それからしばらくしてある日のこと。 新一が私室でソファに座り午後の陽気にまどろんでいると、1羽の鳩が風を入れるために開けていたベランダの窓からやってきた。 純白の、赤い目の鳩。 鳩は部屋の天井を旋回して新一の側まで降りてきた。そのまま彼の膝の上にちょんと止まる。 「お前………」 新一が鳩に気付いて抱きしめようと手を伸ばすと、くちばしに封書をくわえていた。 (………これは、俺宛てだろうか?) 白い封書を不思議に思って受け取り、広げてみる。 内容は怪盗KIDの「予告状」。 「お前、KIDの鳩なんだよな………?」 新一は鳩の頭を指で優しく撫でる。 自分に懐いた鳩。 その意味する事は………。 鳩の見分けはつかない、だから憶測でしかない。 けれど、これは彼の鳩。 (その謎はこれ解いていけばいいか?) ひとまず新一はこれからの時間を難解な暗号を解読することに当てた。 数日後、目暮警部から電話が入った。 KIDの予告状のあまりの難解さに警察から暗号解読の依頼が来たのだ。 「新一君。いつもすまないね」 「そんなことありませんよ、目暮警部」 「実は今日の要請は1課じゃないんだよ。2課なんだ。以前にも依頼したことがある怪盗KIDの予告状なんだが、今もって暗号が解けないんだ。悪いが解読してもらえまいか?」 「………KIDの予告状ですか?」 まさか、こんなに上手く依頼されるとは思わなかった。 新一は驚く。ひょっとしたら、わざと難解な暗号にしたのだろうか? 「ああ。駄目かね?」 「いいえ、引き受けますよ」 「そうかい、ありがとう。それでは高木君に予告状を持たせるから、受け取ってくれたまえ」 「わかりました」 本当は手元にあって、もう暗号を解読しているとは言えない………。 新一はそう言えないことに、すまない気持ちになりながら承諾する。 「それでは、また」と言いながら新一は電話を切った。 それから時間を置いて、新一は解読ができました、と連絡を入れた。その際いつもなら、解読して終わりだが「現場に行ってもいいですか?」と聞いて目暮警部に了解を取ってもらった。 普段現場になかなか姿を現さない新一だから目暮警部も驚いていたようだか、「これでも17歳を迎えましたから、少しは行動したいんですよ」と言っておいた。「嬉しいけれど、無理をしないように」と幼い頃から新一の不安定な体調を知っている警部は気遣った。 そして、新一は優作に一言「行くから」と告げた。 はっきりとした意志で。 17歳の成人の儀を迎えた自分はその責務も権利も心得ていた。 一人前になったのだから、自分の意志で行動したい。ちゃんと役割は果たすから………。 それにどうしてもKIDに逢ってみたかったのだ。 想像より思いの外簡単に優作は「わかった」と頷いた。 ただし、体調が良ければという条件付きだ。もちろん護衛は当たり前。 それは工藤家の人間としてどうしても避けられないことである。 部屋では小さなテーブルの上に診察の道具が置かれ新一はシャツをはだけて椅子に座りその前には聴診器を付けた女性が座っていた。 「なあ、出かけても大丈夫だろう?志保」 新一は志保に伺う。 志保は肩で揃えた髪をさらりとかき上げて、ため息を付いた。 「一応、いいと思うけど………」 宮野志保、新一より一つ年上の彼女は医師の免許を持つ立派な医師だった。 アメリカに留学し、スキップして早々に医師免許を取得して日本に帰国するとそのまま新一の主治医に納まった。それまでは彼女の育ての親である阿笠が工藤家の主治医であったのだが、志保が後をついでからは趣味の発明に勤しんでいる。阿笠博士は医師免許だけでなく工学博士でもあったのだ。その穏やかな人柄からは想像もできないほど優秀だが、発明は少々常識を逸脱し迷惑な時もあった。 「でも、無理しないでね」 「わかってるって」 新一は頷きながらシャツのボタンを留める。 「あなたの大丈夫やわかってるは当てにならないのよ、工藤くん」 「………」 新一の性格がばれているため、志保には頭が上がらなかった。