新一と園子をいってらっしゃいと見送って、快斗は洗い物をすることにした。カップやポット、プリンの器などを水を張ったシンクにまず入れた。そして、中性洗剤を付けたスポンジで丁寧にカップやポットを洗う。揃いのものをうっかり一つ割るのはショックが大きいものだ。 すべてスポンジで洗うと、次は水洗いをする。 快斗は、洗い物が嫌いではなかった。面倒だという人間もいるだろうが、綺麗になっていく過程は楽しいと思う。もちろん、料理を作る過程も好きであるけれど。 こういう単純作業中は、手は動かしながら頭は全く別のことを考える。 現在の快斗は、先ほどまでの会話を反芻していた。どれを思い出しても、興味深い。 まさか園子が企業家であるとは思わなかった。新一が探偵をしていると聞いた時より驚きの部分では大きい。 それも、快斗の見た分では才能がある。商才は経験で磨かれるものであるが、センスは生まれ持ったものが多くをしめる。 それは快斗が己のほとんどを傾けるマジックでも同じだ。 手先の器用さはもって生まれたものが大きい。努力で一定はどうにかなるが、練習でできることは限られるものだ。最後はセンスが物を言う。もっとも、マジックだけではなりたたないのがマジシャンである。話し方、お客さんを見て何をするか選ぶ力など様々なことが必要になる。 それにしても、彼らの関係は面白い。 見て聞いているだけで、退屈しない。それどころか、楽しい。 こうして結婚なるものをして新一と二人で住んでいるが、日々新しいことばかりで暇を持て余すことがない。 本当に、いいな。 思っていていたよりずっとずっとこの生活が気に入っている自分が不思議だ。爺の策略で結婚なんてすることになってしまって、正直困った。それでも、相手が新一であるから、どうにかなっているのだ。新一で本当によかった。快斗はその偶然に感謝したい気分だ。 水洗いを終えて、布巾で水を拭き取るために皿を手に取った快斗は、ふと思った。 たとえば、新一が洗い物をしたとして皿を割ったとするならば、当然指を切るだろう。 新一に怪我をさせたら園子が怒るだろうことは、先ほどお願いされたことからも明らかだ。 もし顔に傷なんて付けたら、そら恐ろしい。 絶対、そんなことはしないけれど。物事には不可抗力というものが存在するし、事故だってある。と、どんなに言い訳を尽くしても園子は許さないのだろう。 この撮影前に新一の身体に傷が付いたら、園子が報復しそうである。保険がかけてあるからいいということはないのである。ないことを前提に、それでももしかしたらという事態に備えて保険はかけるのだ。 快斗は思う。 どうせ数日である。新一に家事の中でも特に台所仕事は避けるように言うべきだろうか。プロなのだからといえば新一もしぶしぶ納得するだろう。 快斗は、心中で勝手に決めた。 何事も、危険回避は必要である。 新一だとて、怪我をして仕事に穴を開けることは良しとしないだろう。新一の性格からそう結論付けた快斗は、新一が帰宅したら話をしておこうと思った。 「ただいまーーー」 声と共に帰宅した新一は。 磨かれた、というのは嘘ではなく全身からオーラが垂れ流されていた。瑞々しく透明感のある肌、さらさら流れるような漆黒の髪、桜色の唇に整った鼻梁と煌めく瞳。爪の先まで手入れされていて美しい。 快斗は納得した。 普段の新一でも十分にモデルができるほどの美貌であるが、こうして磨き抜かれた新一はジュエリーの専属モデルにと園子が望むほどに麗しい。業績が伸びているという彼女の言葉が信じられる。 「ごめんな、快斗。なんか迷惑かけてる……」 だが、新一は快斗の顔を見ると綺麗な顔を歪めた。 そして、自分と結婚などしなかったら、こんなことに巻き込まれなかったのに、と新一は謝った。新一は申し訳なさでいっぱいだったのだ。契約した時はまさか自分がこんなに早く結婚などするとは思っていなかったから、何かあっても自分だけの問題で済むと思っていた。