「歪んだ螺旋 9」




 


「哀ちゃん!」

 KIDが飛び込んだのは阿笠邸の二階にある哀の自室の窓だった。途中、携帯電話でこれから行くことを伝えてあった。すぐに処置できるようにしておかねば、命に関わるのだ。万全を期しておかねば、後悔する。
 抱えられた新一を診察用のベッドに寝かせて、哀は処置に当たった。手首から流れる血液。まず、それを止めなくてはならない。
 消毒して、縫う。
 血液が足りないから、輸血しなくてはならない。抗生物質も必要だ。
 病院になど行けない新一は、どんなに酷い状態になっても哀が看るしかないのだ。哀は新一にとって最高の主治医だ。新一の身体のことを一番知っているのも哀だ。
 副作用があることも知っている。免疫力が低いことも、不整脈があることも、すべて知っていて、できることをする。
 新一の場合、なんでも治療していい訳ではない。治療の方法を選ばなければならないのだ。
 
 脈拍を計りながら、輸血して手首を縫う。
 どれも同時進行だ。
 一晩中様子を見ながら、哀は治療に当たった。必要なものはすべて点滴で入れるしかない。元々少し風邪気味で微熱があったはずだ。免疫力が下がっている状態だったはずだ。
 傷口から化膿したり細菌が入ったら、どうなるか恐ろしい。
 しばらく無菌室にでも放り込んでおきたいわ、と思いつつ哀は手を動かし、異変がないか神経をすり減らしながら一晩明かした。
 


「いったい、どうしてこんなことになったの?」

 眠る新一の横で哀はKIDにきつい目を向けた。まるで親の敵でも見るようだ。
「ごめん。俺が至らなかった。哀ちゃんにもちゃんと話しておかなければいけなかったけど、調べが付いたのがここ数日だったから。言いそびれた」
「……あなたのせいじゃないんでしょ?どうせ、この探偵馬鹿さんが自分でやったんでしょ?手首の傷」
「ああ……」
「もし、誰かにそんなことをされるなら、あなたは自分の身体張って止めるでしょうし。そのくらいはわかるわ」
 KIDが命をかけて新一を守ろうとすることは哀だって認めている。
 だが、なぜ。こんな事態になったのか。哀は知らなかった。きっと、とんでもないことが起きたことはわかるが、想像もできない。
「長くなるけど、いい?眠くないかな?」
「いいわ。どうせ寝られる訳がないのよ。ああ、あなた血で真っ赤じゃない。着替えくらいしてくれないかしら?病人には毒よ」
 あくまで、新一主体の言葉にキッドは頷く。
 KIDは新一を抱えてきたせいで純白の衣装は血で赤く染まっていたし、ずっと側を離れることもできずにいたのだ。
「じゃあ、着替えてきたら落ち着いて話すよ」
「ええ。お茶でもいれておくわ」
「わかった」
 KIDは着替えるために、工藤邸へと移った。工藤邸には快斗の服がいくつもある。普段から泊まっていくとが多々あるせいだ。血の匂いが残っていると哀から怒られるだろうから、急いでシャワーを浴びて服を着替えた。そうして、KIDから快斗へと変えて、隣家へと向かった。
 
 快斗からことのあらましを聞いて、哀は言葉をなくす。
 博士が事故にあったり、自分が襲われかけたことが新一の心労になっていたなんて、知らなかった。身の回りの人間が傷つく。それが一番新一は堪える。攻撃としては正しいが、おかげで、新一は究極の選択をした。
「馬鹿な人」
 そんな風に守ってもらわなくていい。哀は思う。
「私たちは、そんなに弱くないわ。まあ、簡単に襲われたけど。でも無傷だったわ」
「そうだね。もっと信用して欲しいと思う。ただ、新一の弁解をすることはすっごくイヤだけど。相手が悪かった。だって、狙われたら生きていられない殺し屋に、脅されたら誰だって選択を迫られるよね」
 自分がどうにかしなくては、親しい人間が殺される。そんな強迫観念。
 誰かが殺されるなら、自分がと思ってしまうのが新一だ。困ったことに。
 哀は大きなため息を付く。
「私、許さないわ。こんなこと、二度と」
「俺も」
「自分が傷付くより、心臓が痛いのよ。そのこと、全然わかっていないんですもの。私の方が死にそうよ」
「わからないんだよね。そういうこと。少しくらい自重してくれないと、本気で俺の心臓も止まりそう」
 哀と快斗は顔を見合わせて笑った。
 心の一番大事な部分に新一がいる二人だ。こういうところは似ている。気持ちもわかりすぎるくらい理解できる。
 自分達の痛んだ心臓を、どうにかできるのは新一だけだ。
 早く目覚めて、生きていると示してくれればいいのにと思わずにはいられない。
 
 
 
 

