「志保」 「あら、いらっしゃい」 新一が声をかけると、背を向けていた志保がイスを回して振り向いた。若くとも白衣を羽織っているせいか、医者らしく見える。もっとも、その落ち着いた瞳と冷たい雰囲気がそうさせている主な理由だが。 「さて、座って」 「ああ」 新一は志保の前のイスに腰掛ける。 「なにか変わったことは?昨日は警察からお呼びがかかったのでしょ?」 「特にないけど。事件も早く解決したから、昨日はちゃんと8時には帰ってきたし。ご飯も食べたぞ」 「なにを食べたの?」 「うどんかな。あと出汁巻き卵と作っておいたひじきの煮物。その後、志保にもらったくクッキー食べた」 昨晩のメニューを思い浮かべて新一が語ると、志保は鷹揚に頷いた。 「まあ、合格点ぎりぎりね。もっと食べて欲しいけど、あなた小食だから」 「それは俺だけじゃないだろ?志保だって同じだ」 条件は同じだと新一は主張した。それは正しいといえば正しい。男女差を考えなければ。 「あら?無理をするのはあなたの方よ。同じだけど、同じじゃないわね」 志保は話をしながら新一が自らシャツのボタンをはずして広げた胸に聴診器を当てる。そして、しばらく黙り心音を聴く。 「不整脈は変わらないわね。それでも随分まともだけど」 志保は症状を伝えながら次の指示をする。 「ちょっと口あけて」 言われるがまま口を開いた新一の喉を志保は見る。腫れてもいないし赤くもない。 「こっちは、いいわ。体温はどう?ちょっと、計って」 志保は新一に耳に当てて使用する体温計を渡す。新一も受け取って素早く耳に当てて計る。ピピという計測を知らせる音を聞き、表示された数字を見る。 「……37度2分。こんなもんだろう」 新一は通常なら微熱に当たる数字を軽く流した。 「微熱だから寝ていなさいと言いたいけど、体温調節がうまく出来ていないからね。私だって微熱もあれば、35度5分だってあるから。自律神経が上手に働いていないせいかしらね。まあ、いいわ。目の下に隈もないし、睡眠不足ではないようだから」 「志保は?研究で無理してないのか?」 「私は平気よ。研究は続けているけど、期限がある訳じゃないから、地道にやっているもの。心配ご無用よ」 志保は新一の心配に小さく笑った。 「それからね、工藤くん。この間の血液検査だけど。相変わらずだから、くれぐれも怪我には注意してね。血が固まり難いから、一度流れると止まらないもの」 「わかった」 新一は素直に頷く。 健康診断は毎日、血液検査は週に一度がベストだが、そうでない場合は可能な限り努力するのが二人の間での約束だ。新一の体調管理は主治医である志保の仕事であり使命である。互いに無理をさせた身体だ。今後なにが起こるかわからない。 健康に生きていける保証はない。普通に成長し老いていけるかどうかも不明だ。 それを志保は新一に包み隠さず詳しく話している。 あまりに専門的な話で、新一は質問を加えながら理解しようとしたが、大まかにはわかっても志保と同じだけはわからなくて苦笑するという場面がちらほらあった。 APTX4869。 それが志保の両親、科学者であった宮野厚司とエレーナから引き継ぎ開発していた薬物の名前である。プログラム細胞死(アポトーシス)を誘導し、テロメアーゼ活性によって細胞の増殖能力を高める。マウス実験で投与すると死にいたり体からはなにも検出されなかった。 実験段階で試作された薬物を、組織は体内から毒物反応が出ない毒薬として使用したが、元々は全く別のものを目指していたのだ。毒薬として使用されたのは研究者としては決して許せないことである。 極まれにマウス実験で、アポトーシスの偶発的な作用で神経組織を除いた骨格、筋肉、内蔵、体毛などすべての細胞が幼児期まで後退化することがあった。その人間の例が新一と志保の二例だ。 「そもそもアポトーシスとは多細胞生物を構成する細胞の死に方の一種で、個体をよりよい状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死のこと。