「Today and Tomorrow」3




 「………38度6分」
 「………」
 「風邪だな」
 「………」
 「昨日遅くまで事件で出てたせいか?それとも推理小説の新刊を読みながらうっかり寝たせいか?」

 どことなく棘がある盗一の指摘に新一は返す言葉がない。

 「しばらくベットの住人になってろ。それに、志保に来てもらわないといけないな」
 「………ごめん」

 殊勝に俯く新一に盗一は大きくため息を付いて、仕方なさそうに新一の頭をくしゃりと撫でた。

 「わかってるならいい。志保が怒ると思うけど、こればっかりは仕方ないよな」
 「ああ」

 新一はこくりと頷いた。
 朝起きてみたら、なんだか身体が怠かった。朝食を取るために階下に降りようとして階段でふらついた。キッチンで朝食を用意して待っていた盗一は、そんな新一に気付き素早く近付いて「熱いな」と言いながら新一を軽々と抱き上げてベットに戻した。体温計を口に放り込まれて、電子音が鳴ったと思ったら低い声で体温を告げられた………。

 「じゅあ、志保に電話しておくぞ?」
 「わかった」

 新一に反論などできるはずがなかった。志保と盗一はいつの間にか仲良くなっていた。そして、今では最強のタッグを組む。
 新一に危害を加える人間には容赦ない志保は、新一の側に寄ってくる人間を認めない。絶対裏切らないという保証がない限り認めない志保の目は大層厳しかった。新一の安全のためなのだからそれも頷けるのだが、なぜだか盗一には最初から友好的だった。
 過去から来たという不可思議な存在というだけでなく、盗一には人間として信頼を置けたらしい。志保の目から新一に危害を加えるどころか盗一はいい影響を与えるだろうと判断したらしかった。食事、掃除などの家事がいい例であったらしい。
 おかげで新一が学校へ行っている間でも友好を深めて、新一の健康について報告会がもたれているのだ。そしてどんどん新一は志保と盗一に頭が上がらなくなってきた。

 「薬は志保に出してもらわないとならないから後にして、ひとまず水分取って寝ていろ」

 盗一は新一を再びベットに戻して布団を首まで引っ張り上げた。

 「水枕とポカリもってくるから。それ以外に欲しいものあるか?」
 「ない」
 「わかった」

 盗一は申し訳なさそうな新一に苦笑して部屋を後にした。
 

 
 「………典型的な風邪ね」

 志保は新一を診察してきっぱりと告げた。

 「睡眠不足と疲労?………このままだと事件の要請差し止めるわよ」

 にっこりと目が笑っていない志保は本気だった。
 これ以上身体を大切にしないのなら、事件要請を受けることは禁止になるだろう。新一が無理に出ようとした場合睡眠薬を使われることは必至だった。そして、しばらく志保がつきっきりで監視するのだ。

 「し、志保?」

 新一は上目使いで志保を見上げるが、志保は取りあわなかった。

 「そんな顔しても駄目よ。二度と繰り返したらベットに縛り付けるからそのつもりでね?」

 にっこりと笑いながら脅しのような志保の台詞に新一はこくこくと頷く。

 「どう?」

 そこへ盗一が入ってくる。そして主治医である志保を見た。

 「何か栄養のあるもの食べて、この薬飲んで寝ていれば良くなるはずよ」
 「わかった。じゃあお粥でも作るよ」
 「お願いね」
 「お安いご用だな」

 盗一の言葉と態度は志保を安心させる。
 彼が作る料理も看護も信頼がおけるものだ。そんな志保に盗一は微笑を受かべて誘う。

 「朝早くからご苦労さま。志保も珈琲でも飲んでいくだろ?今、いれたから」
 「ご馳走になるわ」
 「ああ。新一、お粥作ってくるからそれまで寝てろよ?」
 「私もひとまず珈琲頂いてくるけど、じっとしてるわね?」

 二人の心配と脅しのこもった声に新一は無言で大きく頷いた。ここで言うことを聞かなかったら、どんな反撃にあうのだろう。考えただけで恐ろしい………。
 
 (この二人って実は似たもの同士?)
 
