解毒剤が完成した。 解毒剤を飲んで元に戻る事、それは新一の切望する願いであった。 どんなにそれが安全の保障などどこにもなくて、今後のことなど不確定要素にあふれたものであろうとも、彼は迷うことはなかった。 実験と研究の繰り返しで出来上がった「解毒剤」。 それは死と隣り合わせの薬。 どんなに成功の確率が上がっても100%などあり得ない。 そして、最終的な人間での実験は新一か、哀しかありえないのだから。 何とも、絶望的な薬である。 それでも、元に、工藤新一に戻りたかった。 偽りの姿。 この身体でも、周りの人間に良くしてもらったと思う。 申し訳なかった。 ずっと黙っていた。騙していた。 許されることなど望まない。 だから、これから彼らを守る力が欲しかった。 元に戻れば少なくと、工藤新一の力は戻ってくるのだから。 例えそれが偽りの時間であろうと。 先の見えない儚い時間であっても、新一は望んだ。 ここは、マンションの一室である。 窓に面した部屋には机とその上にパソコン、ベットという必要最低限のものしかなかった。洋服などは造り付けのクローゼットに納められ、医療器具がベットの横にあるのが、落ち着いた部屋の中で異彩を放っていた。 その医療器具がある部屋の隅に置かれたベットで新一は寝ていた。 身体は衰弱して細く、以前も細かったが、より華奢になっている。貌も雪のように白い。このまま眠っている姿はまるで人形のようだ………。ただ、瞳を開ければ、強い意志に確かに生きていると安心することができた。 これでもかなり、良くなったのだ。 どうなるか全く予測の付かない不安定な身体である。哀の絶対安静の指示のもと、順調に回復を待っていた。 工藤邸には当然一度も戻っていない。 このような姿で世間に現れる訳にはいかなかった。 哀はずっと新一に付いていて治療、………監視ともいう………をしている。唯一で絶対の主治医は新一から目を離さなかった。当然だがそれだけ危ないのである。些細なことでも哀は見逃さないように新一を見ていた。 が、新一はある夜、哀の監視を振り切り抜け出した。 ほんのわずかの時間を狙って………。 そう、誰が見ても計画的である。 その事実に気付くのは、哀が足らないものをコンビニに買いに10分ほどマンションを空けて戻って来た時だった。 今日は、怪盗KIDの予告日である。 新聞に載った暗号文は全ての人間が目にすることができた。 やって来たのは中継地点に使うだろうビルの屋上。強風に少々熱っぽい身体が晒されて、返って気持ちいい。そう思うこと自体、きっと哀は目を釣り上げて激怒するだろう。 だから、屋上の影で、若干風が弱くなる場所で新一はKIDを待つ。 今宵の獲物は美術館で展示されている「オパール」である。 オパールは「希望の石」とも幸せを運ぶ「神の石」とも呼ばれ大切にされてきた宝石である。また、ローマ時代にシーザーがクレオパトラの心を射止めるために贈ったことから、愛と美を象徴するキューピッド・ストーンとしても人気である。 シェークスピアをして「宝石の王様」と呼ばせたこの石の美しさは、七色の光の効果と自体の地色のためだ。神秘的で繊細の魅力を有するオパールは人間の潜在意識に静かに働きかけるとも言われている。 特殊効果(宝石のインクルージュンや構造に起因して生じる光学的効果)の一つである「遊色効果」の赤が現れるホワイトオパール、『オーロラの雫』。 それが獲物の名前である。 怪盗は闇夜から現れた。 マントをぱさりと揺らして、ビルの屋上に降り立ったKIDは先客に驚いて瞳を見開いた。 この場所に現れることができたのは小さな名探偵だけだから………。 『唯一の名探偵』でない人間がこの場に現れるということも驚きだが、彼の東の高校生探偵が『怪盗KID』の現場に現れるなど、ないことである。過去に一度だけ、ニアミスしているが、実際に顔を合わせはしなかった。KIDはポーカーフェイスで聞く。 「これは、これは『東の名探偵工藤新一殿』ではありませんか?今日はわざわざいらして下さったのですか?」 それに、ふんと新一は笑う。 「単なる暇つぶしだ」 「暇つぶしですか?」 「ああ………」 暇つぶしで、ここに来るのだろうか?どこかの誰かと同じ精神構造をしているのかもしれない。懸命に自分を追いかけて来る警部もイギリス帰りの探偵もここまで辿り付けないのに………。 「ここに現れたということは、今日も上手くいったみたいだな?」 「ええ、もちろん」 KIDはポケットから取り出し戦利品の『オーロラの雫』をほら、と掲げて見せる。 新一は目を細めながらその宝石確認すると、 「そうか。宝石、返しておいてやるよ、怪盗KID」 と世間話のように新一は言った。 「………なぜ?」 KIDは内心首を傾げる。もちろん、そんな感情は表に出さない。 「必要ないものだろう、お前には」 警戒を全くしていないように、無防備に近付いてくる新一に驚く。 