「月までの距離」3




 江古田高校正門前。

 下校する者もあれば、部活やクラブに勤しむ者もある放課後。ちょうど授業が先ほど終わったのだろうと鐘が鳴ったことから推測された。
 新一は門に背を預けて、立っていた。
 明らかな人待ち顔。

 その綺麗な顔を時折門から出てくる人間に向けていることから、誰か探しているとわかる。
 日本一有名な高校生である彼がなぜ、この学校に、多分生徒に用があるのかと通りがかる人間は不思議がった。
 新聞やテレビ、雑誌で見たことがあるだけの、遠い存在の、彼。
 その美しい蒼い瞳が印象的な母親譲りの美貌は、その場にいるだけで圧倒的な存在感を見せつけて惹き付けて離さない。
 すぐに工藤新一だとわかっても、遠巻きにきゃあきゃあと騒いでも、声などおいそれと掛けられはしない。
 ただ、一体誰に用があるのか?知り合いがいたのか?と密やかに噂するだけだ。

 新一はそんな外界の意識など気づきもせず、ふう、と吐息を付いた。
 先日自分を助けてくれた人物、黒羽快斗。
 倒れそうになった身体をすくい上げて、掴んだままの腕をそのままに抱き上げて阿笠邸まで一緒に来てくれた。なのに、しっかりとお礼が言えなかった。
 「ありがとう」とは言った。
 でも、ちゃんとお礼がしたかった。迷惑をかけたと自覚がある。
 あの後、高木刑事や灰原から自分の意識がない間のことを聞いた。
 彼はずっと付いていてくれて、上着を離さない自分から無理に奪わず、後で取りに来ると言っていたらしい。それだけ見ず知らずの人間に親身になってくれて、決して恩着せがましくない。自分の行動を振りかざさず、手を貸すことにさりげない。
 
 (優しい………と思う)
 
 別れ際、彼が新一の気にしてることを言ったため向きになると、笑いながらあっという間に消えてしまった。後で気付いたけれど、まるで自分に責任を感じさせないような話題転換だった。
 同じ高校3年だと言っていた。しかしそれ以上の情報を新一は持っていなかった。
 彼は名前以外残していかなかったのだから。
 だから、すぐに学校で蘭や園子に聞いてみると………女性の方がそういうことに詳しい………、制服の特徴と校章の形で江古田高校と判明した。
 すかさず、新一は彼の高校に赴いた。





 放課後を待つ前に噂が台風のように駆け抜けていた。授業をふけていた快斗にそのビックニュースが舞い込んだのはホームルームの前だった。

 「すごいの、あの工藤新一がいるの!!!」
 「遠目だけど、確かに見たわ〜。すっごい本物よ」
 「雑誌よりも実物の方が何倍も何十倍も綺麗で格好いいの〜」
 「ああ、工藤くんを間近で見てみたい………。それとなく見に行こうか?」
 「いや〜〜〜。抜け駆けは駄目よ」
 「私だって!!!」

 黄色い悲鳴と共に語られる、語尾にハトマークが付いてるのではないかと思わせる、まるでアイドルに酔うファンのような会話に教室は沸いていた。
 最初に聞いたときは耳を疑った。
 
 (何だって???どうして名探偵が………。誰に逢いに来たんだよ………俺か?)
 
 快斗は心の中で一人で突っ込みを入れていた。
 自分は探偵である新一に当然本名を名乗った。彼がそこから快斗を見つけだす事は造作もないことだろう。
 しかし、なぜ?
 疑問が沸き上がる。まさか、あれだけのことでKIDとばれたとか?それとも、単に用事があったとか?上着は返してもらったし………、忘れ物はしていないし。ぐるぐると考えるが決定的な答えは見つからなかった。
 これは、新一から答えを聞く以外道はなかった。
 善は急げとホームルームが終わると教室を飛び出して正門まで走った。
 早く逢いたい気持ちと、いつまでも彼を人目に晒すことは自分が絶えられそうになかったから………。



 快斗は門に背を向けて佇む新一を見つけた。ぼんやり空を仰ぎ見る横顔は犯すことのできない神聖さが漂い、彼の周りだけ空気の色さえ違って見えた。
 声をかけることを躊躇わせる雰囲気を破って快斗はそっと新一を呼んだ。

 「工藤………?」
 「あ、黒羽」

 新一は快斗を見つけて瞳を瞬いた。

 「何かあった?」
 「えっと、ちゃんとお礼を言えなかったし。随分迷惑かけたみたいだから、何かお礼をしようと思って」
 「そのために、わざわざ来てくれたの?俺を探して?」
 