 新一は決して言えないけれど、内心そう思っていた。
 そして、それはある意味とても正しかった。
 


 「はい、志保」
 「ありがとう」

 今までは見られることはなかった、生活感があるのに綺麗に磨かれたダイニングキッチンのテーブルで志保は盗一から珈琲を受け取った。
 小振りのカップに入った珈琲からは香ばしい匂いが漂う。
 テーブルに置かれたサーバーは珈琲がなみなみと入っていてお代わりができるようになっている。毎日しっかりと豆を挽きペーパーフィルターで丁寧にいれられた珈琲は新一も志保も満足のいくものだった。

 「美味しいわ」
 「それは良かった」

 こくりと一口飲んで志保が微笑めば、盗一も頷き返す。

 「良かったら、ご飯食べるか?新一のために作っておいたのが余るけど………?」
 「そうね。軽くもらえるかしら?」
 「じゃあ、クロワッサンサンドとスクランブルエッグ、グリーンサラダ、フルーツヨーグルトだ。新一にはこれからお粥作るし」

 盗一はそういいながら準備を進める。
 片手鍋に水をいれて火に掛ける。その横でフライパンに油を引いてボールに牛乳を少しいれて卵を溶き熱したフライパンに注ぎスクランブルエッグを作る。冷蔵庫に入れて置いたグリーンサラダとフルーツヨーグルトを出して、クロワッサンをトースターに入れて暖める。
 小さく鼻歌を刻みながら盗一は少しの無駄な動きなど感じさせない手さばきであっというまに志保用の朝食を整える。

 「はい、志保のための美味しい美容と健康の朝食だ」

 志保の前に美しく盛った朝食を並べて、どうぞと片目を瞑ってみせる。

 「………頂くわ」

 にっこりと微笑んで志保は手を付ける。
 さくさくのクロワッサンに挟んであるハムとキュウリ。ふわふわの卵。ドレッシングも手作りのキュウリ、かいわれ、レタス、コーンのサラダ。果物が刻んで入っている甘みを抑えたヨーグルト。
 志保は美味しそうにパクパクと食べる。
 量は少しずつだけれど、栄養のバランスが考えられた目にも鮮やかな朝食だ。
 満足そうな志保の笑顔を見て、盗一はお粥を作る手を休めない。
 お粥自体は薄味にして上に乗せる具で変化を持たせようと、スクランブルエッグを作った後で手早く作った金糸卵と山菜とそぼろと梅干しを小皿に併せる。お盆に丸い形の丼とレンゲと箸を用意して、ついでに湯飲みに日本茶を入れる。

 「上手いものね」

 その手際の良さに志保は目を細めて誉めた。

 「そうか?………まあ、慣れたしな」

 最初盗一は家電製品が使えなくて説明を受けたのだ。なんといっても20年分の進歩というものは大きい。20年前なんて志保だって新一だって生まれていない。最近の技術の進歩は目覚ましいから、盗一が「へえ、便利なものだな」と感心する度に、これって昔はなかったんだと改めて認識した。テレビにオーディオ、冷蔵庫、レンジ、洗濯機、電話、パソコン、モバイル等々盗一は家中にある機器を一つずつ説明を聞き、家事に関しての家電製品は志保に教えを請うて、一度で覚えた盗一はすぐに使えるようになった。今では家主より使いこなし、日々活用している。やっと工藤邸にある家電製品も報われたといっていいだろう。

 「最初は、壊すんじゃないかって心配したな」
 「そう?そうは見えなかったけど………」

 盗一が何かを思い出したように笑うので、志保は小首を傾げた。

 「顔に出ないだけだ。………志保、今日はどうする?夕方もう一度来るか?それともここで1日待機してるか?」

 もし盗一がいないなら、今まで通り志保は新一に1日付いていただろう。しかし、今は盗一がいて、症状も軽い風邪のため志保は一旦帰ることにしようかと考えた。

 「夕方来るわ。貴方もいるし、今日やってしまいたい研究があるの」
 「わかった、何かあったら電話する」
 「そうしてちょうだい」

 志保は機嫌良く新たに注がれた食後の珈琲を飲んだ。
 

 
 「新一、起きれるか?」
 「ああ………」

 部屋に入ってきた盗一にベットの中でぼんやりとしていた新一は目を開けて見上げた。

 「お粥作って来たから」

 盗一は一旦隣のテーブルにお盆を置いて新一が身を起こそうとするのを手伝う。そして、パジャマの上にカーディガンを羽織るよう渡し着るのを待ってから、布団のちょうど膝の上になる辺りにお粥の乗ったお盆を置いた。

