「まったく」 白馬はぶつぶつと呟きながら廊下を歩く。執務室からの帰りだ。 若き国王は、有能だが些か頑固だ。経験が浅いから6公爵からなる貴族の頂点「貴議会」の意見も聞きはするが、自分が考えていることとあまりに違うと歩み寄る作業を面倒がる。いくら国王が言うことが絶対だとはいえ、すべて敵に回してはなにもできない。そのことを若くして理解している国王だが、若さが露になる瞬間がある。 経験を積めば、それは問題なくなるはずだと白馬は思っている。 小さな頃の悲惨な経験がある割には、おおむね有能な国王となっている。後宮に対する嫌悪感を除けば、多少の性格の捻りは大目に見てもいいだろう。完璧な人間などこの世に存在しないのだから。 幼なじみのような快斗をずっと見てきた白馬は、せめて彼が心安らげる人間に出会えることを心から願っている。それが誰でもいい。将来の王妃が理想だが、高くは望まない。どこかで偶然出会った娘でもいい。この際、少年でもいい。彼のそんな趣味はないと知っているが、ただ心安らげる存在なら誰でもいいのだ。側にいるだけで幸せを感じられる。そんな存在を作って欲しい。 だが、彼は望んでいないだろう。自分の母親の二の舞などさせたくないと心底思っているから、もし心傾ける人間が出来ても諦める可能性が高い。 もう少し、欲張りになってもいい。 自分で絶対に守るのだという意気込みがあればいいのに。 物事はなるようにしか、ならない。 ああ。自分こそ、誰か娶れとうるさく彼から言われているのが、至極理不尽だ。 国王が王妃を迎えるまで、宰相の自分が先に妻を娶れません!とはっきり捨て台詞を吐いてやったため、少しすっきりした。 「どうしました?宰相殿」 向かいから歩いて来るのは、城内の兵士をまとめあげる隊長だ。名をローネイという。背は普通だが鍛え上げた身体に普段は穏和な顔つきで、兵士達から慕われている。これが一度逆鱗に触れれば悪鬼のごとく恐ろしいなどと誰が想像できるだろう。 「いえ、何でもないですよ。隊長はこれから兵舎ですか?」 昼と夜の二度は絶対に兵士達が入れ替わるため、隊長はその警備の人員や配置の任を負っている。 「はい。これから夜の隊に交代しますから。少し寒くなってきたせいで風邪を引く兵士が出始めまして、早めに防寒着を出してやった方がいいかと思っています」 兵士の健康管理も隊長の大事な仕事だ。 世間話のように白馬に告げるのは、意味のあることだった。隊の予算は宰相が握っているといって過言ではない。もちろん、今年の予算はすでに組まれているのだけれど。 「ああ、いいのではないですか?風邪が流行っても困りますし。……そういえば、後宮に幽霊が出るという噂を小耳に挟んだのですが?」 対する白馬も世間話の形を取って必要な事を話していく。 「幽霊ですか?……ああ、宰相殿はそう聞きましたか。どうもそちらまで噂が広まるのに時間がかかったのか、それともあえて、誰かが流したのか」 ローネイは顎を撫でながら、苦笑した。 「ところで、宰相殿はこれから時間がおありで?」 「ありますが」 「では、幽霊に会ってみませんか?」 気軽な誘い文句に、白馬は目を見開く。 「幽霊に会えるのですか?」 「会えますなあ。ちゃんと足がある幽霊ですから」 にたりと人の悪い笑みを浮かべてローネイが器用に片目をつぶってみせた。 「……なるほど。つまり、噂は所詮噂ということですか。でも、全くの嘘でもない」 白馬は興味を引かれたように、目を輝かせ頷いた。 「いいでしょう。是非、幽霊に会いに連れていって下さい」 「もちろんですよ。では、あと一時間ほど後で」 「はい」 二人は別れた。 「こちらですよ」 ローネイに付いて白馬は月の差し込む道を歩いている。普段白馬が足を踏み入れない後宮の外回りだ。兵士が定位置で警護に付いてる。 この城は広い。通常、貴族や宰相の自分などが立ち入る広間や国王の執務室に謁見の場など執政に携わる場所と、生活に必要なものや他国からの貢ぎ物が運び込まれ仕分けられる場所、城の内部も厨房や食堂から始まり、個々に必要なものがある。概ねこれが表に属する場所だ。対して裏に位置するのが後宮だ。 