 (お礼をするためだけに?ここまで探して来てくれたんだ………)

 快斗は感動していた。
 快斗としての繋がりなどあれで切れてしまうと思ったのに。こうして新一自身が繋いでくれるのだから。

 「ああ。名前しか知らなかったけど、友達に聞いたら制服とかで高校わかったし………ここで待ってれば逢えると思って」

 新一は照れくさそうに、つらつらとここに至る経緯を話す。

 「………そんなの、いいのに」
 「でも………俺の気がすまない」

 新一は目を眇めながら快斗を上目使いで見つめた。
 その瞳の威力に逆らえる者がいたらお目にかかりたいくらいである。当然ながら、快斗は折れた。

 「じゃあ、何か驕って。それでいいだろ?」
 「ああ」

 新一は快斗の承諾に嬉しそな表情を浮かべてこくん、と頷いた。





 快斗に連れてこられたのは、女性に人気の甘すぎなくて美味しいと評判の洋菓子店。

 「ここ美味しいって有名なんだよ〜。1日20個限定のミルフィーユなんてあっという間に売り切れるんだ!」
 「へえ………」

 新一は店内をきょろきょろと見回すが、お客は彼ら以外女性同士か、カップルばかりであった。なんとなく、居心地が悪い。大体ケーキ屋に男同士で来る客なんて普通いないのではないだろうか?と新一は思う。
 しかし快斗は全く気にせず、「これなんて美味しいんだよ」とメニューを指差して新一に説明をする。

 「ケーキ、そんなに好きか?」
 「好きだよ。甘いお菓子大〜好き。これでも自分で作れるんだぜ?」
 「………自分で?ケーキとか焼くのか?お前が?」
 「おう。結構上手いぜ?俺、器用だから」
 「自分で器用っていうか?普通………」
 「だって、本当のことだからさ。嘘付いてもしかたないだろ?それとも日本人特有の謙虚さが必用だった?」
 「………別に、いいけど。………お前って変な奴」

 新一はおかしそうに口元をほころばせる。

 「変かねえ。まあ、誉め言葉と受け取っとくよ」
 「そうだな、誉め言葉にしておくよ」
 「なあ、注文していい?」
 「ああ。好きなだけ頼んでくれ」

 新一の好きなだけ発言に、本当にいいのかな?と思いつつ快斗はウエイトレスを呼び美味しそうなケーキを注文した。しかし、例え5つ頼もうと新一は驚かなかった。蘭や園子に付き合わせれているため、大量の注文はいつものことだった。ただ、新一はいつも珈琲だけでケーキは食べてもチーズケーキやレモンパイである。
 運ばれてきたケーキを前にして快斗は瞳を輝かせていただきますと手をあわせる。それに新一は頷いて自分の珈琲を一口すすった。
 今日も新一は珈琲のみだ。
 目の前の快斗は美味しそうにケーキをぱくつく。
 次々に口の中に消えていくケーキの欠片。チョコレートケーキにモンブラン、お勧めのミルフィーユに苺のムース、アップルパイ。
 見るだけでお腹がいっぱいで、バニラの甘い香りが鼻を擽る。
 口の中に食べてもいない、甘いケーキの味覚が広がってくる。

 「甘くないか?」
 「美味しいよ。俺、甘党だもん」
 「………みたいだな」

 聞くだけ無駄だとは思った。なぜなら、一緒に頼んだ紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れているからだ。甘いケーキと甘い飲み物。新一なら絶対に無理、胸焼けは必至だ。新一は蘭や園子の上を軽く越える快斗の甘党を驚愕の面もちで見つめた。

 「ところでさ、工藤」
 「何だ?」

 快斗はあっという間に片付けたケーキの最後の一切れを食べ終えて、新一に切り出した。

 「この間、随分顔色悪かったけど、どうしたのさ?探偵ってのはそんなに過酷なの?倒れるほど労働させるのは警察としてどうかと思うし。いくら探偵でも、身体は大切にしないと、さ………」