 「熱いからな」
 「ああ、頂きます」

 盗一の注意を聞いて、新一は手をあわせる。
 小皿に乗った具を白いお粥の上に乗せて、レンゲですくう。ふーふーと息を吹いて冷まし、ぱくりと口に入れる。
 微妙な塩加減に卵や山菜やそぼろという栄養のある具が変化を付けていて熱があると舌が麻痺して味がわかりにくくなるのだが、はっきりと感じることができる。また、梅干しの甘酸っぱさ(紀州梅)も口に広がってくる。

 「美味しい………」

 新一は思わず、声に出して呟く。

 「そうか?無理しなくてもいいが、食べられるだけ食べた方がいい」

 こくんと新一は頷いた。
 風邪になって、こんな風に労わられるというのが、気恥ずかしい。そして、嬉しい。
 一人暮らしをしているとそんな機会はなくて。それでも志保が面倒を見てくれていた。お粥をを作ったり看護したりと尽くしてもらうと嬉しくて申し訳なかった。
 盗一だと、なぜだかいつも新一が感じる申し訳なさが少ない。
 不思議なことだと、自分でも思う。

 「食べたらこの薬飲んで1日寝てろ。そうすれば良くなる」
 「ありがとう。そうする」

 新一は心から感謝を込めて微笑んだ。
 心配されていることがわかるから、素直に頷く。

 「………ああ、夕方志保がまた来るって言ってたぞ?それまでに良くなってれば外出禁止は免れるんじゃないか?」

 盗一は面白そうにそう付け加える。
 良くなっていなければ、学校にも行けない。事件の要請も禁止になるだろう。

 「………だと、思う。熱下がってればいいんだけどなあ」

 新一は、はあと吐息を付いて苦笑しながら盗一を見上げた。

 「ゆっくり寝てれば、下がるだろ。大丈夫さ」

 安心させるように盗一が笑顔を向けるので新一は、こくんと頷いた。
 そしてお粥を食べて薬を飲み、やがて来る睡魔に身を任せた。それを見届けると、そっと盗一は部屋から出ていった。
 


 翌日は新一の熱も下がり体調も良くなったが大事を取って学校は休んでいた。ベットの住人はいい加減退屈極まりなかったので、外出しないし暖かくしていることを条件に起き出してリビングで本を読んだりしていた。もちろん、盗一の監視付きである。
 しかし、志保や盗一の思いなど関係なく無情にも新一の携帯は鳴る。

 「もしもし?」

 新一は何かあるといけないからと側に置いておいた携帯を取り、そこに表示された名前を確認すると表情を改めて通話に出る。それだけで盗一には事件だとわかった。相手は新一と親しい目暮警部の場合が多い。
 が、事件だといわれても今日は出すわけにはいかなかった。
 どんなに新一にせがまれても聞けないことはある。
 盗一は新一が決して丈夫でないと志保から聞いていた。免疫力が下がっているため、風邪などを引き込みやすく疲れやすい。できるだけ無理はさせないようにと、志保からお願いされている。ただでさえ、殺人事件などは精神的に辛いもので普通の人間だとて滅入るものだ。一度新一に付いて現場に行った盗一もその殺伐とした雰囲気と重苦しい空気を体感していた。慣れていたとしてもあれは、良くないだろう。
 やっと熱も下がったのだから、よほどのものでない限り新一に外出はさせたくなかった。

 「はい。………え?はい、………わかりました。はい。では、また連絡します」

 新一は一瞬だけ顔色を変えるが、すぐに元に戻して返事をして携帯を切った。

 「事件か?」

 盗一は眉を寄せながら、新一を心配そうに見つめる。

 「………違う。外出する訳じゃないから、そんな顔しなくてもいいって」

 新一は苦笑する。
 まるで志保の心配症が盗一に移ったようだ。

 「だったら、何だったんだ?警察からだろ?」
 「………KIDの予告状。暗号を解いて欲しいって要請」

 新一は言い辛そうに、視線を下げて言葉を紡ぐ。その言葉を盗一は複雑な心境で受ける。

 「KIDの?」
 「そう。………ファックスが届くはずだ」

 KIDの暗号が警察では手に負えない場合だけ、新一のところに話が舞い込む。中森警部がどうしても駄目だと判断して目暮警部に協力して欲しいからと話が通り新一まで連絡が入るのがいつものパターンだ。そしてファックスが送られてきて、解読するとすぐに電話することになる。それにかかる時間は早ければ数時間、遅くても1日だ。
 そのことからも、警察が新一を最後の頼みにしていると伺える。

