「吐息までの距離」3
〜事件編 前編〜




 明日はKIDの予告日である。世間は新聞や雑誌、テレビでも取り上げているため、誰もが犯行予告場所と時間を知っていた。
 KIDの予告状が届くと大抵2課の中森警部が解読に当たる。例え中森警部の手に余っても現在はKID専属の探偵である白馬がいるから、暗号を説くことができる。
 しかし、今回の暗号は殊の外難解だった。
 過去に類を見ないほどの、暗号マニアが見たら感動・感激である出来映え。
 という訳で、管轄外と言われている捜査一課専属、日本警察の救世主である工藤新一に依頼が舞い込むこととなった。

 「お前、今回難解過ぎなんじゃねえか?」
 「そう?でも、新一1日で解いたじゃん」
 「そうだけど………。中森警部も白馬もギブアップみたいだし。解いてもらわないとKIDとしては困るだろう?予告にならない」
 「でも、新一が解くことになるからいいんじゃない?第一、新一がもっとすんごく難解で楽しめるのがいいって言うから、今回がんばったのに………」
 「………そうだけど」

 新一は言葉を濁す。
 暗号好きの新一は毎回KIDの予告状を本人からもらっている。
 警備にも捕り物にも参加しないけれど、暗号だけ楽しむ新一が、可愛らしい我が儘を言うので快斗は新一のために自慢の頭脳を巡らせて超難解な暗号を作ったのだ。
 もちろん、警視庁へ送ると同時に新一にプレゼントしたのだが、新一は楽しそうに瞳をきらきらさせて取り組み………その間快斗は構ってもらえなかった………1日で解いた。
 しかし、如何せん全く出も足も出ない状態が続き、いい加減期日が迫ってると思えてきた2課から依頼が来たので、すでに解いてあったのだが新一が予告状をすでに知っているという訳にはいかず………解読できていなかったので世間にも内容を発表していなかった………半日経ってから解読内容を電話した。

 「それより、新一。目の下にクマがあるよ。また、夜更かしして本読んでただろう?」

 快斗が新一の頬に手を伸ばして目を細める。

 「………」

 図星の新一は気まずげに視線を外す。
 昨日、新作のミステリが出たのだ。
 新一がこよなく愛する、先月から楽しみにしてた推理小説の新刊。
 昨夜快斗が作った夕食を美味しく取って彼が帰宅した後、新一はゆっくりと読書タイムに突入したのだ。
 快斗がいると自然と眠くなるので、快斗のいない時。
 休日は泊まっていくことが多いから、平日夜中が新一の趣味の時間である。
 もちろん平日でも怪盗KIDの予告日は窓からKIDがやってくるから、その日は除外される。

 「新一。哀ちゃんに言いつけるよ?」
 「快斗。灰原に言うのはやめろ」
 「だって新一言っても聞いてくれないし。だったらここは一つ、主治医の哀ちゃんから言ってもらわないとね………」
 「わかったから!灰原には言うな!」

 新一は訴えた。
 主治医である灰原哀が怒ると新一にはどうしようもなかった。
 恐ろしい。そう、彼女が怒ると新一は外出禁止の憂き目にあう。読書も止められて部屋から出してもらえないのだ。
 反抗しようものなら、実力行使される。
 過去に一度それを体験した新一は彼女だけは怒らせまいと心に誓ったのだ。
 名探偵と誉れ高い彼も隣家の主治医である少女だけには絶対服従である。

 「今日は、早く寝るんだよ?いい?」

 快斗は仕方なく交換条件を出す。

 「わかった」

 新一は頷く。それに一応納得して快斗は守ってねと一言添える。

 「珈琲でも入れるよ」

 一息入れようかと快斗がキッチンに立つと、すぐ新一の携帯が鳴った。新一はポケットから携帯を取り出し表示されている名前を確認して出る。

 「もしもし………、はい。はい。………ええ、大丈夫ですよ。わかりました。はい………失礼します」

 電源を切って、真剣な表情を浮かべていると快斗がキッチンから顔を出した。

 「誰?ひょっとして、警部さん?」

 こんな夜も更けた時間にかけてくる人間に検討が付く。

 「ああ。事件が起こったらしい。これから高木刑事が迎えに来てくれる。………ごめん、快斗」
 「いいよ。事件じゃしょうがない。でも、無理しないようにね?只でさえ睡眠不足なんだから。そうじゃないと、また倒れるよ?」
 「わかってる」

 素直に頷く新一を快斗は優しく抱きしめた。そして、ソファに置いてある新一には少し大きめの自分の上着を着せてやる。

 「これ、暖かいから」
 「うん。………ああ、快斗の匂いがするな?」

 ふわりと微笑む新一に快斗は満足そうに目を細める。
 自分の匂いで、暖かさで新一が安心するならいい。
 現場は殺伐としている、そして夜は冷える。新一の身体が心配だった。
 快斗の上着なら新一も安易に脱がず、ずっと着ているだろうと推測できるし。
 快斗は上着のボタンを留めて襟を整えて、きっちりと新一に着せる。快斗とは身体のサイズが違い新一には大きめだから袖先から指しか出ない。丈も若干長めになる。それが妙に可愛らしくて快斗は微笑む。
 