 新一は真剣に心配する快斗に目を見開く。

 「………ちょっと睡眠不足なだけだから」
 「何で?」
 「気になることがあるっていうか、眠りが浅いっていうか」

 新一は言葉を濁す。

 「眠らないと、駄目だよ。薬に頼るのは良くないけど、それでも眠った方がいい」

 睡眠不足は著しく健康を害する。体力を奪う。まして新一のような基礎体力がない人間は倒れる可能性を否めない。事実、倒れたのだから。

 「………。薬は使いたくない」
 「………何か理由があるの?」
 「………」

 新一は、答えに窮する。
 灰原に処方してもらえば、安全な薬で眠ることはできるだろう。
 けれど、強制的な睡眠は夜中に誰が来てもわからないどころか、目覚めることはできない。もし、KIDが現れても気が付かない。それでは意味がない。というか、折角のチャンスをなくすことになる。
 しかし、そんなことは誰にも言えなかった。

 「普通の市販の薬は使えないんだ………。俺用に処方してもらったものでないと駄目だし………。副作用もあるし、なるべく使いたくない」

 結局、嘘ではないが本当でもない理由を言うしかなかった。

 「そっか。じゃあ、昼寝でも何でも寝られる瞬間があったら、眠った方がいいよ?」
 「昼間は神経が尖ってて、深く眠れないんだ」
 「難儀だね。工藤は神経質なの?」
 「さあ。………でも、お前が側にいると眠れるかもしれないな」

 新一が思い出したように、くすりと笑う。

 「え?………俺?」

 快斗は驚いで自分を指差す。

 「そう。どういう訳か助けられた時、熟睡してただろ?それってすごいことなんだぜ。存在が馴染むのかな?」
 新一は不思議そうに首を傾げる。

 「光栄だね」

 快斗は心から思う。
 そんなことを言われると嬉しくなる。駄目だと思うのに、期待してしまいたくなる。

 「お前は、どうしても眠りたい時どうするんだ?何か方法があるのか?」
 「俺?基本的にどこででも眠れるよ。学校の屋上なんて昼寝に持ってこい。昼飯食べて寝転がると自然に眠くなる」
 「へえ………いいな」
 「工藤は?せめて、そんな落ち着けるような場所ないの?」

 新一は顎に細い手を当てて首をひねる。

 「………しいていうなら、父さんの書斎かな。書庫も落ち着くけど、寝る場所はないし埃っぽいし。書斎は本もあるし、パソコンもあるし、何より空気が穏やかだ」
 「書斎か。そこでも寝られないの?」
 「う〜ん。昼間ならどうにかうたた寝できる。夜はそこでは寝ないし」
 「試しに、寝てみたら?睡眠不足になるより、いいじゃん」
 「………そうだな」

 新一は曖昧に頷いた。





 「また倒れるといけないから、送るよ」と快斗に言われて断ったが、「もし倒れたら俺は自分を責めるよ?」という脅しのような言葉に新一は頷いた。
 そのまま工藤邸に送ってもらい、ただ帰すという訳にもいかず、………新一にはできなかった………珈琲でも飲んでいけよと誘った。

 「そこらへん、座ってろ」

 リビングに快斗を座らせて新一はキッチンへ向かった。
 やがて香り高い珈琲を入れて戻ってくる。
 テーブルにカップを置いて快斗の前にはスティックシュガーとミルクピッチャーをどん、と置く。

 「ほら、ミルクに砂糖。好きなだけ入れろ」

 すでに甘党であることがわかっていたから、珈琲にもたっぷり入れるだろうと予測済みだ。

 「サンキュー」

 快斗は笑いながらたっぷりと砂糖もミルクも珈琲に入れると、白く濁った液体を飲む。

 「うん、美味しい」

 満足そうに頷くので新一は良かったよと頷き返した。
 新一はもちろん何も入れずブラックで己好みの珈琲を一口すする。

 (やっぱりこの苦みがいい………!香りといい後味に渋みといい、これこそ珈琲だ)

 あれは、決して珈琲じゃない。
 快斗の珈琲もどきを見ながらしみじみと思う。が、まあ口には出さなかった。味覚が子供だと思えばいいだけである。苦いのが飲めない子供などたくさんいるではないか………。
 そして、他愛もないことを話す。
 ソファに座って珈琲を飲みながら、学校であったこと、趣味や興味があること、ニュースなど途切れることなく話し合う。
 打てば響くような会話はとても楽しい。
 話題が豊富で、同じ高校生だというのに雑学に詳しく………同世代で自分の興味を満たすほどの人間にあったことがなかった………新一は満ち足りる。
 こんなに楽しいなんて、久しぶりだ。
 

 かなり時間が過ぎた頃、いきなり新一が静かになったので快斗が疑問に思い顔を覗こうとすると、こくりこくり、と船をこいでいる。目がうつろで今にも閉じそうだなと思うとやがて、快斗の肩に頭を乗せて眠ってしまった。