 「新一は一課に協力していると言ったが、KIDにも関わるのか?」

 盗一からすれば、それは当然の疑問だった。疑問というより確認で、関わっているからこそ自分を助けてくれたのかもしれない。何かKIDとの繋がりがなければ、倒れていた盗一を警察に突き出こともせずこの屋敷に置いておく理由がない。しかし、同時にKIDとの関わり合いは、KIDの要請を受ける探偵としてはおかしい。

 「現場にはいかない………。ただ、どうしても予告状の暗号が解けない場合頼まれるだけだ」
 「それだけ?」
 「それだけだ」

 新一は目をふせる。
 盗一の問いに新一は全て答えられない。
 本当は、現場にはいかなくても宝石の返却だけは手を貸している。逃走経路の途中で一時だけ、逢う。しかし、それを言っていいとは思えなかった。自分と現在のKIDとの関わり。口に出して説明することは難しい。それに、そのKIDは盗一ではないのだ………。
 
 ピーピピ………。ピー………。
 
 部屋にファックスの電子音が鳴り、印字された用紙が流れてくる。
 新一が動く前に盗一はその紙を取ってちらりと目を走らせソファに座ったまま自分を見つめてくる新一に渡した。

 「………ありがと」

 新一はそれを受け取ると徐に立ち上がる。

 「部屋にいるから」

 盗一が何か言いたそうな様子であるのを流して新一はリビングを後にした。
 
 
 部屋に戻ると新一は暗号の書かれた紙を見つめながら思考の海に沈む。
 細い顎に手を当てながら、目を細めて紙を見て。
 やがて、ペンを取り出し脇に置いてあるメモ用紙に思ったことを走り書く。
 謎を解いている時だけは、何も他のことは考えない。気にならない。
 時間が経つのも忘れてKIDからの言葉を解き明かす。
 新一にとって純粋に楽しい時間だ。
 この時ばかりは、KIDの事情は関係がない。早く捜し物が見つかればいいとか、悲壮な顔を見たくないとか思い浮かばない。
 瞳を輝かせながら、見る者があったなら思わず引き込まれるほどの微笑を浮かべて大好きな「暗号」に取り組む。
 
 やがて部屋にこもってどれほど時間が経ったのか定かでないが、新一は結論に達する。
 そして携帯を手に取って、目暮警部に電話をかけた。

 「もしもし………?」

 その声が少しだけ弾んでいても、仕方がないだろう。
 




 「これから、出かけて来るから」
 「気を付けて」

 夕食が終わり穏やかに珈琲を飲んでいた新一が、いきなりソファから立ち上がり隣に座っていた盗一に告げた。すると盗一は驚きもせず読んでいた本から顔を上げて微笑んだ。
 こんな時間から外出するというのに、盗一は新一に行き先を聞かない。
 普通だったら、どこへ?と気軽に聞くのだろうが、何も問わずに玄関まで新一を見送りに出て、いってらっしゃいと声をかけた。
 その声を後ろにして新一は夜の街へ歩き出す。
 
 今日はKIDの予告日である。
 先日警察から暗号解読の依頼を受けて、そこから解読した日にちが今日の午後10時10分。無事に宝石を盗めば逃走経路のビルの屋上には10時30分には着くだろう。それまでに新一はKIDが降り立つ場所に行かねばならなかった。
 今までは一人であったから、誰にも見とがめられずに家を出ていた。
 が、今日は新一が外出したことを盗一が知っている。
 外出する時、どこへ行くのか聞かれたらどうしようかと思った。絶対聞かれると思った。けれど、もし聞かれても新一はそれを盗一に素直に告げることはできなかっただろう。これから、KIDに逢いに行く、とは言えなかった。
 新一は目指すビルへ歩いて行く。そして、ビルの横にある非常階段を上る。
 遮るものがなく、冷たい風が吹き抜けていく。
 新一が一段一段上る度、ぎしぎしと非常階段は不安定な音を立てる。
 冷たい風に新一は一度ぶるりと身体をふるわせるが、上着の上から自分を抱きしめると頭上を向いて再び階段を上り始めた。
 重い鉄の扉を錆び付いた音を立てて開けると、強風のビル風が吹き付けた。新一は一瞬目をすがめるが、ゆっくりとコンクリートに靴音を立てながら歩いて屋上に取り付けられたフェンスまでやってくる。
 暗闇の中、蛍光色のネオンが光る。
 それを笑うかのように、今宵は上弦の月が銀色の光を地上に照らしている。
 遠くにサイレンの音が木霊している。
 新一はフェンスを掴んで、夜景を見つめながら小さく吐息を付く。
 
