数ヶ月後、やっと工藤邸に新一は帰ってきた。 蘭にも逢った。 ずっとずっと心配させて、悪かったと………。 しかし以前と同じように過ごせない身体の上、どうなるかわからない状況である。 だから、これまでのように家に来てはいけないと無言で告げた。 どこか冷たくなってしまったが、自分にはこれ以外どうしようもなかった。 それでも変わらず大切な少女だ。 目暮警部にも報告をするため、警視庁に向かった。 訪れた先で、たまたま事件が難航していたため、協力をしてくることになった。 送るよ、という申し出を断ってタクシーを拾い門の少し前で止めてもらう。お金を払い道路に立つと工藤邸の大きな門扉に背中を預けるようにして西の探偵、服部平次が立っていた。 いつから待っているのか、俯いて何事か考えているようで声を掛け辛い雰囲気が彼の周りに漂っていた。 静寂の中、ことり、と道路を踏みしめる足音が響いた。 それに服部は顔を上げた。 その瞳は新一を認めると大きく見開き、あふれるような強い感情が現れた。服部の身体は新一を認めた瞬間から走り出している。 「工藤………!!!」 そして新一に抱き付いた。 「いつ、元に戻ったんや?どこに行ってたんや?姿かくして………。どれだけ心配したかわからんわ。俺は頼りにならんか?工藤!!!!」 怖いほど真剣に新一を見て、そう叫ぶと強く抱きしめた。 「服部………」 当然の服部の激昂に新一は驚くと同時に心配させたことを理解する。 組織と戦うと決めた時、姿を消すことを選んだ。 それから一切服部とは逢っていない。 連絡も取らなかった。 彼は新一が生きているのか死んでいるのかさえ、知らされなかったのだ。 さすがに悪かったとは思っているが、絶対に譲れないことであった。 服部は新一を両腕で抱きしめたまま離そうとしない。 まるで、存在を確かめるように………、離せば消えてしまうのではないかと思っているかの如く掻き抱く。 「服部、ごめん苦しい………」 新一は服部の上着を背に回した指で掴んで軽く引っ張った。 甘んじて受けなければならない事態であるが、弱った身体の新一にとって強い腕はとても辛いものだ………。 「あ、すまん」 服部は腕から力を抜いて、慌てて新一をのぞき込んだ。 束縛から解放された身体に安堵して、新一はふうと一息付くと自分を見つめている服部に苦笑する。 「ひとまず、中入れ」 「ああ」 新一は門扉を手に掛け、服部を家の中に即した。 まだ新一は工藤邸に戻ってきたばかりで、生活に必要な食材などは揃っていなかった。 それでも珈琲だけはすでに買揃えてあるのは新一の趣味である。自分がないと暮らせないのだからしょうがない。 本来ならちゃんとドリップして入れたいが贅沢は望めないため、コーヒーメーカーをセットする。カップを準備してサーバーから湯気の立つ珈琲を注いだ。 ふわりと立ち上げる焙ばしい香りを吸い込んで新一は満足そうに頷いた。 「ほら」 新一はリビングのソファに座っている服部にカップを渡す。 「砂糖は好きに入れてくれ。ミルクはまだ買ってないから、粉末で良ければそこにある」 テーブルに並べたスティックシュガーの入った壷と粉末のミルクの瓶を指差す。 「サンキュー」 けれどそれを使わず服部はそのままブラックで珈琲を一口飲んだ。 そして一心地付け、新一を真剣な表情で見つめて口を開いた。 「何してたんや?」 「………」 「黒の組織はどうなったんや?」 「………」 何も言えない。 語れない。 新一は無言だ。 「言われへんのか?」 「………」 「これでもあらかたの予想は付いてるやで?最近、ずっと政界、財界が騒がしかった。工藤が噛んでたんやろ?そうとしか考えられへんわ」 「さあ?」 「俺には告げられへんのか?教えてはくれへん?」 「………ああ。そう思ってくれて構わない」 組織の詳細を服部に語ることなどできない。例え壊滅に追い込んだとしてもその後の保証などないのだから。その情報を服部に知らすことはできなかった。 知れば危険が付きまとう。 それに、どう考えても危険な事をしていたのだ。 そんな事言えやしないだろう。 心配させるだけだ。 新一の拒否の言葉に一瞬黙るが、どうしても聞いておきたいと思う事を服部は口に乗せた。 「身体、元に戻ったんやな」 「ああ」 「………大丈夫なんか?」 言い難そうな服部に新一は苦笑する。 きっと随分痩せてしまった事はばれている。顔色がいいとはお世辞にも言えないことも知っている。 「一応、灰原からこうして普通の生活ができる許可ももらった。絶えず診てもらってるし、大丈夫だ」 安心させるように新一は小さく笑う。 それを痛ましそうに服部は見る。 「工藤を困らせたい訳やあらへん。変なこと聞いて悪かった」 一度カップに視線を落として再び顔を上げる。 「ずっとずっと心配しとった。姿を消して連絡も途絶えて………。どんなに探しても見つからへん。『江戸川コナン』は正式に転校の手続きがされていて、けど、その後に残った書類を探しても跡形もなく痕跡はない。工藤がおりそうな場所を探そうにも、さっぱりわからへんわ………」 当時を思い出してか、悔しそうに顔を歪める。 『江戸川コナン』の転校手続きは完璧であった。