 しばらしくして、玄関のベルが鳴った。

 「じゃあ、行って来る」
 「行ってらっしゃい」
 「快斗も、気を付けて?」

 玄関まで見送りに出る快斗に新一が小さな声でそっと一言告げた。
 明日はKIDの予告日だ。自分は事件に出かけて家に戻れないかもしれない。そうしたら、無事に終わるまで顔をあわさない可能性が高い。
 快斗を信じている。でも………。新一の心配がない訳ではない。

 「ああ、わかってる。新一もね」

 そんな新一の心配を理解して快斗はにっこり安心させるように微笑む。新一もその優しい笑顔にこくりと頷いた。

 「じゃあ」

 新一は小さく手を振って待たせている高木のために、急いで玄関から出て行った。





 現場に着くと、新一は目暮に挨拶する。

 「こんばんは、目暮警部」
 「ああ、工藤君。悪いね、こんな時間に」
 「いいえ。お気になさらず。それで状況はどうですか?」
 「ああ、こちらだ」

 目暮は新一を伴って殺人現場であるマンションの1室に入っていった。
 ここは都心にある豪華なマンションの1室である。一人で住むには十分な広さを誇る3LDK。リビングは大きく20畳程ある。

 「この部屋に住む中小企業の社長を務める男性が被害者だ。藤田弘司43歳。20代の若さで会社を興しこの不況を乗り切っている切れ者と名高い。が、少々強引な事を当然行って来た訳で恨み辛みを買っていても不思議ではない………」
 「それで?」

 新一は目暮の説明を促す。

 「問題は、凶器が見つからないんだ」

 目暮は現状維持のままで血を流し倒れたままの被害者の前にしゃがみ込む。新一もその横に並んで被害者を見つめた。そしてポケットから手袋を取り出しはめて、「失礼します」と断り、被害者を検分する。
 すでに血が固まった頭部、顔、口中、手や足、背広それぞれ冷静な目で観察する。やがてすぐ近くで立っている馴染みの監察に声をかけた。

 「致命傷は?」
 「おそらくテーブルにぶつけたせいでしょう。何かで殴られて、倒れた時に運悪くテーブルの角に頭をぶつけたと見るのが妥当かと。後頭部と側頭部、2カ所に損傷がありますからね………。けれど、ルミノール反応がテーブルからしか見つからないんですよ。………おそらく凶器は犯人が持ち去った可能性が高い」
 「ありがとうございます」

 新一は礼を言って頭を軽く下げる。

 頭部を何で殴られたのか。凶器は何か?
 しかし、現場には何も残されていない。犯人が持ち去ったのか?
 部屋に通す上、背後から殴られていることのだから親しい人間の可能性が高い。

 「今、怪しい人間を絞り込んでいるんだがな………」

 誰が尋ねてきたのか、現段階でわからないのだ。
 1階の集合玄関にある防犯カメラにその人物が写っていればいいが、わからないように変装していたら。
 計画的犯行か、突発的犯行か。
 目暮は首をひねる。

 「………この部屋随分煙草の香りがしますね?」

 思考するように顎に手を当てて俯いていた新一は突然目暮に問う。

 「ああ。被害者はヘビースモーカーだったらしい。部屋中に染みついている。絨毯にも焼けこげた後があるしな」
 「………なのに、テーブルに灰皿や吸い殻がないですね?」

 テーブルの上には何もなく、綺麗なものだ。

 「ゴミ箱にちょうど捨てた所らしい。調べたら吸い殻があった」
 「見てもよろしいですか?」
 「ああ」

 二人はそのままキッチンまで移動する。
 何の変哲もないごみ箱に吸い殻が無造作に捨てられている。そして、キッチンの流しの横に洗われた小振りなガラスの灰皿が置いてあった。

 「………?」

 新一は細い顎に手を当てて、首をひねる。

 「何か?」
 「いえ、何か違和感が」

 来客があった時、相手が嫌がらない限りヘビースモーカーの人物は煙草を吸うのではないか?それが洗われているということは、本人が洗ったなら来客は煙草が許せない、嫌がっていると被害者が知っている人物ということになる。
 もちろん、何らかの事情で加害者が煙草を始末して洗ったのなら、話は全く別だ。そこには犯人の何らかの意図がある。
 新一はリビング以外の部屋を見て回る。
 寝室。セミダブルのベッド。ナイトテーブルその上にコップ。重厚な遮光カーテン。
 書斎。大振りな机にノートパソコンが鎮座し、煙草とライター。横にはプリンター。本棚には本や書類。
 和室。木の机、座布団。押入には来客用の布団。
 廊下。バス、トイレ。
 新一の後を一応付いて目暮は歩く。その度に新一の質問にわかる限り答える。一通り回って再びリビングに戻ってくる。

