ビルの屋上に吹き付ける風は、まだ冷たい。 昼間でも無機質な雰囲気が漂うけれど、夜、暗闇の中では余計に静寂な空気と荒涼とした風情がある。 誰もいない、高層ビル。 眼下にある夜景は、遠くに見えるネオンばかりで。不夜城都市と言われる東都であるから、そこに人がいるのだとわかってはいても、遙か離れた場所からでは人気が感じられない。 「冷たい」 しかし、一人制服姿の少年がいた。 吹き付ける風を受けながらフェンスに手を掛けて、闇の中広がる世界を見下ろしている。 月下に照らされた少年の顔は、白く美しく整っている。まるで、銀色の光を地上に注ぐ月の女神のような繊細で儚げだ。月光に浮かぶ蒼い瞳が、より現実感を薄くしている。 冷える身体を抱きしめて、少年はふうと息を吐く。 こんな場所に特別用事がある訳はないが、それでも人気のない場所に少年は来る必要があった。人気のない静寂だからこそあるものが少年には必要だった。 「きれいな、月」 仰ぎ見る頭上にある月は、澄んでいる。 それを見ていると癒される気がしてくる。やはり、太古から人間に作用してきたからだろう。月の満ち欠けによって潮が満ちて干く。人間の身体は確実に影響を受けている。 もちろん、月だけではなく太陽の力によって人間は生かされているのだけれど。 自然の力は偉大だ。小さな人間の都合も考えも関係がない。 「ほんと、無駄な抵抗」 自然現象に逆らうことはできいないし。与えられたわずか力も絶えて久しい。わずかな力を引いていると、今の世では特殊だ。その特殊さ故、少年は誰もいない場所にやって来た。 「あ……」 少年は声を漏らした。 遠くに聞こえたサイレンと移動する赤いネオン。近づいて来た騒々しさに、ふと気を他に向けてみると。 「KID?」 ビルの屋上、貯水棟の上に舞い降りた白い鳥がいた。 月下の奇術師。捕獲不可能の犯罪者。噂に名高い怪盗KIDだ。 白いマントにシルクハット。白いスーツに青いシャツ、赤いネクタイ。そして今時レトロな片眼鏡。 こんなスタイルをした泥棒は彼しか該当者はいないだろう。見間違えることなどあり得ない。そんな姿形と雰囲気を持っている。 「これは、お珍しい」 KIDは、少年を見つけて優雅に一礼してみせる。 「こんばんは、名探偵。ご機嫌麗しく」 慇懃無礼な態度と声で気障に挨拶してみせる。それが怪盗紳士を名乗る彼らしい。 「仕事か?」 少年は、首を傾げる。彼がこうして現れた理由は一つしかない。 「ええ。今日は、このピンクトルマリン」 KIDが手に翳す宝石は、ビックジュエルといわれるピンクトルマリンだ。大人の拳大もある大きさで透明感があって輝かしい美しさがある。 「『春の女神』だな」 東都近代美術館の特別展示物だ。 先月末から始まった展示は、もうすぐ期間が終わる。ビックジュエルであるため、いつかKIDが盗むだろうと最初から言われていたものだ。 「……もう用は済んだのか?」 KIDは一度盗んでも品物を持ち主にすぐ返している。だったら何のために苦労して盗むのか、警察も民衆も理解できていない。わざわざ難解な予告状を出して予告して警察に準備までさせて、そこから派手なデモンストレーションをして盗む。愉快犯なのか、ただの馬鹿なのか、現代に怪盗を名乗る犯罪者の心の内を予測できる人間などいない。 だが、それでも一人はここにいた。 「はい。あとは、お返しするだけです」 KIDは素直に答える。 KIDの目的を多分大凡検討を付けているだろう探偵に。 平成のホームズ。警視庁の救世主。渾名はKIDと同じように数ある、名探偵と誉れ高い工藤新一だ。 