 「工藤?………眠ったの?」

 小さく快斗は確認するように囁いた。
 新一は目を閉じて穏やかな表情で、すやすやと安らかな寝顔を晒している。あまりの無防備さに快斗は驚く。

 (本当に、寝てる………)

 あれほど、眠れないって言ってたのに。
 俺の側で眠れるかもって確かに言ってたけど。

 快斗の肩に新一の頭の重みがかかり、寝息がかかる。自分はこのままでもいいのだけれど折角の熟睡だ、どうせなら楽な姿勢の方がいいだろう。
 快斗は起こさないように、そっと新一の頭を支えて自分の膝に移動させる。

 (この方が寝やすいだろうな………)

 自分の膝の上に漆黒の髪が散らばる。閉じられた瞼には長い睫毛が彩られて、白皙の美貌を飾っている。こうしていると、極上の人形みたいだなあと思う。
 起きている方が、生気溢れる綺麗な瞳があった方がいいけれど、眠ることができることは大層喜ばしい。
 快斗は新一の黒髪に手を伸ばし、何度か指を潜らせるように梳く。
 さらさらと絹糸のような髪は、さわり心地がいい。

 (工藤………)

 どれほど時間が過ぎたのか、快斗にとっては至福の時間であったからあっという間なのだが、時計見れば9時になろうとしていた。
 普通なら、お腹が空くはずなのだが、全く感じない。気持が満腹だからだろうか?
 快斗は愛しげに新一を見つめながら、その頬に手を添えた。
 
 (そろそろ起こさないと不味いかな?)

 「工藤………?」

 そっとそっと驚かさないように声をかける。

 「工藤?」

 優しい声で、眠りを呼び起こす声に新一の瞼がふわりと開いた。蒼い瞳がぼんやりと快斗を映す。幼い表情を楽しげに見つめつつ、

 「おはよう、工藤」

 にっこりと微笑んだ。

 「え?………黒羽?」

 新一はぱちぱちと目を瞬かせて快斗を見つめる。

 「よく、眠れた?」

 そんな新一に快斗は笑う。

 「うん」

 ぼんやりと快斗を見ながら、新一は自分がどんな状態か段々理解してくる。

 (なんで、黒羽を見上げている?それも、こんな間近で)

 正確に動き出した頭脳は、自分の置かれた状態をはじき出した。その答えは、膝枕、である。

 「えええええ………!」

 新一は驚愕に意味不明の声を上げて、がばりと起き上がった。

 「ごめん、本当に、ごめん、黒羽………」

 謝ることしかできない。
 いつのまに、寝てしまったのか?それも、どうして膝枕で?自分がそうしてしまったのだろうか?全く覚えていないため、ぐるぐると記憶を巡らしてもさっぱりわからない。

 「いいよ。よく寝てたし。熟睡の後は、気持ちいいだろ?」
 「そうだけど………」
 「だったら、いいじゃん」
 「黒羽………」

 新一は困る。笑顔の快斗に申し訳なくて、どう言ったらいいのか。
 彼はこれっぽっちも怒っていないし、反対に眠れて良かったと言うのだ。
 ふと、自分はどのくらい寝たのか気になった。リビングの外は暗闇である。首を傾げつつ時計を見上げた。

 「………何時だ?」
 「9時」

 新一が時計を見る前に快斗がすかさず答えた。

 「ええ?」

 新一は何時間も寝てしまったことにまたもや、驚愕する。
 ………どうして、こんなに彼には迷惑をかけてしまうのか。
 起こしてくれればいいのに………。

 「………黒羽」
 「いいって。気にしなくて」

 新一がショックを受けていることは快斗に手に取るようにわかった。
 また、自分を責めているなと思う。迷惑なんて全く思っていないのに、新一にそれは理解できないのだろう。

 「でも」

 言い募り、快斗を見つめる新一は今にも泣き出しそうな色を浮かべる。
 きっと涙など見せない。それでも、心の中は申し訳なさでいっぱいなのだろう。

 「あのさ、友達なんだから、これくらいいいんじゃないの?」
 「友達………?」
 「友達じゃないの?」
 「いいのか?俺で」

 恐る恐る聞く新一が無償に可愛かった。快斗はにっこりと微笑んで肯定する。

 「工藤がいいな」
 「………」

 新一は真っ直ぐ快斗を見つめて、小さく頷くと、花のように微笑んだ。






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