝わっている。
「極楽ねー。温泉に入って癒されるならいいけど。温泉に効果がない訳じゃないもんね?」
 蘭が持ってきた鞄から小振りの魔法瓶を取り出し、蓋をカップにして暖かい飲み物を注ぐ。
「温泉は基本的に好きだな。やっぱり、それだけで気持ちいいし。身体の疲れが取れるだかで、効果あるな」
 身体と精神両方が大事なのだ。疲れた身体では、日常に耐えていけない。
 新一は風呂でいろいろなバスソルト、バスオイルを入れて楽しんでいる。二人から、よく入浴剤ももらう。
「はい。ハーブティ」
 蘭は、新一に湯気を立てているカップを渡した。
「今日はカモミールとローズを少し入れたお茶よ。身体にいいかと思って作ってきたの」
「さんきゅ」
 新一はお礼をいってコップを両手で持って、ふーと息を吹きかけて冷ましながらこくんと飲む。十分に味わってから、
「美味しい、蘭」
 と微笑めば蘭は満足そうに、慈愛のこもった目で笑った。
 新一は誰の目から見ても、存分に、これでもかと甘やかされていた。二人の女子生徒から過多の接触と好意とを与えられているが、恋人同士には一切見えない。明らかに、蘭と園子が向ける愛情の種類が、我が子か弟か従兄弟などの血縁者に無償に注ぐものだったからだ。恋などの感情がない事が丸わかり、というよりそれ以上と言わんばかりなのだ。
 まさに、溺愛。
 
 その親しい、踏み込めない雰囲気を醸し出す三人の邪魔をする人間は、クラスにいなかった。
 
 
 
 
 
 事件が起こった。
 警視庁捜査一課の目暮警部から連絡が入って新一は現場へと赴いた。
「……」
 そこは、血の海だった。
 よく、例えで使われる言葉だが、今回に限り嘘偽りない表現だった。部屋の中が、血塗れだったのだ。人間の血であるとは見ただけは判別できないけれど、一人の人間の血液では部屋中に血はまき散らせない。
 複数の被害者か、他の動物の血を使って仕立てたのか。謎だ。
 酷い現場には慣れている警官でも気分が悪くなるだろう現場だ。新一は酷い有様よりも、そこから感じる悪意のようなものの方が辛かった。残留思念など、そう感じないはずだが、今回ばかりは新一にいろいろなものを伝えてくる。
 気持ちが悪い。
 胸の中に黒くて、赤い、蛇のようなものが這いずり回っている感触がする。息をすることが苦しい。新一は胸元を手でぎゅうと掴んだ。
 
 床は、至るところ赤い血で埋め尽くされ、ところどころに血だまりがある。家具にも、血の痕があり、壁にも血が散っている。
 倒れている死体は一体。
 怨恨なのか鋭利なもナイフのようなもので数え切れないくらい刺されている。血の臭いが部屋中に充満している。
 窓を開けて喚起して証拠がなくなってしまうことを恐れて、玄関からしか空気の入れ換えができていない。鼻が麻痺しそうなくらい強烈な鉄の香りが部屋中に残っている。
 新一は死体に近づいて、じっと状況を観察する。

「死後、24時間以上経っているそうだ。第一発見者は隣の住人で、異臭がすると通報があった。凶器はナイフのような鋭利なもので十数カ所刺されている。が、頭部に鈍器のようなもので殴られた後もある」
「部屋の赤い痕は、すべて血だ。どうやらすべて人間の血らしくて、一体の死体ではこんな血痕を残せない。他にも重傷を負った人間や殺された人間がいるのでは、と推測される」
「ほかの被害者についての情報はまだつかめていない」
「現在調査中だ」
 目暮の説明を新一は黙って聞いてから口を開く。
「……そうですね。もし、なんらかの事情でこの状態を作る必要があるなら、医療機関から血液を買うとか、自分で毎月可能な限り血液を採取し冷凍で保存しておくか、方法はありますけれど。可能性だけならね。まあ、普通に考えたら、他にも被害者がいるとするのが妥当ですね」
 現状だけでは、まったく謎ですけど、と新一は加える。
「……っ」
 新一は口元を押さえた。
 気持ち悪い。ずんと胸の奥が重くなる。
 
 こわい。
 こわい。
 
 たすけて。
 たすけて。
 
 ころされる。
 ころされる。
 
 いやだ。
 やめて。
 
 なんで?
 どうして?
 こんな目にあうの?
 
 だれか……!
 
 
 心の中に直接、伝わってくる悲鳴のような声。
 一人ではあり得ない声は助けを求めている。この部屋でどんな残虐な行為が行われたのか、新一には見る力はないが気持ちだけでわかる。
 単純で強い気持ちの方が、伝わりやすい。怖い、などの根元的な感情は、特に空間にも残りやすい。
 自分の中に響いてくる悲壮な声をぐっと奥歯を噛みしめて耐える。
「やっぱり被害者の人間関係から洗うしかないでしょうね。これだけでは、なんとも言えない。すべて憶測にしかならない」
 新一はぐっとせり上がってくる吐き気を我慢しながら、目暮に考えを話す。
 おそらく、もっと被害者は存在している。すでに生きてはいない。
「被害者が生存していればいいのですが。この状況ですと、厳しい。なるべく早い対応が必要です。僕も警部が考えている通りだと思います」
 今、新一にできることはない。
 何か証拠が残っているならそれを掴んでおかなければならないと思うが。
 ……かなり、まずい。
 体温が低くなってきている。指先がうまく動かない。
 早くここから、離れなければ、間違いなく倒れるだろう。
 そんな醜態を警部達に晒せない。心配を掛けるに決まっている。過去に顔色が悪くなったことがあるせいで、すでに心配させているのに。
 新一は自分の顔色が白くなっていることを自覚した。鏡で見なくてもわかる。
 恐怖の感情が、消えない。自分に入ってくる被害者の悲鳴は止まることがない。
 
 新一はいったんここから離れるために、重い足を出口へと向けた。
 
 
 
 



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