新一は小さく笑い、人差し指を自分の方にちょいちょいと曲げてみせた。つまり、こっちに寄越せというジェスチャーだ。 返しておいてやるという意志表示に、KIDは口角をつり上げて手の中のビックジュエルを投げた。綺麗に放物線を描いて新一の手の中に落ちる、はずだった。だが、突然そこに横風が吹いた。ビルの屋上の風はかなり変則的で強風だ。 「……っ」 さすがに、ビックジュエルを落とす訳にはいかず、新一は慌てて風に流れた方向へと手を差し出した。どうにか捕まえた宝石。新一はバランスを崩して膝を付く。新一と同時にKIDも駆け寄り手を出した。膝を付いた新一ごと抱え込むようにしてビックジュエルを守ろうとした。結果、KIDは宝石を手に抱きしめた新一を自分も膝を付いて身体ごと抱き留めた。 「……」 「……」 二人は無言になる。 「ご、めん」 新一ははっと我に返り謝る。KIDもほうと安堵を漏らして謝った。 「いえ、私の方こそすみませんでした。投げるなんて軽率でした」 「ああ……」 新一は間近にKIDの表情を眺めながら頷く。そして、吐息を大きく付いた。知らずに緊張で張っていた肩から力を抜いて、新一はKIDにがくりと身体を預けた。そして、ひくりと肩を揺らした。 「……あ、れ。……ほんとに?」 いきなり、新一は呟く。 「うわ。……まじで。信じられない」 KIDの胸に顔を寄せてすりすりと懐き、うっとりとした顔で目を閉じた。 「……気持いい。すげー」 KIDに理解不能の言動をいきなり取り出した新一。KIDは目を疑った。自分が認める探偵が、壊れた。KIDは失礼なことを思った。 「ああ……、うわ、あ」 ぎゅうとKIDの上着を掴んで、細い首を振る。 KIDの胸に顔を預け、身体から力を抜いてもたれかかる。まるで酒に酔っているように、意味不明な言葉を囁き吐息をこぼす。 例えるなら、「猫にマタタビ」だ。 猫がマタタビに酔っぱらって、ふわふわになる状態に似ている。 KIDは焦った。それも目一杯。 「名探偵?どうしたんですか?頭、大丈夫ですか?」 もしもし、と新一の身体を揺する。薄い肩、細い身体。随分頼りない。 そういえば、暗闇で解りにくいが顔は白過ぎた。つまり顔色が悪かった。体調が実は悪かったのだろうか。KIDは動揺した。 「ひょっとして、体調が悪かったんですか?名探偵?」 KIDは懸命に心配を覗かせて聞く。 だが、新一はKIDの戸惑いを無視して背中に手を回してぎゅうと更に抱き付いた。KIDはますます困惑した。 「名探偵?どうしました?名探偵?」 KIDの声が少々裏返る。 どうしてしまったんだ?あの誇り高い探偵が?というのが正直な心情だった。 「悪い……。でも、もう少し」 ほう、とため息混じりの声で新一は願う。 訳がわからないKIDなりに、新一の奇行には理由があるのだと察して、仕方なくそのままでいた。 しばらく、その状態で時間が過ぎて。 やがて新一が顔をあげた。先ほどより、少し顔色がいい。 「さんきゅ」 にこり、と笑う。とても機嫌が良さそうに、笑顔に力がある。月光の中、美貌の笑みは壮絶だ。有無を言わさない圧力がかかる。 「……名探偵?」 新一はKIDから身体を離して立ち上がった。 すでに、さっきまでの奇行の名残はどこにもない。まるで幻であったようだ。 「じゃあ、返しておくから」 『春の女神』を掲げてからポケットに仕舞い、手を軽く振ってKIDに背を向けた。すたすたと歩き、屋上へと続く重い扉を開き新一は消える。 その、後ろ姿を無言で見送りKIDはため息を付いた。 彼がわからない。全く、理解不能だ。 KIDはらしくないことに、自分の見たものが信じられなかった。 |