「月までの距離」2




 KIDがここ1ヶ月来ない。姿を現さない。
 
 いつもなら週に2度程。来れない時があっても1週間と置かなかったのに………。
 どうしたのだろう?
 世間でも1月前の仕事から姿を現していない。
 まさか、怪我?
 だから予告状も出していないのか?
 動けないほど?
 けれど、自分は彼の何も知らない。

 それに気まぐれに飽きたのかもしれない。
 冷静に考えれば、天敵である探偵に会いに来る怪盗などお笑い草だ。
 暇つぶしだったのだ、ただの。

 何も約束などない。
 ここにKIDが現れることは、彼の意志だけが繋いでいたこと。
 自分に選択権などなかったのだ、初めから………。

 彼が現れる前に戻っただけ。
 それだけだ。
 
 ………なのに、眠れない。
 その存在に慣れてしまったのだ。彼の前だとよく眠れた。
 自分を脅かすことがないと知っていたからだろうか?
 怪盗KIDは人を傷つけることはない。例え、探偵の自分でも。
 それに、彼は自分に何も求めていなかった。
 自分から警察の情報を引き出すこともない。自分が寝ている時に、パソコンや資料など見た形跡など全くなかった。
 彼はここに自分の前に現れて、特別何もしていない。何も言わない。
 それが、安心であったのに、どこか口惜しい。

 彼を知らない。
 自分の話に相づちを打つKIDは、当然ながら己のことを語らなかった。
 誰にも知られてはならない、正体。真実の姿。

 こんなことになるなんて思わなかった。
 自分の中に入れてしまった存在。
 今日も、眠れない。
 眠っても浅い眠りを紡ぐだけ。熟睡など、できない。
 気になって、しかたない。
 ひょっとしたら、今日現れるかもしれないと希望をもつ。
 
 それに彼の傍は、なぜか、どうしてか熟睡できた。
 神経が過敏になっていて、人が側によるとすぐにわかる。何かあったらと殺気や悪意の気配に聡くなった。
 一人が一番安心できたのに。心地よかったのに。
 それが、変わってしまったのは、いつからか………。
 
 (俺の安眠、返せ………)
 
 新一は月に向かって心の中で訴えた。





 「では、それだけ調べてみて下さい」
 「わかったよ」

 高木刑事は頷いて、鑑識にお願いしますと指示を出す。そして頭をかきながら新一を振り返る。

 「いつもありがとう。学校があるのに、すまないね」
 「いいえ」

 馴染みの刑事である高木に助言をして、新一は苦笑する。
 申し訳なさそうに謝るから、呼んでもらっているこちらとしては対応に困る。

 「気にしないで下さい。こちらこそ、わざわざ呼んでもらっているんですから………」
 「でも、高校生活もあるだろ?試験だってあるし、授業を休ませるのは忍びないよ」

 人のいい彼はしみじみと新一の心配をする。

 「試験のある時は目暮警部から立ち入り禁止と言われてますし、授業も出席していますよ。たまに足らない時は補講やレポートで済ませてもらってますけど………」
 「工藤くん………」
 「でも、人が殺されているんです。どちらが優先かなんてわかりきったことでしょう?」
 「………」
 「だから、気にすることはありませんよ、高木刑事」

 新一は微笑んだ。そして、邪魔にならないよう、しばらくあちらにいますからと言いつつ後ろ手に手をふると、休んでいてねと返事が聞こえた。

 今日、電話で呼ばれた現場は公園だった。
 殺人事件。発見された遺体を見て、被害者の家族に詳しいことを聞いて。
 残された痕跡から、犯人の手がかりを割り出して………。
 いつもにように、新一は探偵としての役割をこなす。それしか自分にはできないのだから。
 
 少し頭が上手く回らない。
 睡眠不足は身体に応える。
 日差しも余計に体力を消耗させる。
 太陽が黄色い。眩しくて手を翳しながら目を眇めてやり過ごす。

 (ちっつ。ふらつくな………)

 新一は自分でもまずいかな、と思いながらベンチに座る。
 しばらく休んでいると、高木が「工藤くん」と離れた先から呼ぶので「はい」と答えて頷く。
 しかし、立ち上がった瞬間、暗転した。
 目の前が真っ暗に染まりちかちかと光る。耳鳴りがすると、周りの音が聞こえなくなる。
 身体に力が入らなくて、支えられない。
 
 (まずい………)