ここに出入りできる人間は限られる。国王のみとは表向きであり、彼女たちの世話をするものが必要になる。食べ物から始まり洗濯に掃除、衣類や装飾品は後宮にいる限り一定は与えられると決まっている。 そして、後宮の周りも警護がるのが当然だ。むしろ、男手が少ない分周りを固めておかねばならない。故に、女性たちが住む後宮という場所に兵士達が存在するのだ。もちろん、彼らがどんなに後宮に興味があっても中に入ることは決してない。 しばらく無言で歩みを進めると、ふと楽の音が聞こえてきた。 「……何ですか?」 こんな場所で聞こえて来るのが不自然だ。兵士が気休めに弾いている訳がない。巧すぎるのだ。 繊細で、美しい、どこかへ誘う妙なる調べ。 「幽霊ですよ」 「これが幽霊ですって?」 白馬は、噂をした人間を問いただしたかった。 これは名演奏だ。幽霊なんていくら何でも価値がわかっていない。この技術は、国一番を誇る楽士の一団を上回る。なんというか、技術が巧い以上に豊かな音色が心まで響いてくる。 「素晴らしい幽霊ですね。でも、いったいだれが?ここは後宮の裏手だというのに」 そう、彼らがいるのは後宮といってもぐるっと回って裏手だった。 こんな場所にいるのは兵士だけのはず。だが、兵士ではない。つまり、誰かが忍びこんだのか?忍びこんだから大問題になるが、ローネイは涼しい顔である。つまり? 「もう少し近付いてみましょう。けれど、決して必要以上に近づいてはいけません。そして、宰相であるということも忘れて下さい」 「わかりました」 ローネイの予想外に真摯な表情に、白馬は頷いた。 そこから、音色のする方へと歩く。やがて、少し開けた場所に着くとその入り口付近に一人の兵士がまるで誰かを警護するかのように立っていた。側には女性らしき人間もいる。 ローネイは人差し指を唇に寄せ小さく笑うと、先に立って二人に歩み寄った。 「あ、隊長。ご苦労さまです」 「変わりないか?」 「はい!」 元気よく答える兵士に頷くと、ローネイは側いた女性に声をかけた。 「侍女殿。少し寒くなってきましたが、大丈夫ですか?」 「ええ。ちゃんと考えてあるから心配はいらないわ」 返事があった事に背を押され、ローネイは聞いた。 「私の上司がいるんですが、少し聞いてもいいですかね?」 ローネイがそう言って茶目っ気に白馬の方を顎でしゃくる。白馬は事情が飲み込めてきて、だんだんと顔色を変えた。が、それを見せないように平気を装った。 「……大丈夫なのかしら?」 「保証しますよ。私の上司はなかなか思慮深いですから」 「そう。なら、静かにしてよ」 「もちろんですよ」 大きく頷き、ローネイは白馬を呼んだ。 「ほら」 白馬はゆっくりと歩いて合流する。 そして、見えたのは。 開けた場所で、胡弓を弾く少女だった。ベールを被っているから顔は見せないが、背格好や身につけている服から、少女だと想像できた。まだ、成人を迎えていないように見える。そのくらい細い。座っているから背はわからないが、高そうには見えない。 月光の中、豊かな音色が辺り一帯に響き渡り、聞いた人間に感動を与え、すっと消えていく。なんとも幻想的だ。 侍女らしき女性と彼らの護衛についていた兵士。隊長のローネイ。自分のすべてが少女に注がれている。 ああ、侍女がいて、あれほどの胡弓の腕を持つ少女という時点で、彼女が後宮に住まう人間だと理解した。しかし、なぜ?夜中に宮から抜け出して胡弓など弾いているのだろう。 まだ、成人していない少女がいるには、後宮は辛い場所なのだろうか。 黙って、耳を傾ける。 ずっと聞いていたくなる。 ああ。国王にも聞かせてやりたい。 これを聞けば、彼だって感動するだろう。それくらいの音色だ。だが、彼は恐らく受け入れられない。後宮に住む少女だと知った時点で、どんな態度に出るか考えるだけで、恐ろしい。 もし、少女が後宮を抜けだし胡弓を弾いているという事実を最悪咎めたら、彼女は二度と外へ出ることは叶わない。ずっと、あの中で過ごすことになる。 いくら後宮が嫌いでも、すべてを母親の敵と同じにしてはいけない。