「紅薔薇と楽園」3




 「娘の名前はアンジェリーナというの。だから、皆リーナと呼んでいたのよ………。たった一人の娘だった。金茶色の巻き毛に綺麗で澄んだ蒼い瞳。ああ、貴方のその蒼い瞳とよく似ているのよ、だから一瞬本当にリーナが戻ってきたかと思ったわ………」

 ソフィアはどこか悲しげに微笑んだ。
 コナンの小さな頬に手を伸ばして、瞳をのぞき込む。

 「愛する夫と楽しく何の不安もなく幸せに暮らしていたの。けれど、夫が事故にあって突然死んでしまったの。悲しくて、心が張り裂けるかと思ったわ。それでも私にはリーナがいたから………、心の支えだったの。
 あの子がいてくれれば、何もいらなかった。悲しみもさえも乗り越えられたの。
 そんな時、さっき逢った男『笹島雄一』に出逢ったのよ………。
 彼は財政難に陥っていた父親の会社への援助を条件に結婚を持ちかけてきたの。私には否と言えなかったわ、だってもう父の悲しむ顔も見たくなかったから………」

 そこでソフィアは黙って聞き入るコナンから目を反らした。
 部屋の大きなガラス窓から望める青空に目を向けた。

 「それが、間違いだったの………」

 細くて、聞き取れないほどのか弱い声。

 「そのために、リーナは死んでしまった………!!!」

 感情が溢れ出す。
 止められない激情。
 美しい顔は泣きそうな顔にゆがめられて、瞳からは今にも涙がこぼれそうだ。

 「ソフィア?」

 コナンは大丈夫か?と痛ましげに見る。

 「ごめんなさいね」

 彼女は薄く笑いながら謝る。

 「うちの家は昔は貴族の名門の家系だったらしいの。今では財力もなく、そんな昔の姿は欠片もないのよ?でも、貴族の名門としての名前と我が家に伝わる宝石だけがあった………。笹島はそれが欲しかったの。名門の名前と宝石を手に入れたかった。つまりお金で買ったのね?」
 「………」

 ソフィアは思いもしないだろうが、きっと笹島は美しいソフィアも手に入れたかったのだろう。想像に難くない。彼女は娘がいたとは思えないほど現実感のない美人だ。儚いほどの美貌は、人を惹き付けずにはいられない。

 「結婚してしばらく経った時、リーナがベランダから落ちて死んでしまったの。事故だって、そう言われたのよ?たまたま私が出ている時に………。いつもなら一緒にいるのに、本当にその時だけ一人で出かけたの。もう、どうしていいかわからなかった。
 あの時、私は狂っていたと思うの。だって、この世のどこにもリーナはいないのよ?私を繋ぎ止めていたものがなくなってしまったの………。私は、ぼんやりとした意識の中で暮らしていたの。
 そんな時、………偶然聞いてしまったの」
 「………何を?」

 もう、その先が想像できてしまってコナン悩ましげに目を細めた。

 「笹島がリーナを殺したのよ。私には聞こえていないと思ったのね?迂闊だわ………」
 「理由をソフィアは知っているの?」

 彼女の言葉は淀みがない。迷いがない。
 それは真実を知っている者が持つ瞳だった。

 「全ては宝石のせいなの。我が家には『紅薔薇の花びら』と呼ばれる宝石があるの。それは一族の直系の女性に受け継がれていく物。私が所有しているから、行く行くは娘のリーナのものになるはずだった。
 私はちょうどリーナが死ぬ間際に誕生日プレゼントとして譲ろうと思っていたのよ、それを。
 結局、笹島はリーナが邪魔だったのね?私が持っている限り宝石は自分の自由にできる。私を殺せば自分のものにできるはずと思っていたのだろうけど、直系の女性以外が所有することはできないの。
 持ち主が途絶えてしまったら、国に寄付することに決まっているのよ………。だから笹島は私を殺せない、と言う訳」

 「でも、あの男はソフィアの正気を戻すために、俺を連れてきたんだろう?つまり、正気に戻す必要があったのか?」
 「ええ、さすが探偵さんね?もし、私が譲渡手続きを生きている間にすれば、『紅薔薇の花びら』が手に入ると思っているのよ………」
 「それは、可能か?」
 「どうかしら?法的効力はあるかもね?」