体調を崩す度に夜中でも診察に来て、治療してくれるのだから。 「でも、とても楽しそうだから、今回はいいとしましょうか」 志保はそういって優しげに微笑んだ。 「………志保」 新一にとって志保は姉のような存在であり、良き相談相手である。 「いつも、ありがとう」 新一は感謝の言葉を述べる。 「どうしたしまして」 それに志保もくすくすと笑い声を忍ばせて新一を見る。 (………本当に、世話が焼けるんだから) でも、絶対に憎めない。愛おしいと思う気持ちが強いのだ。 「これ、いつもの薬。何かあったら飲んでね」 「わかった」 新一は薬を受け取る。 「それと、明日また診察に来るから。わかってるでしょうね?」 現場に行くことは認めても、体調の信用はしていないらしい志保はしっかりと釘を刺す。 「うん」 「よろしい」 新一のいい子の返事に、今度こそ声を立てて志保は笑った。 志保のお許しも出て体調も良好と診断され、予定通りKIDの現場に行くことになった。 「それじゃあ、行って来ます」 新一はわざわざ玄関まで見送りに来た心配顔の優作にそう言い手を振ると車に乗り込む。 「それでは参りますよ。市立美術館ですね」 運転席から端正な顔に銀縁眼鏡の男が振り返り新一に確認を取る。 「ああ。頼む」 新一は笑顔で答えた。 彼は新一に絶えず付いている護衛で峰山聡司という。優作に若い頃付いていた有能な護衛であり忠誠心を持つ、現在は執事で工藤家を取り仕切る峰山護吾の甥に当たる。 優作曰く、護衛に当たる者は守るべき者が一つだけ、大切な者は主人一人であること。 妻帯者ではいざという時命は架けられない。 どんな場合にも、その主人を守ることを最優先できる人間であること。 そして、新一の美貌に崩れない鉄壁の理性を持つか、それ以上の愛情を持ち指一本触れない根性を持つものが必用条件であった。 中途半端な忠誠心は、護衛はいらない。 優作に仕えた峰山護吾は現在も独身を通し、工藤家にその人生を捧げている。 甥の峰山総司はある意味幼い頃からそのために育てられたと言っていい。まだ、新一が3歳ほどの頃に引き合わされ………総司は15歳であった………大学卒業同時に新一付けになったのだ。 そういう理由でずっと新一に付いて護っている聡司は新一が絶対的に信頼できる数少ない人物の一人だ。 聡司は「畏まりました」と言い緩やかに車を発進させた。 今回は市立美術館の特別展示品、『紫華』と呼ばれるアメシストである。 ラウンドカットの深い紫色が特徴的な、後ろから照明を当てるとまるで華のように乱反射して輝くことからその名が付いたと言われている。 アメシストは愛の守護石であり、持ち主の隠された魅力を引き出し恋人を招き寄せる力があると言われいるため、美術館の「愛の展覧会」という少々俗物的な催しの目玉として日本の財閥より借りた逸品である。 「初めまして、工藤新一です」 新一は現場に到着すると、KID専属を自認する2課の中森警部に丁寧に挨拶した。 「ああ、目暮から聞いている。暗号を解いてくれたことは感謝しておるが、邪魔はせんでくれよ」 中森は険を含んで告げる。自身で暗号が解けなかった悔しさと他者に協力してもらわねばならなかった現状が中森はどうしても許せなかった。 「はい。今回は是非見学させてもらおうと思いまして。お邪魔にならないようにしています」 新一は謙虚に微笑んでみせる。 その美貌に今更気付いたように中森は、「ああ、そうしてくれ」とどもりながら頷いた。 高校生風情に現場に入り込まれて腹立たしかったため、禄に顔も見なかったのだ。そうしたら、「名探偵」と有名な「工藤新一」は大変綺麗で……高校男子に対してこんなことを思うのは驚愕であると思うがそれ以外言いようがない……謙虚で、現場を荒らしそうもない。自然口調も表情も柔らかくなる。 おかげで、「KIDが現れると現場は騒然となるから、巻き込まれないように注意したまえ」と忠告までしていた。中森にしては珍しいことである。