 (無事なら、もうすぐやってくるだろう………)
 
 腕に目を落とし時計の文字盤が示す時間を確認する。
 KIDが間違っても掴まったり、失敗するとは新一は思わなかった。ある意味正しく評価した結果である。警察が無能だというつもりもないが、KIDの方が1枚も2枚も上手だ。
 
 (KID………)

 新一は心の中で怪盗をよぶ。そして、その怜悧な純白の姿を脳裏に思い浮かべる。
 現在の新一の気持ちとしては、微妙に複雑であった。
 今までは知り得なかったKIDの謎。
 決して深く探ろうと思わなかったのに、このままの距離を保っていくと思っていたのに………。
 初代KIDに出逢ってしまった新一は、望まなくともKIDの正体に近付いているのだろう。初代と2代目の関係。全く何も関係がないはずがない。
 黒羽盗一というマジシャン。
 新一は彼を知っていた。
 もちろん知っているのはずっと後の、彼。世界的なマジシャンとして名前を知られている彼だ。
 その彼がどんな結末を迎えたかも………。
 事実は新一に影を落とす。
 しかし、新一には何一つできない。
 ただ、今の時代の自分ができることをするだけだ。過去は変えるはできない。してはいけない。盗一は自分の運命を知っているのだろうか。たとえ自分が告げなくても、知らずに情報は入ってくる。テレビでも雑誌でも、黒羽盗一はマジシャンとして著名であったから、探さなくても末路を辿れるだろう。それを彼が知っているのか、知っていないのか。もし知り得ても、きっと彼は新一に何も言わないだろ。聞かないだろう。
 そういう男だ。
 しばらく一緒に住んでいれば自ずと人間性はわかる。
 
 ガシャン。
 
 新一はフェンスに背中を預けて、頭上にある月を見上げた。

 (月下の奇術師といわれるくらいなのだから、月の女神に守護されていればいいんだけどな………)
 
 ぼんやりとそんなことを思っていると、新一の目の前に純白の鳥が降り立った。
 長いマントが強風にはためく音が響く。いつも通りの純白のシルクハットにスーツと片眼鏡が暗闇に浮かび上がる。その姿はどこにも怪我など見えず新一は安堵した。
 盗一を助けた時の情景が知らずに思い出されて、重ねあわせてしまうのだ。

 「ごきげんよう、名探偵」

 KIDは新一を認めると優雅に一礼して微笑んでみせた。
 
 「KID………」

 新一は小さく呟く。
 心中で感じる微妙な思いを押し隠して、瞬時に新一は探偵の顔を作る。

 「今日も、上手くいったみたいだな?」
 「はい。こうして今宵の獲物も私の手の中に………」

 KIDは手を閃かせて何もないところから宝石を取り出す。それを指で摘んで片手を頭上に伸ばし月に掲げて真摯に見つめる。
 その瞬間、静寂が満ちている。
 何かを、祈るように確認するKID。
 毎回その場面に遭遇する新一も共に祈っている。早く見つかればいいのに………と。そんなこと決して態度に現さないけれど、自分がKIDを見つめる瞳がとても真剣になっているのがわかる。
 やがて、小さく吐息を付いてKIDは腕を下げる。
 新一は、その一連の作業が終わるのを待ってからKIDに向かって歩き出す。それまでは決してKIDに近寄らない。彼の邪魔をするつもりはないのだ。
 カツン、カツンという靴音だけが強風の中響く。
 KIDとの距離があと一歩で埋まる場所で静かに新一は歩みを止めてKIDを見上げた。

 「ほら………」
 
 手を差し出す。
 KIDは新一の手の中に宝石を落とす。

 「よろしくお願いします」
 「ああ」

 新一は頷いて手の中に納まった宝石を軽く握りしめ、ポケットに入れる。そして、思い出したように眉音を寄せる。

 「あんまり難しい暗号作るなよ、俺のところにまで協力要請が来る」
 「難解な暗号はお気に召しませんか?名探偵なら、楽しんでもらえると思うのですが?」

 KIDは苦笑する。
 苦情を言っているが、実は目の前の名探偵が謎を解くのが大好きなことを知っている。三度の飯より推理、謎が好きで堪らないという人間としては些か逸脱した存在なのだ。