 新一は頭を押さえながら、ふらつく身体を何とか踏みとどまろうとした。が、外界の全てがシャットアウトされていては、どうすることもできなくて………。

 「おい!大丈夫か?」

 遠くに聞こえる声がそう言ったような気がする。
 揺らぐ身体を誰かが支えてくれた?
 新一はその腕に溺れるものが縋るように手を伸ばした。まるで、離したらどこかにいってしまうような………不安。
 気が遠くなる瞬間、ぎゅっと何かを掴む。
 そこで、意識を手放した。





 「ああ………今日もいい天気だよなあ」

 快斗は空を見上げた。
 頭上を流れていく白い雲をぼんやりと見つめる。いくつもの固まりがぽっかりと浮かび、それが風に流されるのか、早さと形を変えて快斗を通り過ぎていく。

 (逢いたいなあ………)

 思い浮かべるのは綺麗な蒼い瞳の名探偵。
 もう1月以上逢っていない。その瞳を見ていない。いい加減禁断症状に陥りそうである。
 だったら逢いに行けばいいのに、それができない。
 前回のKIDの仕事の時に組織に狙撃されて、辛くも逃げ切ったがしばらく動けない怪我を負った。学校も風邪を引いたと偽り休み、隠れ家で休養を取っていた。病院にも行けないから自分で手当をして………寺井ちゃんだけは知っているけれど………どうにか日常の生活に戻ることができた。人には見せられない銃創のある傷ついた身体、今現在の痛みと時折古傷の痛みに襲われる満身創痍な身体など、いつものことで慣れている。

 しかし、そんな情けない身体で工藤家に行くこともできず………きっと名探偵の彼なら見抜いてしまう………やっと回復しても今度はKIDが狙うめぼしい宝石もなく、元々用もなく赴いていたのだから行けばいいのに、これだけ間があいてしまうと行きづらい。
 彼は、姿を見せないKIDにどう思っているのだろうか?
 一向に現れないKIDに深く考えることもなく、工藤邸に来ないという認識をももってもらえなかったら。その上、清々したと思われたら、立ち直れない。

 思えば、思うほど、どの面を下げて逢いに行けるのか………。
 快斗は自分の思考に落ち込んできた。
 授業をふけて屋上で寝転がっていたが、勢いを付けて飛び起きる。ぱたぱたとズボンに付いた埃を払って、

 「かえろ………」

 小さく呟いた。





 教室に戻り青子に小言をいわれながら鞄を掴んで飛び出す。
 このまま真っ直ぐに帰宅する気にもなれず、いくらか歩いた先にある近所の公園でマジックの練習でもするかと入り口を覗いた。子供達がいれば、披露してもいい。観客がいれば張り合いもあるし、子供のきらきらした純粋な瞳を見るのは好きだった。
 それは自分がマジシャンである父親の起こす魔法を見ていた時を思い出すから。
 そんな魔法を自分も使えるようになりたいから。
 
 しかし、公園には子供などいない。遊具や砂場で遊んでいる子供が一人もいない上、親子やカップル誰もいない。ただ、様子を伺うような興味を浮かべた野次馬的人間が数人いるだけだ。
 何か物々しく人が出入りして、ぴりぴりした雰囲気が漂っている。

 (どうしたのだろう?)

 快斗は公園内を見回した。

 ………警官がいる。何カ所に立って現場らしき場所に立ち入れないように見張ってる。
 そして、私服の刑事。鋭く纏う雰囲気が一般人でないと、ありありとわかる。
 反対側の入り口には木に隠れてパトカーの頭だけが見えている。

 (何かあったのだろうか?)

 黄色と黒のロープで囲まれている場所を、ひょいと覗くと、逢いたいと思っていた姿を見つけた。

 ………彼がいる。

 名探偵が扱う事件、つまり1課の管轄、殺人事件ということになる。
 彼は何か指示をしてその場を離れると、快斗の近くのベンチに座った。ふう、と吐息を付いて、眩しそうに空を見上げた。暑さに弱そうだしなあ、と観察していると刑事に呼ばれて再び立ち上がる。
 
 随分、顔色が悪い。
 青ざめた瞼、血の気の引いた白い肌に汗が一筋、滴り落ちた。
 ベンチから少し歩いて、ふらりと揺らぐ身体。
 こめかみを押さえておぼつかない足取りは、前に進まない。

 (目が見えてない………貧血か?)