それが、こんなことになるなんて……。新一は唇を噛み締めて快斗を見上げた。 新一の表情から後悔が見て取れた。 「いいよ。びっくりしたけど、新一のせいじゃない。新一と結婚したから今回の浮き世離れした事実に遭遇したけど、人間生きていればいろんなことが起こるんだ。だから、その分楽しむよ」 そう快斗は軽く笑う。 「ニューヨークなんて行ったことないからさ。ロスだけは父親に連れられて行ったけど。海外に行く機会に恵まれたと思うことにするよ」 どんな経験も糧になる。そうじゃないか?と快斗が優しく言うから、新一も笑った。 「……ありがと」 そう言ってもらえれば、新一の精神的負担は減る。小さく笑って新一はうんと頷き、快斗にもたれ掛かるように頭を預けた。 「快斗は優しいよな」 目を閉じて、新一は心から言葉にした。 「そうか?」 「そうだって」 首をひねる快斗に新一はにっこりと満面の笑みを浮かべた。CM撮影でもして映像に残したいほどの笑顔だった。 いよいよ、ニューヨークだ。 新一と快斗は園子と同行してアメリカに入った。 飛行機はビジネスクラス。 園子が個人的に旅行するならファーストクラスにでも乗るのだが、今回は社から交通費を出すためビジネスクラスだ。新一と快斗もモデルと同行者という扱いであるため、ビジネスクラスだ。 社としての規定に則っているため、制約は多い。 だが、企業家として活動してそろそろ2年になる園子は慣れてきているため、最近では大して戸惑うことなく振る舞うことができるようになった。 最初は、どうしたらいいか迷ったのだ。 鈴木財閥の次女として、公の場にでることは多かったから多少は基本があったとしても、責任を負う立場になった途端様々なことに気を配り決断していかなければならなくなった。 空港に到着すると、迎えと車が待っていた。そのまま車に乗り込み一端ホテルに向かって荷物をロビーに預けてからスタジオがあるビルに入った。 「Hollo!」 「Hollo!!」 園子はスタッフと抱擁して挨拶を交わす。しっかりと欧米の挨拶に慣れているようだ。 新一と快斗も日常会話には事欠かない程度に英語は話せるから、気後れもしないし大して困ることもなかった。 園子がスタッフと打ち合わせを軽くしている間二人は後ろでスタジオ内を観察していた。照明やカメラが囲むようにしている場所にはセットが作られている。 今回はクリスマス用のものも取るため、白い雪と木々、ツリーと暖炉などいくつか別の小物が用意されている。それ以外にも秋冬らしいセットが準備されていて、テレビCM用とポスター用や雑誌用や店頭に飾るものと何パターンも取るために、皆が忙しく働いていた。 飛行機の中で、撮影について園子はいろいろ語っていたから快斗は初めて入り込んだ場所でも緊張はしていなかった。新一はすでに撮影を何度となくこなしているせいか、慣れている。 「OK!じゃあ、セイ準備してね」 「Yes」 新一は衣装やメイクといったスタッフに連れられてスタジオを出ていった。別の場所で用意するのだろう。 セイというのは、新一のモデル名である。口が堅い人間ばかりだが、この場所では本名は口にしないようにしている。信用しているスタッフばかりを集めているが、絶対ということはない上、誰か別の人間がうっかり入って来ることもあるかもしれない。 新一の正体を隠すため必要最低限の人間しか新一の本名は知らなかったし、この場でセイ以外の名前で呼ぶ人間は皆無だった。 その点は、徹底して園子はスタッフに言い聞かせていた。 「じゃあ、ケイはそこら辺見ていてもいいし、その椅子に座って待っていてくれてもいいわ」 「了解」 快斗は片手を上げて答えると、少し見て回らせてもらうよと返した。 「何かあったら言ってね」 園子は快斗にそういって手を振るとスタッフとの打ち合わせに入った。 ケイとはここに来る前に園子と新一と決めた名前である。