 「何かわかったかね?」
 「これだけでは、何とも」
 「………そうだろうね」

 目暮は吐息を付く。

 「警部!今日ここに訪れた人間がわかりました」

 若い刑事が大きな声でリビングに入ってきて、目暮に報告する。

 「そうか。わかった………工藤君、いいかね?」
 「ええ、構いませんよ。ご一緒しましょう」

 新一は頷いた。






 本庁まで戻り、一人ずつ事情聴取をする。
 参考人は3人。被害者に逢った時のこと、時間などを聞いて。そこから思考を巡らして、少々調べて欲しいことがあったため高木に頼んであるり、その結果待ちだ。
 結局、事件で家を出て、夜が明けてしまった。出かけた時間が夜も更けた時刻だったから当然と言えば当然であるが。
 現時刻はすでに翌日の午前11時。腕時計を確認して一度吐息を付くと新一は差し入れられた珈琲をカップに入れて飲み干す。決して美味しいとは言えないが、その口に広がる苦みが疲れた身体を起こしてくれる。このまま会議室にいるのもなあ、と思い少し頭を整理しようかと外の空気を吸うかと廊下を歩いていると………。

 「工藤君!」
 「工藤!」
 「ああ。白馬と服部」

 廊下の先から白馬と服部が走ってきた。

 「事件か?」
 「事件ですか?」

 二人は同時に新一に聞く。
 新一がこんな時間に本庁にいる理由はそれ以外ないであろう。ざっくり編んだ卵色のセーターに濃紺のスラックス。彼には大きめの焦げ茶色の上着。白皙の美貌はいつもより青白く、輝く蒼い瞳が若干疲労で潤んでいる。その雰囲気と様子から朝から呼ばれたというより、ずっとここに詰めているとわかる。

 「そっちは、KIDか………」

 新一は確認するまでもないと思いつつその言葉を口にする。もちろん白馬も服部も大きく頷いた。

 「そうです。工藤君は事件で徹夜ですか?」
 「ああ。昨日起こった事件でずっと詰めている」

 新一は頭をふって睡魔を追い払うようにしつつ目を眇める。

 「服部はわざわざ大阪から?」
 「おお、そうや。今回の宝石持ってるおっちゃん親父の知り合いなんや。だから俺はスケットや。そうやなかったら、俺もそっちに行くんやけどな」

 服部は残念そうに肩をすくめた。殺人事件専門という訳でもない服部は大阪でのKIDの捕り物にも参加する。ただ、KIDより新一と一緒に捜査に当たれるならそちらの方が魅力的だ。

 「ま、がんばれよ」
 「任せておけや!工藤、事件やなかったらこっちに誘うんやけどな。相変わらず泥棒には興味はないか?」
 「ない………」

 新一の返事は素っ気ない。わかっていた答えに服部は苦笑する。

 「そうか。そういうと思ったわ。もし終わったら東京案内してくれや」
 「………そんな時間はないと思う。白馬に案内してもらえ。その方が確実だろ」
 「冷たいやん。今夜泊めてや」
 「今夜帰れるとも限らないのに、そんな約束できないだろ?それに俺は他人が側にいると寝られないから安眠妨害するな」
 「ひどいなあ………」

 服部が情けなさそうな顔で見つめるが新一は取り合わない。
 時々前触れなしに押しかける服部は、工藤邸に泊めろというが一度仕方なく泊めて人の気配に寝られなくて寝不足で不愉快になったため、二度と泊めないと新一は決めていた。
 自分の魅力には限りなく自覚がないが、人の気配は敏感だった。
 服部の自分に向ける欲の混ざった感情には全く気が付かないのに、無意識の領分では自分に害をなすと判断するのだろうか定かではないが………。
 一方服部としては、いつもこちらに事件関係などで出向く時は新一に連絡している。連絡しない、突然用事もなく襲撃するのはわざとである。今回内緒で赴いたのは新一がKIDの捕り物に決して参加しないことと、服部の所にまで回ってきた暗号が解けなかったせいだ。新一の元まで縋った暗号は半日で解けたと報告を聞いたから、正直顔があわせ辛かった。

 「これから警備に行くんだろう?じゃあな」 

 新一はもう興味はないとばかりに背を向けた。
 彼にはやらなければならないことが待っている。
 事件に関わっている時の新一は通常より厳しい。同じ探偵であるのだからその時の精神がいかに研ぎ澄まされ、全てを謎に向けているか理解できる。殺人事件の抱えている人間関係は愛憎劇が多い。その辛い状態で神経がすり減らない訳がない。

 ただ、真実を。
 その瞳が見極める。
 その奇跡のような瞬間を見てしまったら、誰も止めることなどできない。
 惹き付けられて、目を反らせない。
 きっと、この事件もそうして終演を迎えるのだろう。
 新一の華奢な後ろ姿を見送り、白馬と服部は一度吐息を付くとKIDのショーが行われるであろう美術館に向かうことにした。






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