特徴としては、細胞膜構造変化。核が凝縮する。DNA断片化。細胞が小型のアポトーシス小胞と呼ぶ構造に分解する。という変化があるわ。多細胞動物の体内では癌化した細胞のほとんどはアポトーシスによって取り除かれ続け、これにより腫瘍は成長が未然に防がれているのよ」 哀は流れるように、説明をする。 説明をしていた時はまだ灰原哀という姿だった。 「で、テロメアは真核生物の染色体の末端にある構造。染色体末端を保護する役目を持つ。そして、テロメアは特徴的な繰り返し配列をもつDNAと様々なたんぱく質からなる構造だわ。で、テロメアの伸張はテロメラーゼと呼ばれる酵素。この酵素がない細胞では細胞分裂の度にテロメアが短くなる。テロメラーゼはヒトの体細胞では発現していないか、弱い活性しかもたいない。そのためヒトの体細胞を取り出して培養すると、テロメアの短縮が起こる。テロメアが一定長より短くなると不可逆的に増殖を止め、『細胞老化』と呼ばれる状態になる。細胞老化は細胞分裂を止めることで、テロメア欠失による染色体の不安定化が起こることを阻止し、発癌などから細胞を守ると考えられているのよ。……『細胞老化』は細胞には分裂回数に制限があることがわかってそれを越えると細胞は増殖を停止することね。テロメアの長さが細胞分裂の回数を制限しているのね」 「原核生物やミトコンドリアなどの染色体は環状で末端がないから、テロメアも存在しないわ」 「ここまでは、わかって?」 「……日本語はわかるんだけどなー。一応資料を読んだから、どうにか」 この時コナンの姿の新一は哀から分厚い資料を前もって渡されていて、わからない言葉などは調べていた。そうでなければ、さっぱり理解できないからだ。専門外過ぎるのだ。科学者の話についていくのは至難の業だ。 その後も専門的用語が連なって、やっと根幹の話になる。 「癌化した細胞などは際限なく分裂することが可能であり、この形質を『細胞の不死化』と呼ぶわ。ここでいう不死はその細胞自体が死なないという意味ではなく細胞が分裂の永続性を獲得しているという意味ね。老化と不死化は相反する現象といえるかしら?」 人にとっては癌化した細胞は増えて欲しくないが、細胞の不死化が起こり、反対に発癌を押さえるために細胞老化で細胞分裂の増殖を止める。 本当なら生物にとって正常に細胞分裂が行われて欲しいというのに。 「少し話を端折るけど、ヒトの細胞に細胞老化に導くp53やRbタンパク質を抑制し、テロメラーゼを導入することで不死化させることが可能なの。だから、テロメラーゼを標的とした抗癌剤の開発が行われているのね。この応用として考えられるのが、テロメラーゼがヒトの老化を回避して寿命を延長させることに使えるかどうか。テトメラーゼ活性化に細胞老化防止の可能性と正常細胞の癌化の一因となる個体寿命の短縮化をもたらす可能性があることはわかっているし」 「つまり?」 「細胞分裂が永続性を持ち続ければ、人は寿命を延ばせると思わない?老化を止められると思わない?」 「不可能とは言わないがな」 「それを望む人間は多いということよ」 死にたくない。永遠の命が欲しい。昔から頂点に上りつめた人間が望む究極の願望だ。 「そんな訳で、研究していたんだけど。簡単にはいかなくて。組織が毒薬として使ったのは毒物反応が出ないから。当たり前よね、毒じゃないんだから。ただの心臓発作にしかならないもの。正しい細胞分裂ならいいけど、急激に身体の中で膨れ上がるほどの新陳代謝が起こったら、心臓だってもたないでしょう。私はそう分析したけれどね」 「だから、毒薬反応が全くないって訳か。でも、幼児化なんてするか?今の話を聞いていると」 コナンが首をひねって顔をしかめる。自分に起こったことだが信じがたいことだ。物理的というかなんというか、あり得ない感じだ。 哀は小さな肩をすくめて意味深に笑った。 「たぶんだけど、年齢が関係しているのではないかしら?私やあなた。十代で、それなりな年頃。