新一の情報を隠しているのに、快斗の名前が普通に出ていたらばれる可能性が高くなる。だから、快斗はここではケイと呼ばれるのだ。 不思議そうに快斗を盗み見るスタッフに喉の奥で笑いをかみ殺し、平然とした顔でスタジオ内を歩く。 セットを見てから撮影に使うため並べられている商品のところまで来た快斗に、空港まで迎えに来てくれたスタッフの一人が話しかけた。 「説明しましょうか?ケイ」 実は母親は日本人であるため日本語が堪能で園子が信頼を置いているスタッフの一人、フジカである。アメリカ名はアリッサというのだが、日本名は「藤花」というため、日本人の新一や快斗にはそちらで呼んでねと言われている。 長い黒髪と緑色の瞳を持ったフジカは父親がアメリカ人とはいえ、父親の両親がネパール人とアメリカ人であるため、造作は間違いなくアジアンだ。 「お願いできれば。でも、時間がないのなら、構わないで下さい。適当にしていますから」 ここではなるべくマジシャンらしく物腰柔らかにと快斗は決めている。快斗の素性もそうすればわかりにくいだろうという配慮だ。 「謙遜は必要ありません。ちょうど私は時間が開いたのです。それぞれ専門が決まっていますからね」 「では、お願いします」 「Yes」 フジカは小さな笑みを浮かべて、並べられているジュエリーを一つ手に取った。すでに彼女は白い手袋をしている。指紋や汚れや傷をつけないためだ。 「これが、今回の新作マリッジです。プラチナとホワイトゴールド台のものと2タイプあります。石はブルーダイヤモンドとサファイアの2種類です。それぞれの中心に置いた両脇にメレでダイヤモンドを配置しています。デザインはこのように、やや直線のものと曲線が優美なものと、一番斬新なものでマリッジにしては太くて存在感があります」 マリッジリングが全部の種類並んでいる。多分、どれを使うのが一番いいのか撮影してみて決めるのだろう。 「そして、これがエンゲージです」 慎重な手つきでフジカはビロードの小箱を持つ。蓋を開いた中にあるのは、1CTのブルーダイヤモンドだ。 園子が力説していた『77面ロイヤルエクセレント』は快斗の目の前できらきらと輝いていた。確かに、輝きが違う。光の反射率がいいのだが、目に見える効果はこうして自分の目で見て初めて実感できるだろう。 「この大きさのブルーダイヤモンドを手に入れるのは難しいのです。ただでさえ難しいというのに、特にこの色が問題です。薄い色でも1CT越えるものの入手は困難なのに、深い色である蒼を入手するのは困難中の困難です。色にもグレードあって、濃い色のファンシーカラーダイヤモンドは滅多に市場に出回りません。また、濃くてもブルーダイヤモンドの場合グレーが入ったものは蒼みがくすみ値段が落ちます。その濃さで3CT以上のものであれば、ピンクやブルーなら億は下りません。ですから、バイヤーが大変苦労したと聞いています。社長から要請があってもすぐには無理でした。けれど、その甲斐あって素晴らしいリングが出来上がりました。本店に飾ることになっていますから、きっとお客様の目を楽しませてくれると思います。私も今から楽しみですわ」 「そうですね。話には聞いていたのですが、実物は奇跡のようです」 快斗はブルーダイヤモンドをじっくりと見つめながら、頷く。 「そうでしょ?でも、きっとセイが身につけてくれたらもっとこれは美しく輝くと思いますよ。だって、そのために作られたのですから」 決して鑑賞用で作ったエンゲージではない。誰かの指を飾るために、ここにあるのだ。本店に飾るためとはいえ、誰の指にもはまることがない指輪では悲しいものだ。 「……そうですね。きっと、似合うでしょう」 その姿を想像して、快斗はふっと笑う。モデル姿の新一はまだ写真でしか見ていないが、本物はきっと映像とは段違いだ。 「ええ。ここだけの話ですが、デザイナーはセイをイメージして作っているようですよ。