ふわりと音を感じさせない仕草で新一はKIDの前まで来ると、ほら、と手の平を差し出した。KIDはそれに魅入られたように宝石を彼の手の平に落とした。 どうして、こんなにも言うがままに動いてしまったのか? なぜか、とても気になる存在感。 初対面であるはずなのに………。 一課での活躍は聞いていた。新聞紙上でも彼の名探偵振りはいつも一面を飾りKIDの記事と一緒に世間をにぎわしていたのに、最近一切見かけなかった。 初めて見た彼は、大層綺麗だった。 美しい姿。 清廉で清浄な魂。 高雅で優美な肢体。 全てが人を惹き付けておかない美貌。 白い貌、濡れた黒髪。 何より彼の全てを物語る蒼い眸。 「じゃあな」 新一は宝石を受け取ると、もう用は済んだとばかりに薄く微笑して、きびすを返そうとする。 何の未練も感じさせないきっぱりとした探偵の態度にKIDは思わず腕を掴んで引き留めた。しかし掴んだ腕のあまりの細さに、内心驚く。 「何だ?」 新一は振り返り、眉をひそめる。 そっけない態度になぜか寂しくて、何か言ってこの場に引き留めたくなる。 「………最近お見かけしませんが、どうしました?」 「これでも多忙なんだよ」 即答である。 お前に構っていられない、興味などない、と言外に言い捨てている。 「これからも、いらして頂けませんか?」 「………言っただろ、暇つぶしだと。二度はない」 新一はそう断言すると、もう振り返らなかった。 がたん、と閉まる扉の音だけが屋上に響く。 KIDは東の探偵が消えた扉を見つめ続けた。 強風が吹き荒れる屋上には、KIDのマントがはためく、ばさりという音が響くだけだ。 取り残されたKIDはその場に立ちつくす。 なぜか、小さな名探偵と重なる存在。 清冽な、あの自分を救う魂が酷似している。 けれど、ありえないのだ………。 そんな事を考えることは間違っている。 「一度だけ」と言った小さな名探偵。 「二度はない」と言った工藤新一。 それは、同じ台詞ではないのだろうか? 不自然な同義に頭を巡らす。 彼は、『工藤新一』とは誰?何者なのか? その日からKIDの心の中を東の名探偵が占めていった………。 身を潜めているマンションに戻ったのは、深夜も随分越した頃だった。 そっと帰ってはきたが、やはりというか、哀に見つかってしまった。 「工藤君………?」 にっこりと微笑みながら、目は決して笑っていない表情は怖かった。 だから、素直に新一は謝った。 「すまん、灰原」 「すまん、てわかってるのにどうして外出なんてするの?」 「………、ちょっと散歩に行きたくなって」 「散歩ですって?」 「ああ………」 段々新一の声が小さくなる。 怒らせるだろうと理解していたが、ここまでとは。考えが甘かったかもしれない。 「お願いだから、無茶は止めてちょうだい。どうしても行きたい所があるなら、先に言っておいて。突然いなくなられる気持ちが貴方にわかる?」 小さな主治医は哀願するように、新一を見上げた。 幼い身体のままの哀。 『突然いなくなられる気持ち』は、正直わからないだろう。自分はいなくなってばかりだから。哀にそんな気持にさせたことを新一は悔やんだ。 なぜなら、突然死んでしまった姉を思い出させることになるからだ。 「まだまだ貴方の身体は油断できないのよ。免疫力も極端に下がったまま。心臓だって不整脈が続いていて、苦しいでしょう?今だって………」 「大丈夫だよ、灰原。でも、心配かけて悪かった。これから一ヶ月でもいくらでもじっとしてる。外出禁止でも、絶対安静でも守るから」 「その言葉、忘れんないでよ?工藤くん」 哀は少し微笑む。 「ああ。すまなかった」 新一は哀を安心させるように笑う。 もう、心配させては駄目だ。新一はそう思った。 しかし、哀は新一のどこか儚い笑顔に、体調がまだまだ予断を許さないことを知る。 絶対に、治してみせるわ。 再び、探偵として彼が立てるようにする。 それがどんなに苦痛を伴うことでも彼がそれを望むなら、自分は叶えるだけだ。 傍にいて、貴方を守るわ。 哀はそう心に誓う。 KIDは翌日、工藤邸を調べた。 が、人が住んでいる形跡はなかった。まして、行方不明と言われた名探偵が復活して警察に協力しているなどという話は全く聞かないのだ。 どうしたことだろう? 行方不明の名探偵は、暇つぶしと称して奇跡の如くKIDの前に現れたのだ。 その時だけしか痕跡がないのだ………。 それはつまりKIDにわざわざ逢いに来たと考えるのが妥当ではないだろうか? それの意味する所は? 謎が深まる。 確証も何もない。 それでも、自分は彼を知っている。そう感じた。 それは怪盗KIDとして培って来た紛れもない本能と感であった。 この時KIDは気付いていなかった。 その時身につけていた、持っていた宝石が「オパール」であり、「希望の石」と呼ばれることを………。 豊富な知識は、あまりの動転ぶりに役に立っていなかった。 もっとも、例え思い出していたとしても、信じるかどうかは謎であったが………。 |