「おはよう。志保」 新一が寝台の上にゆっくりと起きあがる。 「おはよう。調子はどう?」 「うん、まあまあか。ちょっとだるいけど」 「そう。……なら、先にこっちを飲んで」 志保は白磁の茶碗を新一に渡した。茶碗には薬湯が入っている。 「……うん」 新一はそれを受け取ってゆっくりと一口飲んだ。そして顔を微妙に歪めて、それでも文句も言わずに飲み干した。 「はい、よくできました。じゃあ、こっちね」 姉のように誉めて、もう一つの細長い茶碗を新一に手渡した。 「ありがとう」 それをごくりと飲んで新一はほっと笑った。これは、果物を絞ったものをお湯で割って、かつ蜂蜜が入ったかなり美味しい飲み物なのだ。苦いものの次は甘いもの、という医師として心得ている志保である。長い付き合いだから、好みもわかっているせいで無駄がない。 志保は新一を椅子に座らせて、長い黒髪を櫛で梳き始めた。髪を梳いておかないと湯浴みをしても絡まってしまう。湯浴みの後も櫛を通すが、手間を惜しむとせっかく美しい髪が痛むため、志保は絶対にこの作業を怠らない。 「そうそう。今日、陛下がいらしたわ」 まるで世間話のように志保は簡潔に告げた。 「そうか」 返す新一も簡素だった。 「ずいぶん、遅かったな」 「ええ。もっと早くやってくるとばかり思っていたわ」 あの場にいたのが国王だと新一と志保は理解していた。元々、時々やってくる隊長の上司が、相当上の身分だろうと予想が付いていた。隊長の対応からも明らかで、隊長が実はかなり上の地位にあることがなんとなく察しられていたから、そこから推理すれば宰相と国王となる。 新一の言いように腹を立てていた国王だから、すぐに呼び出されると予想していた。が、十日も過ぎるとは計算違いだ。 「それで、何かあったか?」 「あなたが目覚めたら、報告するようにと。明後日には目が覚めると思うと、一応言っておいたわ」 「そうだな、それが賢明か。隠せば隠すほど、人間は知りたいと秘密を暴きたいと思う生き物だからな」 「ええ、そうね」 ずいぶん達観している二人である。運命を受け入れている新一とそれと共に生きる事を決めている志保だから、仕方のない事かもしれない。 「その時には、志保に任せる。俺は動けないしな。眠っているし」 「任せて。それにどこからどう見てもあなたは病弱な人よ」 それは、この後宮で暮らしていて疑われたことがない事からも明らかだ。実際、昼間眠って起きるこなとく、顔色が悪い。それがすべての真実ではないが。 「さてと。じゃあ、湯浴みにする?それとも、もう本でも読んでいる?」 新一の体調によってその日の予定が変わるため、志保は聞いた。 「そうだな。湯浴みを先にする。それで、本を読みたいな」 「湯浴みね。用意しているから入ってきてちょうだい」 「わかった」 新一は椅子から立ち上がり、湯殿へと向かう。志保は衣類などが置いてある部屋へ行き着替えを準備し始めた。 「……」 うっすらと開く瞳は蒼く美しい。が、あの時あった覇気が感じられない。 だるそうに、力無く横になり目だけで自分を見上げられて、快斗は困った。 月姫が目覚めたと報告が来て快斗は後宮へと足を向け、後宮の中でも離れた場所にある宮へ急いだ。そして、侍女に案内され寝台に赴くと、横たわる月姫と目があった。やっと会えたのだが、会えただけとも言える。 いかにも体調が悪そうな人間と長々と会話できると快斗だって思っていない。むしろ、母親が身体を悪くして寝ていた思い出があるせいで、寝ている人間に無茶などできなかった。 「……大丈夫なのか?」 「……はい」 快斗が気遣うと、弱々しい声が返ってくる。これでは、調子が狂い過ぎる。 寝台に広がる長い黒髪も不健康なほどの白い肌も、その容姿も声も確かにあの夜の少女のものだと快斗には思えた。快斗の勘が彼女だと言っている。しかし、持っているものは同じでも、これほどまでに印象が違うのかと不思議なくらいだ。 反対に、あの夜の少女が幻にように思えてくる。 一度しか会っていない少女は強烈な破壊力をもって快斗に打撃を植え付けた。国王として生きてきた自尊心を粉々に踏みつけられた。 腹立たしくて、許さないと思ったのに。こんな姿を見せられると、快斗だってどうしていいか困る。文句を言ってやるつもりだったのに。それもできない。 せめて、健康に起き上がってふつうに話しができればいいのに。 「いつもこんな調子なのか?」 「……ええ、でも。よくなります」 よくなる人間だとは思えない。そのくらい顔色が悪い。 「食べられないのか?」 食事が人間の基本である。快斗も王として食事を大事にしている。 「今は。けれど、食べられるように、なりますよ」 「本当か?」 信じられないと快斗は疑いの目を向ける。月姫の身体のどこに健康的に食べている証拠があるというのか。痩せ細って、折れそうな身体は見ていて不安になる。貴妃が言った通りだ。自分が持ったら簡単に折れてしまいそうな細い腕だ。 「陛下。それについて、私から。体調が悪い時は薬湯やせめてもの果汁。よくなってこれば、果物や飲み物など取れるようになり、さらに良くなれば、スープやパンも食べられるようになります。スープは栄養が取れるようにいろいろな具を入れて料理長が作ってくれるようになっています」 志保が口を挟んだ。こういう詳細は、医師でもある侍女の自分の仕事だ。 「そうなのか?病人食も作れるのか?」 「もちろんです。