専属モデルなので、彼が絶対身につけて写真を撮るため問題ないといえばないのですが。お客様が似合うかどうかが一番ですから、少し困りものです。でも、その分素晴らしいデザインが出来上がって来るので社長も笑って許しているようですが」 小さな声で、フジカが内緒話を教えた。 「……」 きっと新一はそんことを知らないだろう。モデルである自覚がいまいち抜けている部分があるから。日本で一切宣伝活動を行っていないし、発売していないからといって全く知られない訳ではないだろう。こちらで暮らしている人は新一が誰かは知らなくてもモデルであるセイの存在は認知している。そして、日本で新一にあったらわかってしまうのではないだろうか。快斗はそう思った。 その割には新一は不用意だ。探偵をしている部分はあれほど周りに気を配れるというのに。そこが面白いと快斗は思う。 「では、次です。このカフスは、プラチナ台にスクエアカットされたサファイアを埋め込んだものです。同種の大きさ、輝きを二つ用意するのが困難ですが、たくさんある中で選び抜いたためサファイアの質がとても良いです」 エンゲージの箱を置き次の箱を取って快斗に見せる。フジカの手の中で青い輝きを放つカフスが二つ並んでいる。 実は、サファイアではなく試作品で蒼いベネチアングラスでカフスを作ってみたが、それは採用されなかったため、園子が新一に渡したという経緯がある。快斗が使ったものだ。 そこまでは、フジカも知らないし快斗も聞いていないので自分が使ったものがまさか試作品だとは思いもよらないだろう。 「こちらは、ピンです。ネクタイピン代わりにも、ブローチ代わりにもなるものです。黒蝶貝真珠の中でも希少価値が高く最高色であるピーコックグリーンは『孔雀色』の呼び名通り黒色の地色から孔雀の羽のような光沢が浮かび上がり大層美しいです。黒真珠の全体のわずか3パーセント未満しか採れない特級品の中で、粒の大きいものを選りすぐりピンにしました」 確かに、なんと美しい輝きをしている黒真珠だろうか。神秘的な輝きを持った真珠である。 「ひょっとして、普通の乳白色の真珠はわざと使わない?」 「ええ。社長がいうには、誰もが見たことがあるものを使っても意味がない、とのことです。もう一つは、やはりうちのイメージには黒真珠だから、だそうです」 「なるほど」 いくつもここのジュエリーを見ていると自然とその統一感というか作りたいものの理想がわかってくる。だから快斗も乳白色の真珠を使わないのだと予想が付いた。 ここで、最高級の黒真珠を持って来るのが園子らしいといえばらしい。 「あら、用意ができたようですね」 フジカはスタッフ達がざわめいたのを見て、視線を快斗の肩越しにある人物へと移した。視線を向けた先には、新一が立っていた。白いシャツに黒いパンツとシンプルな衣装であるが、まとう雰囲気さえも息を飲むほど清廉だった。 「ケイ?」 ゆっくりと快斗のところまで歩いて来て声をかける新一に快斗は口元に笑みを刻んだ。 絹のような黒髪が歩く度に流れるよう動き、蒼い瞳はここにあるどんな宝石より美しい。細い指の爪の先までも磨かれて、身体全てから見る者を惹き付けるオーラが溢れている。 「すごいな。これが、モデルのセイ。初めて見るけど、たいしたものだと思うよ」 「そっか?自分じゃわからないけど。ああ、撮影中は暇かもしれないけど、適当にな」 新一はモデル仕様であるどこか儚い微笑を快斗に向けて、手をひらひらと振る。 快斗からすれば、多分撮影を見ているだけで楽しいだろうから暇になることはないと思ったが、新一が心配しているのが伺えたので、ああと頷いた。 そして、マジシャンではなく快斗本心の笑みでエールを贈る。 「がんばって来い」 「うん」 新一も目を細め上機嫌に微笑んだ。新一自身の笑みだ。 セイ、と園子からセットの端で呼ばれた新一は、じゃあと言い置き快斗に背を向けてスタッフ達が待つ場所へ歩いて行った。 |