 新一が目覚めたのは、それから何時間も経った後だ。
 抗生物質に催眠効果も入っていたし、眠ることも大事だったからだ。
 ぱちぱちと瞬いて自分がいる場所を確認して、ベッドの横に哀の顔と快斗の顔を認めた。
「はい、ば、ら。かい、と」
 掠れた声で名前を呼ばれて、哀が爆発した。安堵と怒りが頂点に達したのだ。堪忍袋の緒が切れたともいう。
「ふざけないで!」
 哀は大声で叫んだ。病人に対する声ではない。が、快斗は止めなかった。
「どれだけ心配させれば気が済むの?なにを言ってもあなた、自分の体を全然大事にしないじゃない。自分で手首を切った?そんな自虐趣味があったなんて知らなかったわ」
 この際、そこに至った理由は問題ではない。自分で切ったことが問題なのだ。
「ご、めん」
 申し訳なさそうに、謝る新一に哀は吐き捨てる。
「謝って欲しい訳じゃないわ。私は怒っているのよ?なんで怒っているかわかる?あなた肝心なことは、さっぱりわかっていないでしょ?命を粗末にしないで。粗末になんてしていないって言うんでしょうけど、私からすれば粗末にしまくりよ。人に比べて自分の命を軽く見過ぎよ。誰かを犠牲になんてできないって言うんでしょうけど、私は誰を犠牲にしてもいいから生き延びて欲しいくらいよ」
 力一杯叫んで、肩で息をする哀に新一は目をぱちくりと瞬かせて驚いている。瞳が雄弁に物語っている。
 そこから、やっぱりあまり理解していないことが偲ばれた。
 哀の言葉だけはわかっても、心配させたと実感があったとしても、それを今後活用できるかは別だ。
 新一が誰かを犠牲にして自分を許す人間ではないことは百も承知だ。
 でも、少しでいいから、自分を大切にして欲しいと思う。それくらい願っても罰は当たらない。
 人のことばかりで、自分ことは後回し。
 そんな新一に、声を大にして言いたい。人を押しのけても、生き延びろ。と
「新一。哀ちゃんのいいたいことは俺もいいたいことだよ。俺だって怒っている。自分を傷つけた新一を。そして、守れなかった自分を。新一に何かあったら、俺は正気でいる自信がないよ。新一に危害を加えた人間を許せないよ。もしかしたら、殺してしまうかもしれない」
「そ、んな……。っかいと、はしない、よ」
 KIDは人を殺さない。それが信条のはずだ。新一は否定する。
「買いかぶってるよ、新一は。俺は、本気で殺すよ。だから、俺に人殺しをさせたくなかったら、これ以上簡単に自分を傷つけることは自粛してね」
「……」
 それは、脅しだ。強烈な脅しだ。
 新一は無言で快斗を見上げる。隣で哀も快斗を目を見開いて見上げた。哀の心中は、そんな方法もあったのか?という類の称賛であるが。
 
「ま、そういうことね。ところで工藤君。覚えている?」
 話を変えて哀がにこりと笑った。目が全く笑っていないが清々しい笑みだ。
「なに、が?」
「私、言ったわよね。今度忠告を無視したら、監禁するって」
「……」
 新一の背中に冷や汗が流れた。
 哀ならやる。絶対にやる。わかっていたけれど。でも。
 いいわけは通用しないって知っているが。けど!少しくらい譲歩が欲しい。決して言えないが。
「へえ、そうんなんだ」
 快斗が隣で納得している。助けろ、と思ってもこの件で味方になってくれそうもない。
 自分は今回で信用を地まで落とした。復活の兆しは、著しく低い。
「うふふ。言っておくけど。しばらくベッドから起きあがれると思わないでね。実際本気で無菌室に入れたいくらいなのよ。他の疾病が併発したら、どうなるかわかったものではないの。ただでさえ、免疫力が低いんだから」
「……はい」
 新一に是の返事しか許されていなかった。
 
 
 


 その後のことは新一にとって最悪だった。
 しばらく学校へも行けない。学校以前の問題として、ベッドの住人だった。毎日点滴の生活。無菌室とは言わないが、極力他との接触は避けた。
 会える人間は、哀に博士に、快斗の三人のみ。
 読書も制限されて、しばらく寝る生活。
 もっとも、微熱が続き辛かったりして体調はよくなかったのだが。おかげで、阿笠邸から出ることができなかった。自宅で療養が許されたのは、三週間後だった。
 自宅でも、快斗はしばらく寝泊まりして新一についていたし、哀も毎日診察に来る。まるで監視されているようだと、決して口にはしないが新一が思ったことは内緒だ。
 簡単に消えるものではないが手首の傷も薄くなった。見る度痛々しいものが薄くなるのは嬉しい。
 人に見せる訳にはいかない傷跡だ。
 外出する時は絶対に長袖を着ないとならないだろう。
 
 おかげで、まだ学校へ行けていない。怪我が怪我だったせいで、休学届けが出されている。それは阿笠が両親と相談して決めたことで、新一の了解を取る前に決められたことだ。新一は頷く以外方法はなかった。
 
 やっと、外出できるくらい回復したのは(許されたのは)、二ヶ月後だった。
 
 




 
 

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