小さな子供だとそれ以上遡ったら死ぬでしょう。元々身体ができあがっていなくて不安定なのに。だからこそ、年齢を逆行しても子供で止まる年齢であり、身体がまだ老化が始まっていない身体であることが条件ではないかしらね」 人間は老化する。 生物学的には加齢とともに生物の個体に起こる変化で、特に生物が死に至るまでの間に起こる機能低下やその過程を示す。原因は現在不明であるが、いくつか要因が考えられている。老廃物が細胞に蓄積され機能低下を起こす説。また、様々なエラーが蓄積する説。それから、遺伝子にプログラムされている説。 「癌細胞もないし、身体の細胞もまだ若い。それと、急激に襲う身体の変化に耐えうることがどうにか可能なこと。高齢で、あれは無理でしょう。私は二十歳越えても難しいように感じるけど、そう思わない?」 「確かに。死ぬかと思うくらいの激痛だ。体中が熱くて、骨が解けるように痛い。心臓なんて急な鼓動と痛みで意識が無くなる。小さくなる時も大きくなる時な。繰り返す度、身体の変化に慣れることなんてなくて、よけい辛いな」 コナンは正直に告げた。痛みに慣れることはない。何度か変化したけれど、大人の身体でいられた時間は短い。 「老人だと、無理だ。あれに耐えうるだけの心臓がない」 「そういうこと。まあ仮説だけどね。成功例が二つしかないから。……で、話をもっと進めるわ。APTX4869で幼児化したけれど、それでどれだけ遡ったのか正確にはわかっていないでしょう。たまたま小学一年に編入しただけで別に6歳とわかっていた訳じゃない。あなたも私も一年生にしては小さいしね。ではどれだけ成長できればいいか。元に戻るといってもね、簡単じゃないの。毒薬なら解毒剤を作ればいいわ。けど、もうわかってもらえたと思うけど、毒じゃないのよ、あれは。薬物が投与されている状態だから、それを中和する薬を作ればいいと考えるのが普通だけど。まあ、もしあれがなんらかの毒薬なら、現在生きていることがおかしいわ。このままで、正常に成長できるのかも、不明よ」 「この身体で一年以上過ぎているが、今のところ大丈夫だがな。怪我もしたけど、生還したし。つまり身体が正常に働いているということだろう?」 コナンは以前銃弾を受けたことがある。多量の出血と深い怪我を負ったが、現在も生きている。 「結果論よ。無事である保証なんてなかったんだから。とにかく組織にあるAPTXの情報を手に入れて研究するしかないわね。でも、一度に成長を遂げるには身体に負担が掛かりすぎるから少しずつ成長していくのがいいと思っているわ。一度でも急成長を経験した私でも、あれでは成功しないと思うから。万全の準備で望んでも、絶対なんてないんだから」 「……ああ。だが、研究の資料を手に入れてからの話だな。その後は灰原に任せる。俺の命、預けるから」 「……。わかったわ」 元の姿に戻るにも命賭けだが、戻っても身体の保証ができない。それでも命を預けると言ってくれるのだから、哀は出来るだけのことをするだけだ。 そしてやっと研究が実り、段階的に成長をする時哀は何度も説明した。 何年分かの成長だとて、身体にかかる負荷は大きい。その度寝込み動けなくなる。どこか身体におかしなところがないか検査し様子を見て、ある程度の安定を確認してから次に進む。幼児化した時にまで成長した時が一番大変だった。子供の身体より大人の身体の方が馴染むまで時間がかかる。 やはりいろんな部分が衰弱している。 心臓、内蔵、筋肉もすべてだ。自律神経はうまく働いていないし。免疫力は著しく低い。骨密度は低いし、血液成分もよくない。 それらをふまえて、正常に身体が動くまで時間がかかった。最初は点滴暮らし。おじやから、普通のご飯が食べられるようになって、だんだんと体重を増やす。 リハビリのつもりで、散歩からはじめ少しずつ動き周り筋力を増やした。 当たり前だが、幼児化していた時間の分の成長はなかったことになっている。 体調と相談しながら、出来る限り早く工藤新一の生活に戻れるように努力した。