 「………確かに、楽しいけど。中森警部が可哀想だろ。本当はKID専属の自分が解き明かしたいって思ってるのに………」
 「中森警部は熱心な方ですけれど………それにあわせて予告状を作るのもいかがなものでしょうか?親切心で怪盗をしている訳でもありませんし」
 「そうだけどな………」

 新一とてわかっているのだ。
 警察にあわせてレベルを下げる馬鹿な犯罪者はいない。そんな義理はない。
 でも、わざわざ暗号なんて出すのだから正確に解いてもらわなければ意味がないのではないだろうか。その派手なデモンストレーションに意味があるのなら………意味がなければ、これほど危険なことはないし、するべきではない。KIDがただの愉快犯でないのは明らかなのだから。

 「………そうですね、名探偵のお手を煩わせるのは偶ににしましょう」

 KIDはくすりと口元に笑みを浮かべる。
 目深に被ったシルクハットに表情は隠されているが、楽しそうな雰囲気は伝わってくる。

 「偶にって………。まあ、そうしとけ」

 少し肩をすくめて新一は妥協した。

 (偶にくらいなら、暗号にも付き合ってやるか………)
 
 深くこれ以上関わりあわないようにしているのだけれど、KIDの暗号は楽しいことも事実である。解き明かす時間はわくわくする。これ以上ない魅力でもって新一を惹き付ける。しかし、探偵である新一がこれ以上近付いていいとも思えないのだ。

 「では偶にお付き合い下さいね」
 「ああ………」

 KIDの申し出に新一はこくりと頷く。
 
 ギギーッツーーー。
 
 一時だけの穏やかな時間が突如破られる音がした。屋上へ続く非常扉が開く錆び付いた音だ。KIDと新一は身構える。
 扉の先、現れたのは一人の青年だ。

 「なっ………」

 新一は喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 (どうして、なぜ?………ここに盗一が来るんだ???)
 
 そう、立っている男は盗一だった。
 銀縁の眼鏡をかけた端正な顔にどこか読めない大人の表情を浮かべて二人を見ている。

 「どうしたんだ?」

 新一は殊更言葉を選んで聞く。
 この場で盗一の名前を出す訳にもいかない。
 名前を呼ばなくても、KID自身は何か感じるかもしれないだろうが………。

 「新一を迎えに来た。かなり冷え込んでるから。また熱を出すと不味いだろ?」

 しかし盗一は微笑しながら、そんなことを言う。そして、ほら、と腕に持っている新一の上着を見せた。
 
 (それだけのために?そんな馬鹿なことがある訳ない………。おそらく、現代のKIDを見に来たのだ………)
 
 新一はふと横に立つKIDを見上げた。
 KIDは盗一をじっと観察するように見つめている。何か感じることがあるのだろうか?
 新一はさすがにこのままでは、不味いと気付いた。すでにKIDから宝石を預かるという用件は済んでいる。早くこの場から去るべきではないか。

 「じゃあ、確かに返しておくから」

 新一はKIDにそう告げると盗一の方まで走っていた。近寄った新一に盗一は微笑みながら上着を渡す。新一は言われるままに厚手の上着を着る。強風が遮られ、とても暖かい。着てみて初めて自分が冷え込んでいたことがわかった。

 「………サンキュー」
 「いいや。が、せめて今度から上着はもっていくべきだな」
 「わかった」

 こくこく新一は頷く。

 「これで熱がぶり返したら志保が怖いぞ?」
 「………怖いかもしれないな」
 
 その志保の顔を思い出したのか、恐ろしげに新一は呟く。

 「帰って暖まれば、大丈夫だろ」

 盗一は、早く帰ろうと新一の肩に手を置いて促した。扉に消える瞬間ふと振り向いてまだその場に佇んでいるKIDを見つめて意味ありげに、にやりと笑う。その笑みをKIDは挑戦的に受け取る。
 互いの視線が瞬間絡むが、盗一はそのまま視線を外して去っていった。
 
 残されたKIDはしばらく消えた先、非常扉を無言で見つめていた。






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