書類上どこにも不備はないはずだ。そこから辿れる情報など皆無だ。居場所がわからないのもそれ相当の準備と注意を怠らなかったのだから当然だろう。なぜなら組織と戦うのだから………。 ある意味服部に見つかるようでは、組織に一日で発見されたであろう。 「大阪なら少しは伝もあるけど、東京やもんな。東京におるって保証もあらへん。関東近郊やとは睨んだけど………。それでも探したんやで?やから、縋る思いで目暮警部に頼んでおいた。工藤から連絡が入ったら教えてくれって………」 そして、今日連絡をもらったんや、と自嘲した。 すぐに新幹線に飛び乗って服部はここまで来た。 服部はカップをテーブルに置くと、新一の前に歩み寄った。 見つめたままそっと新一に腕を伸ばした。 指先に触れる存在に少しでも安心するかのように新一を腕の中に抱き込んだ。 「工藤、好きなんや。いなくなって、気が狂いそうやった………」 感情を殺すように、絞り出された声はふるえていた。 「服部………」 強く抱きしめられて、新一は戸惑う。 「………すまん」 そうとしか言えなかった。 それほどに心配させた。 その事実に驚愕する。 けれど、でも………。 「工藤。好きや、好きや。どこにも行かんといて」 抱きしめる腕に力を込める。ぎゅっと抱きしめる身体の儚さが余計に切ない。 「工藤の側におりたい。なあ、俺は工藤の支えになれへんのか?」 新一は顔を上げ、服部を悲壮な瞳で見つめた。 その言葉は新一を痛めつける。 自分とは違う逢わない間にも成長している逞しい身体を、腕を突っ張ることで抵抗して新一は服部から離れた。 「………無理だ」 側にいることなどできない。いてほしくない。 支えなどいらない。 好き、と言われても答えられない。 新一の全身での否定の言葉を聞いた服部は唇を噛み、拳を握ってその痛みと激昂を納めようと努力する。 「それでも、好きや。これだけは変えられへんわ」 服部の言葉に新一は首を振って目を伏せる。 「客間、好きに使ってくれ。これから大阪に帰れねえだろう?」 新一は服部にそう言うと、後ろを振り返らず自室に入っていった。ぱたんと閉じられたドアが『入ってくるな』という新一の心を具現しているようで、見送るしかない自分が情けなかった。 その夜、服部はありがたく客間を借りて泊まっていった。 けれど、眠れない夜を過ごす………。 考えるのは新一のことばかりで、先ほど見た儚いばかりに綺麗な新一の顔が頭に焼き付いて離れない。 過去に二度ほど見たことがある工藤新一の本当の姿。 コナンの時からその推理力も探偵としての矜持も人間としての本質も惹かれていた。 逢えない間、気が狂うと思った。 狂わなかったのはもう一度逢うと決めていたから。 あの存在が、消えるなど許せない。 こんな激情が自分の中にあるなど知らなかった。 これは、狂気と紙一重の感情であると思う。 絶対になくせない存在がこの世界にある、それは幸せであり、同時に痛みである。 側にあれば限りなく幸福で、この目に映し出せない時、心は引き裂かれるような苦痛の色で染まる………。 それでも、その狂気じみた想いを忘れることなどできやしない。 例え、忘れさせてやると言われても、拒否をする。忘れてももう一度出逢えば、惹かれずにはいられないと知っているのだから………。 翌日の朝は晴天だった。 目映いばかりに瞳に入り込んでくる光が眩しい。 重厚な扉の前、工藤邸の玄関先に二人は立っていた。 新一は服部を無言で見上げた。 昨夜から、二人の間には沈黙が降りていて新一としては何かいいたかったのだ。けれど、口を開くが言葉にならなくて、結局話すことができなかった。服部はそんな新一の様子を見て、彼より先に話し出した。 否定の言葉など聞きたくなかったから………。 「俺、あきらめられへん。側におりたいわ」 「服部、駄目だ」 新一は即答する。 それでもあきらめることなどできない。そんな言葉で自分は止められない。 「駄目や言われても、無理や。俺は工藤が好きや。こればっかりは誰にも変えられへんわ。諦めてや………」 服部は晴れやかに笑う。 「………服部」 そんな事を言って笑う服部に新一は瞳を揺らした。 どうして、そんな事を言うのか? なぜ、放っておいてくれないのだろう………。 お願いだから、これ以上心を乱させないで欲しい。 自分にはどうしようもないのだから。 決して受け入れらないと知っている………。 「ああ、工藤を困らせたい訳やない。これは俺の勝手な気持ちや。けど、知っておいてほしかったんや………」 瞳を揺らす新一を優しげに痛ましげに見つめて、服部は彼らしい笑顔を見せた。 「好きや」 心からの真実の偽ることなどできない言葉。 告白というには、あまりにも率直で、飾らない言葉。 けれど、服部はその言葉しか持たなかった。 元気でな、と付け加えてきびすを返すと二度と振り向かずに去っていった。 その後ろ姿はどこか決意の色が見えて、新一の心にずきりと堪える。 小さくなる後ろ姿を見つめ続けた新一は、泣きはしないけれど泣きそうに歪めた瞳をしていた………。 そのひっそりとした姿を影で見ている者があった。 けれど新一は気付かなかった。 |