 ソフィアは宛然と微笑んだ。
 それから、ずっと気の触れた振りをしてきたの、とソフィアは言う。
 今回は、『紅薔薇の花びら』の日本公開のために来日したのだそうだ。ビックジュエルと呼ばれる、赤い宝石。



 「今日はそのレセプションがあるのよ。一緒に出席してね?その時に絶対に逃がしてあげるから………」

 真剣なソフィアにコナンは頷いた。
 確かに、人の出入りがある場所でないと、逃げ出せないだろう。
 隙を見るしかない。

 「貴方の瞳は本当にリーナによく似ているわね?蒼くて澄んでいて、綺麗だった………。だからこんな気分になるのかしら?まるでリーナといるみたい」

 儚く微笑むソフィアに、自分の存在で少しは笑える事を感謝した。
 自分の母親は彼女のような儚さはない。美人という点は同じだが、生気溢れる快活な人間だ。それはある種特別な芸能界で生きてきた逞しさと、女優という誇り高き職業のせいかもしれなかった。彼女は強い、子供心にそう思った。

 母親とは誰もがそうであるのか、自分の子供をただ無償に愛する。それは尊敬に値する程の深さだ。見返りを求めないただ注ぐ愛は、確かに自分に届いていた。それに包まれていた幼い頃、自分は幸せであったと知っている。

 けれど、彼女はその対象である娘を失った。
 無償の愛を注ぐべき最愛の娘をなくして、心が悲鳴を上げただろう。

 「あの時私は気が狂っていたと思うの」と彼女は言った。それは比喩ではなく事実であっただろう。それから彼女はずっと探していたのだ。ぼんやりとした意識の中で、たった一人の娘を………。

 それは、どれほどの苦しみであったのだろうか?
 自分にはきっと想像などできやしない。
 彼女が少しでもその苦しみから逃れられればいいのに、と望まずにはいられない。


 が、はた、とコナンは思い当たった。
 確か、このビックジュエル、KIDが予告状を出してなかったか?
 あいつのことだから内情を知るために、レセプションくらい変装して入り込んでいるかもしれない………。

 絶対、嫌だ。
 けれど、自分は彼女の娘として出席することになるのだ………。
 問題はドレスだ!
 レセプションに宝石の持ち主であるソフィアの愛娘がドレスを着ないはずがない。
 変な所でパーティの常識を知っている自分をコナンは恨んだ。
 結局涙を飲んで、ソフィアのいう通り着替えることになるのだ………。





 純白のシルクのドレス。大きくあいた首には清楚なレースの襟だけで、スカートは二枚重ねになっている。上はふんだんにレースを使い、花柄が刺繍され透けるようになっているシースルー。下は同じ素材の純白のシルクである。
 ドレスの裾は軽やかにカットされていて、後ろになるほど長くなっている。

 上品だが、決してごてごてしたデザインではなくて、コナンは少々安心した。
 髪に細くて白いリボンが結ばれた事が難点であったが………。
 それでも、花を付けられるより増しであろう。自分をそう納得させるコナンである。

 そして、胸元には彼女が貴方に、とくれたペンダント。
 ソフィアは自分が首に付けていた物を外してコナンに付けたのだ。お詫びもかねて、貴方にもっていて欲しいの、と添えて。

 プラチナの細いチェーンに赤い花のようなペンダントトップ。
 同じプラチナで小さな赤い花の蕾を花びらが覆っているような造形になっている。

 何の宝石かわからないが、赤い宝石の花の蕾。
 ルビー?ガーネット?何だろう?高価なのだろうか?
 見ただけでは、コナンにもさすがにわからなかった。自分は宝石のプロではない。
 純白のドレスに胸元だけの赤はコナンをとても清楚で可憐に見せている。

 それを眩しげにソフィアは見つめると、

 「貴方にぴったりね。可憐な花のようだわ………」

 と嬉しげに言う。

 「これって、高価なんじゃないのか?」

 コナンがペンダントを手の平で包みながら、心配になって聞くと、

 「宝石は値段ではないわ。でも、高価でなんかないから心配しないで。………これは私にとって、とても大切な宝石なの。だから受け取って欲しいわ。貴方によく似合って、可愛いでしょう?」