実際、目の前にそんなものとは一切縁遠い少女が存在している。 本当は、彼女を知って欲しい。 彼の母親がいたように、今の後宮にも例外があるのだと理解して欲しい。 国王に、簡単に教えることができないのが、なんとも口惜しい。 眠っている新一の側で、志保は分厚い本を広げて読んでいる。 新一が寝ている寝台は四方から柱に囲われそこから布が垂れ下がっているため、隔離できる。誰かがもし入ってきても寝てる姿をうっかり見られることはない。 それに、新一の場合、ここでの暮らしという意味で重要なことだ。 「……もうしばらくで起きるかしら?」 寝台の横に椅子を置き新一に何かあればすぐに対処できるようにしていた志保が寝顔を伺う。 時刻を確認して志保は席を立った。 志保専用の薬棚がある小部屋まで行き手際よく薬草を調合して、簡易の厨房でお湯を注ぐ。また。そこでいくつかの柑橘系の果物を切り絞っておく。ちゃんとした普通のご飯は後宮専用の料理人が作るため、大厨房まで取りに行かねばならないが簡易なものなら与えられた部屋で作るころができる。 志保は絞った果汁に多少の水を加え飲みやすく整える。そして他にもいくつか用意して、再び寝室まで戻った。 志保が見守る中、新一の瞼がふるえ、長いまつげに縁取られた瞳がゆっくりと開く。目覚の時だ。 「……おはよう。志保」 「おはよう。気分はどう?」 「うん。まあまあだな」 いつもの挨拶をして新一はゆっくりと起きあがった。 「ひとまず、果実水をどうぞ」 用意しておいた柑橘系の果物を絞ったものを新一に渡す。白い陶器のカップから瑞々しい飲み物をごくごくと飲み干す。乾いた喉を潤すちょうどいい柑橘系の配合に、新一は笑った。 「美味しい。さすが志保」 「当然よ。どれだけ一緒にいると思うの?」 志保は微笑みながら、次に薬湯を差し出す。それを仕方なそうに受け取り新一は若干眉間にしわをよせて、何度かに分けて飲んだ。 「よくできました」 志保が誉めると新一は吐息を付く。 「これが、もう少し苦みが押さえられたら言うことないのに」 「仕方ないの。これでも飲みやすく改良しているんだから。苦みはどうしても外せない薬草の味なのよ」 「……わかってる」 子供のように薬湯を苦手とする新一を微笑ましく思いながら志保はお茶と小箱を持ってくる。青磁の茶碗からは湯気といい香りが立ち上っている。お茶は新一が好きなものだ。 「口直しよ。今日はラディンナン。お菓子はクミー。大厨房で作ってもらったの」 「ありがとう。楽しみだな〜。それにしても、クミーなんてよく作ってくれたな」 クミーとは新一がクオード国にいる頃よく食べたお菓子だ。小麦粉と牛乳を練って焼いただけのとても素朴な味だ。そこに煮詰めた果物や蜂蜜を付けて食べるのが美味しい。 ラディンナンといお茶はやはり王宮で飲まれたお茶の一つで、琥珀色をした香り高い一品だ。花の香りのする甘いお茶、ロイヤルワラーも王宮で頻繁に飲まれていたが、こちらは他国では手に入らないほど希少で価値が高かった。特に香り付けする花がクオード国の土壌と気候ではよく育つが、一歩国を出るとなぜか枯れてしまうというため余計に貴重な一品となっていた。 「まあ、そこは日頃のおつきあいよ。本国から送ってもらったお茶を分けておいたし。あれ、こっちでは手に入らない極上品だから」 志保は人の悪い笑みを浮かべた。つまり、貴重な花の香りがするお茶ロイヤルワラーをお裾分けと称して料理人へ貢いでいるのだ。 「さすが志保だな。うん」 新一は誉めた。快適な生活を送るための努力をして、どこが悪いと思うくらい新一は王族の生まれだった。我が儘ではないが、こんな場所で暮らしているのだ。多少の融通くらいきかせてもいいだろう。 「せっかくだから、志保も一緒に食べよう。一人だとつまらないし」 「そうね」 一人で食べるより二人の方が美味しく感じるものだ。志保は新一の食欲向上を計るために頷くと自身の分のお茶を入れて隣に座った。 元々双子と彼女たち、志保と哀は長い間一緒に過ごしてきたから、姉弟のようなものだ。共に食べ、共に暮らし、共に寝た。 それほどの人間と一緒だからこそ、新一はここで暮らしいけるのだ。 |