志保から現在の状態について説明を受けくれぐれも無理をしないようにと、そうでなければ命の保証はできないと告げられたため、可能な限り従うと約束した。 どんな弊害があっても元の工藤新一の姿に戻れたことに感謝した。 「そういえば、KIDが予告状をよこすんだ」 健康診断を終えて、お茶を飲みながら世間話に移ると新一がふと思い出したように手を打った。 「あら、また?」 それは、コナンの姿の時からである。志保ももちろん知っている。 「ああ。で、今は答え合わせに来る」 「……来る?」 志保が首を傾げると新一は頷く。 「そう。俺が自分で逃走経路まで答えあわせに行くのは体調的に難しいだろうって言って。志保からの注意事項を言ったらさ」 「へえ。退屈しのぎになっていいんじゃない。暇つぶしになるんでしょ?」 「なるな」 「それで、あなたがじっとしているならKIDにもっと暗号を持ってきて欲しいわね」 志保は勝手な事を願う。 事件となれば赴き、無理をしても解決する。謎が大好きで、推理小説を読んでいる時がなにより幸せな人間なのだ。暗号を与えておけば、家の中でじっとしているに違いない。 「欲しいといえば欲しいけど。あいつの作る暗号、出来がいいからな。下手なミステリより巧い。でも、たくさんあると止まらなくなるから。区切りを付けるのが難しそうだ」 新一は正直だ。 謎が大好きであるため、寝食を忘れる。そんな自分を知っているため志保に夜11時に寝るように言い渡されている。なるべく守るように努力はしている。 それなのに、KIDの暗号などあったら止まらないだろう。新一には簡単に予想できた。 「それじゃあ、だめじゃない。小出しにくれないかしら?三日に一つとか。せめて1週間に一つ。KIDの犯行はある時は続けてあるけど、間が開くこともあるものね」 志保はどこまでも新一主義だ。KIDの都合などどうでもいい。 KIDのおかげで新一が楽しめて、安全な家の中にいるのなら万々歳だ。 「いや、1週間に一つでも早いペースだよな。早いペースであればいいだろうけど、さすがにそれは無理だろう。犯行はビックジュエル次第だから、あいつにも調節は不可能だろう」 盗むビックジュエルやなんらかの事情があれば合間が短くとも犯行に及ぶだろうが、そうでない限りわざわざ危険を犯さないだろう。趣味ではないのだから。 「ビックジュエルねえ。なんでそんなもの盗むのか理由なんてどうでもいいけど。私、常々思っていたんだけど、世の中にそんな大きな宝石たくさんあるものなのね。世界的に有名なものなら私も知っているけど、博物館とかに来る度、どこにあったのかしら?と驚くわ」 一応女性であっても組織の中に幼い頃からいたせいで、志保の感性はいささか世俗とは遠かった。世の女性は宝石やブランドものが好きであるものだが。 「俺も全部は知らないけど、あるところにはあるらしい。日本には少ないが大富豪とか世界にはいるだろう?実は持ってるんだよなー」 「……アラブとか?石油の産地の大富豪かしら?これって偏見かしら?」 志保は大富豪と聞いてすぐにアラブを思い浮かべた。民族衣装にじゃらじゃらと重そうな宝石を付けている姿が目に浮かんだからだ。油田を持ってる大富豪なら名前が付いている宝石を持っていても不思議ではない。 「まあ、偏見じゃないと思うけど。昔俺は博物館の展示ででっかいエメラルド見たことがある。あそこら辺の所蔵だったヤツ」 苦笑しながら新一は志保の考えを肯定した。大富豪が多いことは事実だからだ。ビックジュエルをもっていてもなんらおかしくはない。 「私もダイヤモンド見たことがあるわ。それは世界のダイヤモンド販売会社のものだったけど。まばゆかったけど、あんなもの盗む人間の気が知らないわ」 一刀両断である。 KIDが聞いたら一応事情があるのですと割り込んだだろう。 「知れなくていいだろ?俺だって同じだ」 だが、新一も志保と同様に切り捨てた。犯罪の気持ちはわからない。新一だから仕方がない。 「そう。ならいいわ」 ころころと機嫌良さそうに志保が笑った。 |