 と安心させるように微笑んだ。





 今回のKIDの予告に指名されたのは、『紅薔薇の花びら』と呼ばれるビックジュエル。
 オーバルカットのとても大きなルビーである。輝きと色つやが素晴らしく、その条件では類を見ないほどの大きさである。

 吸い込まれそうな、透明感。
 深紅は情熱の炎のよう………。

 レセプション出席者達は宝石の周りを囲んでいる。
 ガラスケースに納められたルビーはきらきらと輝いていた。

 「綺麗ですね………」
 「お美しい」

 感嘆の言葉を漏らす淑女や紳士達。
 そんな人混みの中、蒼いドレスに装ったソフィアはコナンを伴って、出席していた。
 美貌な母親と可憐な少女の二人は会場でも大変目立っていた。
 最初はソフィアの近くにいた笹島も来客の相手をするために、会場の中心に離れていった。それに、二人とも内心ほっとする。いつまでも側にいられたら、逃げようがない。

 ソフィアは会場の隅でコナンを隣に連れ佇んでいた。
 それでも、宝石の持ち主であるソフィアに挨拶に来る人間は絶えない。
 その背後には相変わらず、ボディーガードが付かず離れずの位置で立っているため、少々話かけ辛い状況を作り出していたのだが………、コナンとしてはその状況は歓迎すべきものだった。こんな姿で極力誰にも逢いたくないのが人情だ………。
 例え、男だとばれないであろうとも。
 それを安心している状況が些かもの悲しいが。
 
 「こんばんは、ソフィアさん」

 また、一人の男が声を掛けてきた。柔らかな色目のスーツを着こなした若そうな男だ。

 「こんばんは………?」

 ソフィアはさっきから繰り返し同じ言葉で挨拶している。殊更愛想良くする気もないらしい。

 「可愛いお嬢さんですね?」

 その男は、コナンが聞きたくない台詞を言った。
 いい加減その言葉も聞き飽きた。聞きたくないので、コナンは最初から俯いていた。顔も見たくないのだ。
 しかし、男は片膝を付いてコナンに目線をあわせるといきなり抱き上げた。

 「ちょっと………!」

 コナンは驚いて、下ろせとばかりに抵抗すると耳元でそっと「名探偵」と囁かれた。
 ぎくり身体がふるえた。
 急いで相手の瞳を見つめると、そこにあるのは見知った男の眼差しだった。
 コナンは驚愕という表情で男をまじまじと見た。

 「こんな所でお逢いするなんて思いませんでしたよ」
 「ふん」

 不機嫌そうにコナンは鼻をならす。

 「それにしても、随分可愛くなられて………」
 「煩い」
 「白薔薇の姫君ですね?」

 純白のドレスをさしてKIDはそう言うのだ。
 柔らかに微笑むKIDの顔にコナンはむかつく………。
 この場でなかったら、リーナの姿でなかったら殴ってやるのに!というのが正直な気持ちである。

 絶対、絶対、逢いたくなんてなかった。
 知り合いになんて、こんな姿見られたくなかった。
 なのに、よりにもよって、どうしてこの男に?
 コナンは少々運命を恨みたくなった………。


 そんな実は仲の良さそうな二人を見ていたソフィアは、

 「申し訳ありませんが、すこしリーナを見ていてもらえますか?貴方に懐いているようだし………」

 と言いKIDに向かって微笑んだ。先ほどまでの表面だけの感情のこもらない微笑みとは違っていた。

 「リーナ。わかったわね?」
 「はい」

 コナンは答える。
 誰が懐く?と思ったが口には出さなかった。澄ました顔で笑顔を向ける。
 それに、ソフィアはにっこりと儚い笑顔を見せた。

 「貴方に逢えて良かったわ………、神に感謝します」

 KIDの腕の中にいるコナンを優しく抱きしめて、ソフィアは去って行った。

 どうしたのだろうか?
 コナンは嫌な予感というか、何かがおかしいと自分の中で警報が鳴るのを聞いた。
 KIDに離せ、と言い腕から降りようとする。しかし、KIDはコナンを抱きしめて動こうとしない。
 お願いします、と彼女が言うのだから自分は離れてはいけないのだろうとKIDは思う。