根が率直で熱血漢に溢れた人物であるため部下から慕われていたが、以前探偵を名乗る若者に現場を荒らされた事がありそれ以来中森は「探偵」という人間が大嫌いであったのだ。 それに新一は「はい」と素直に頷いた。 最初に言ったようにもちろん、警備体制は中森警部に任せて新一は口を挟まなかった。いきなり現れて警備に指示を与える事は中森警部に失礼だろうと思う。ただ、警備体制と市立美術館の配置を見て回り、気付いた部分を少々助言したに留まった。それも気分を害さないように、やんわりとである。 それ以外は邪魔にならないように極力動かないようにしていた。 志保から釘をさされていたし、護衛の聡司はさすがに警備の最中まで入ってこれなかったからだ。警官の中に護衛を連れてくる訳にはいかなかった。その結果聡司は車で待機している。自分に何かあれば、聡司の責任になるのだ………。 そんな迷惑はかけたくなかった。 部屋の中央にある大きなガラスケースに特別展示のビックジュエル「紫華」が納められている。その室内には中森と数人の警官がガラスケースの周りを囲んでいた。 「そろそろ予告時間だ」 警部が腕時計を見て時刻を確認し、緊張を漂わせながら警備を固めている警官に「しっかりやれよ」と声をかけた。 新一は部屋の隅で様子を伺う。 壁に軽く背を預けて、視線だけで周りを見回す。 この部屋には大きな窓などないし、窓はあっても換気のためのもので大きくは開かない。 人間が入り込める隙間はなかった。 だから、進入するとしたら、排気口。 それとも警官に変装してもう進入しているかのどちらかだった。 排気口から催眠剤を巻かれたら厄介だ。だから新一はその部分だけは進言して調べて蓋をしてもらってある。 (………どこから来る?) 新一が思考を巡らせた時だった。 「中森警部!!KIDが現れました………!!!」 一人の警官が扉をばん、と大きく開けて入ってきた。 確かに開けた扉の先の廊下から警官達の「KIDだ〜!!!」という声が響いていた。 「何?現れたか!!!今日こそ捕まえてやる。お前ら行け〜〜〜!」 中森は側にいた警官に言い渡す。そして指揮を取るために廊下に少し出て「逃がすなよ!」と怒声を響かせた。 しかし、報告に来た警官と新一の瞳が出逢った瞬間、警官はにやりと笑った。 (やはり、こいつは?) 新一は見た瞬間おかしいと思いずっと彼を観察していたのだ。 警官はあっと言う間にガラスケースに近寄り鍵などないかのように中から宝石を取り出した。そして、ぽん、という音と共に姿を純白の怪盗に変える。 「KID………」 新一は真っ直ぐに見つめる。 「KID〜!!!!」 中森は異変に気付き振り返るとKIDに飛びかかろうと突進した。それをKIDはひらりとかわし、 「確かに頂きました」 と優雅に礼をする。 「おのれ、KIDめ。お前らかかれ!!!」 中森の声と同時に警官達が部屋に飛び込み、KIDに向かって走って来た。 けれどそれに全く余裕をなくすことなく、KIDは不敵に微笑むと「失礼します」と言いう。すると突然煙幕が部屋中にまき散らされ視界が白く染まった。目の前、1メートル先も何も見えない。 新一は予想通りの展開にKIDの行方を探そうと目を凝らし気配を探る。 すると、ふわりと側に誰かが近付く気配がした。 (………え?) 耳元に「またね、名探偵」と小さく囁かれた。新一は鼓膜を震わせた声に思わず耳を押さえる。 当然ながら視界が晴れても、誰もいない。KIDは逃げた後だ。 中森は「追え!!!!」と怒声を響かせて部屋を出ていった。 残された新一は後を追わなかった。 誰もいなくなったことを確認して、胸ポケットに忍ばされた赤い薔薇を摘む。 その薔薇からは芳醇な香りが漂い、大きく胸に吸い込むと優しい気持ちになる。 この薔薇の意味は何? 自分がここに来たことに歓迎でも表したのだろうか? 気障な奴だな………。 また、と彼は言った。 また、逢おうと………。 それは自分も願うことであった。 |