ここの厨房は素晴らしい食材を使い確かな腕の料理人が食事を作ってくれますから。私も料理長と相談して、食べやすく栄養価の高いスープや料理を月姫さまに食べてもらっています」 「ほう……」 後宮に勤める人間はしっかり仕事をしているらしい。今まで近寄らなかったが快斗は不自由ないように指示していたから、評判がいいのは気持ちがいい。 「それくらい良くなるのか?」 「はい。いい時も悪い時もあります。ずっとふせっている時もあれば、貴妃さまのお茶会に参加できる時もありますわ」 「そうか。それならいい」 快斗はほっと安堵を漏らす。誰かが病気で寝込んでいるのは、気分がいいものではない。母親を思い出すから。 「ああ、長居したな。今は長々と話すのはよくないだろう。だから、また明日来る」 快斗は立ち上がって暇を告げた。 「……はい」 「じゃあな」 月姫に片手を振って、快斗は背を向けた。 「だいぶ、良さそうだ」 「はい。昨日よりずっといいですわ」 月姫は寝台の上に起きあがっていた。そして、笑みを見せている。 快斗が知る限り、ここ最近とは明らかに違う。 今日は、月姫の部屋を訪れようとして時間を指定された。 後宮で女性の部屋を訪れる場合、女官に先触れを出してもらうのが常だ。いくら国王が後宮の主でもそこには決まりがある。予定していた時間では月姫が目覚めないだろうという返事だった。具合が悪くなったのかと思ったが、そうではないらしくお待ちしていますとのことだった。快斗がそれでも不安に思いながら部屋を訪ねると、驚くべきことに月姫のいらっしゃいませという声で出迎えられたことだ。 「この間までのことが、嘘のようだ。これほど良くなるなんて!」 「はい。ですから、良くなりと申し上げました」 「あんな状態で信じられるか?ああ。でもほんとうに良かった」 快斗も笑顔になった。 それを見て月姫は、少し驚いた顔をして口元に手をやって小さく笑った。 「……どうした?」 「陛下の笑顔を初めて見ましたので。驚いたのですわ」 「……」 ころころと笑う月姫に快斗の方が驚く。自分は彼女の前で笑うこともなかったのだ。 病状の母親に自分は果たして笑顔でいられたのだろうか。つい、顔がゆがんでしまうのはもう癖だ。病人を見ても、後宮というものを考えても、仕事をしていても。 幼なじみのような白馬は気安い。宰相の彼には何でも遠慮なく言えるが、楽しく笑いあうなど、最近しただろうか。 「どうぞ」 侍女が湯気の立った茶碗を二つもってくる。 「陛下、どうぞ。このお茶は故郷のもので、とても美味しいのです」 月姫から勧められ快斗は茶碗を手に取り一口すする。花の香りがして少し甘い味がする。 「……美味しいな」 どこか安心するというか、ほっとする。 懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。このお茶など飲んだことがないというのに。不思議だ。 「よかったわ」 そう言ってふわりと微笑み、月姫もお茶をゆっくりと飲む。 その姿に訳もなく泣きたくなる。湯気の向こうの笑顔と優しい時間。 快斗は気づいてしまった。 自分は、こんな風に穏やかで優しい時間を過ごしていない。年を取る毎にそんな時間は削られていって父王が亡くなり自分が王として生きなければと心に決めた時から、たぶんなかった。立ち止まっていたら、何もできない気がした。振り返っていたら、負けるのだと思った。 若くして継いだ王の座だ。自分が持てる力で懸命にやらねば国は簡単に滅びる。この国を守る責任が己にはある。後悔なんてしていない。 ただ、余裕はなかったのかもしれないが。 「このままいい状態を保ってくれればいいが」 寝ているより起きあがっていて欲しい。健康に動き回れるようになど贅沢はいわないから、自分とこうして笑って話してくれれば、どんなにいいか。願いたくなる。 「陛下。月姫さまは先ほどはスープも召し上がりましたわ」 侍女がお茶のお代わりを茶碗に注ぎながら、教えてくれる。 「食べられるなら、いいな。食は大事だ。何か他に食べたいものはあるのか?どこのものでも取り寄せてみせるぞ?」 国王の自分ならそのくらい可能だ。そのくらいしかできない。医師ではない自分は病を治すことはできないのだから。 「……いいえ。十分です。そのようなお気遣いはいりませんわ。贅沢も」 月姫がゆるく首を振る。 「だが!」 自分が出来ることをしたいと思うはいけないのか。贅沢と言われるほどのものではない。 「そのわずか食べ物も、民からすれば高価で手など届かないものです。私はここで十分に身に余る食事を頂いております。どうか、その心があるのなら、民に与えて下さい」 穏やか声音で述べる言葉はどこまも清く正しい。真っ直ぐに反らさず快斗を見つめる蒼い瞳は澄んでいて、まるで剣のような鋭さで心の奥底まで届く。 「……」 また、自分は間違うのか。 あの時、少女に指摘されたように、優先順位を。 国王の己は民を第一に考えなけれならない。それは当然のことだ。でも、個人的にしたい事や思うことも我慢しなくてはならにのだろうか。否、我慢しなければならないと十分に理解している。 「わかった」 快斗は喉の奥で笑った。本当に、自嘲したくなる。 国王は独りだ。個人の欲求は決して優先させてはいけない。国の方が重きがある。父親は王妃を迎えて自分が生まれたが、幸せといえたのだろうか。 「また、来る」 快斗は、そこから逃げ出した。 |