 「KID、離せ………!」

 コナンは足掻いた。

 「駄目ですよ。彼女は私に貴方を頼んでいったのですから、私には責任があります。そうでしょう?リーナ」

 リーナと呼んで、KIDは今のコナンの立場を知らしめる。
 コナンは小さな唇を噛んだ。
 全く、自分は今どうすることもできない。この腕から逃げ出すこともできない。
 この場から、身動きがとれないのだ………。

 悔しい………。
 そう、心の底から思った。




 室内にはゆるやかな音楽が流れていた。
 音楽が包む会場は、人々が会話する声を遠くに聞かせるようで、何を話しているかわからない。
 それでもKIDは潜めた声でコナンに聞いた。

 「ねえ、名探偵。どうしてこんな場所で、こんな格好なんですか?リーナとはソフィアさんの一人娘の名前でしょう?」
 「………、拉致されたんだよ」

 言いたくなさそうに、コナンは口を開く。

 「はい?拉致ですか?」

 拉致という言葉にKIDは驚いた。
 よく事件に巻き込まれるから、またか?という意識は十分にあったのだが、まさか拉致とは思いもしなかった。でも、どうしてこんな可憐なドレスなんて着てるんだろう?そもそも拉致の目的は何なんだ?拉致されて、パーティに出席するなど、おかしいではないか。

 「名探偵、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか?」
 「嫌だと言ったら納得するか?」
 「………しませんね。とことん、調べさせて頂きます。なにせ、名探偵は謎に満ちていますから」

 にっこりと微笑みながら言外に含ませた意味。
 確かに、謎を解くと怪盗は言ったし、自分は解けたら正解を教えてやると言った。けれど、そんなに簡単に謎が解けるわけないだろ?とコナンは思う。



 二人が和んでいる時、空気を切り裂く音がした。
 それは女性の悲鳴であった。

 瞬時に振り向いた先には、夫である笹島をナイフで刺したソフィアがいた。心臓に突き刺したナイフは、血に染まり鈍く輝いている。

 彼女の白い指から、血が滴る。

 蒼いドレスに赤い染みを作る姿は狂気が見えた。けれど、彼女の瞳は澄んでいて、平穏だ。それは感情ではなく、理性で、意志で行ったのだとわかる。


 どうして?
 コナンは信じられなかった。


 彼女は人々が衝撃のあまり動けない間に、ガラスケースに納められたルビー『紅薔薇の花びら』を摘み、一瞬コナンの方を見て優しく微笑むと、部屋を横切り窓に近付くと、思い切りよく開き、身を投げた。

 この会場はホテルの13階である。
 それはスローモーションのように瞳に焼き付いた。

 絶望的に、闇に消えた彼女。

 やがて、悲鳴が会場を覆いつくし、騒然となり人々はパニック状態に陥った。
 誰かが抱き起こしている、刺された笹島は出血の具合から助からないことが見て取れた。
 コナンはKIDの腕から逃れ、ソフィアが消えた窓まで駆け寄ろうとするが、再びKIDに抱き上げられ部屋から連れ出された。

 「離せ!!!!」

 激昂するコナンを強く抱きしめたKIDは真剣な瞳で見つめる。

 「できません。彼女は、そのために私に後のことを任せたのですから。そうでしょう?あの時点で彼女は決めていたようだ………。そうでなくて、初対面の私に貴方を預けるわけないではないですか!」
 「………でも!」
 「名探偵の気持ちはわかります。けれど、これは引けません。このままここに留まれば貴方、事情聴取を受けますよ。拉致されたといいますか?」

 彼女に人々からの余計な詮索を増やしますか?そうKIDは言っている。
 それに、拉致されたコナンは事情聴取など受けられない。存在が不明なのだから。調べれることは、秘密を暴かれる危険を意味する。

 「………」

 コナンは悲壮に瞳を揺らし、唇を噛みしめKIDの上着を握りしめた。
 感情がこれ以上、吹き出さないように。


 なぜ?
 どうして?
 コナンの心の中は激情の嵐が吹き荒れていた。





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