 快斗はまずいと思い、後先考えずに近寄った。
 そして、ちょうど倒れそうな身体を間一髪で腕を引いて支える。

 「おい!大丈夫か?」

 声をかけるが、聞こえているのか、いないのか。
 目を細めて自分を見ようとしているが認識できていないようだ。
 彼が手を伸ばしたのでそれを掴む。

 「おい!!」

 細い身体を抱き留めながら呼ぶが、苦しそうに目を閉じたまま快斗の上着をぎゅっと掴んで意識を手放した。身体から力が抜ける。慌てて崩れ落ちる身体を抱きしめる。
 
 (どうしたっていうんだ?名探偵)
 
 快斗は新一の細すぎる肢体を抱きしめながら、閉じられた瞼を見つめる。

 「工藤君………!」

 そこへ、快斗でも知っている馴染みの刑事が駆け寄ってきた。確か、高木刑事という名前だと快斗は思い出す。

 「多分、貧血だと思います」

 快斗はしっかりとした声で高木に答えた。

 「え………と、君は?」

 誰だろうと困惑気味に高木は首を傾げた。

 「通り縋りです。目の前で倒れたので、慌てて支えたんですが………」
 「そうか、ありがとう」
 「どうしますか?救急車呼びますか?」
 「いや、こういう時の連絡先が決まっているから。彼には主治医がいるからね」

 工藤邸の隣家、阿笠邸。そこには新一の旧知であり保護者である博士と運命共同体であり、彼の身体のエキスパートである主治医の少女が住んでいる。彼に何かあったら、そこに連絡を取ること、無闇に病院へ連れていかないことは、詳細は知らされなくても、1課の人間なら誰でも知っていた。
 快斗も、もちろん知っていた。

 「じゃあ、連れて行きますか?」
 「ありがとう。じゃあ、工藤くんはこちらに預かろうか………」

 高木は新一を自分の方に預かろうと、手を差し出す。が、それに新一を渡すことなく快斗は申し出た。

 「………自分も行きましょうか?」
 「でも………」
 「離れないんですよ、ほら」

 快斗は前のボタンを留めていない上着の端を新一が掴んでいるのを見せる。ぎゅっと縋るように、指に力が入っていることがその皺の寄り方からわかる。外させることが困難というより、その縋るような手をほどくのが可哀想だと思わせた。

 「………そうだね。いいのかい?」
 「はい。構いません。こんな状態の病人放っておけません」
 「悪いね、じゃあ車回してくるよ」
 「近くですか?」

 快斗は新一をひょいと抱き上げると、頷く高木に「そこまで行った方が早いですよ」と苦笑した。





 「新一君!」
 「工藤くん………」

 車が阿笠邸の前に止まると、そのブレーキの音から気付いたのか住人が飛び出してきた。
 先ほど電話で新一が倒れたと、連絡しておいたためだ。
 後部座席から、新一を横抱きにして一人の学生が降りてくる。

 「貴方は?」

 哀は新一を抱き上げている快斗を不審そうに見つめる。
 警察でもない学生服を着た高校生。それがなぜ、新一を抱き上げて連れてくるのか。

 「ただの、通りすがり」

 伺うような冷たい哀の視線に快斗は淡々と答える。

 「なぜ、通りすがりの人が工藤くんを抱き上げているの?」
 「えっと、彼が倒れそうな工藤くんを助けてくれたんだ。本当なら僕が責任をもって預かるはずなんだけど………肝心の工藤くんがね………」

 車を止めて遅れて出てきた高木は哀の追求を妨げた。
 好意でここまで来てもらった学生に、あの哀の態度は少々申し訳ないと高木は思う。どれほど主治医である哀が新一を大切にしているかなんて、数度逢った高木だとて知っていた。だから、その態度は自分には馴染みであるのだけれど………。
 高木は、ほら、と快斗の上着を掴んで離さない新一の指を二人に示す。
 それを見て、阿笠も哀もぽかんとする。

 「「………」」

 「………じゃあ、運んでもらえるかしら?」

 衝撃から立ち直った哀が部屋に案内する。ベットが置かれた清潔で簡素な部屋は窓が開いていてカーテンが翻っていた。心地よい風が入り込み新一の髪を揺らす。
 哀の後に続いて部屋に入り、快斗は新一をベットに寝かせようとするが、このままでは寝かせられないと気付く。快斗はベットに身体をそっと降ろしつつ、自分の上着を脱でそのまま新一に持たせる。そして布団をふわりと肩までかけてやる。
 それを隣で黙って見ていた哀は振り向いた快斗をじっと見つめてお礼を言った。

 「ありがとう」
 「いや」
 「………本当に驚いたわ。工藤くんが離さないなんて」
 「俺も驚いた」
 「そう」

 新一が何かを掴んで離さないなんて聞いたことも見たこともない。何かに縋るような細い指が痛々しい。それは無意識に危険信号を出しているのだろうか?
 哀は思う。
 それに、誰にでも縋る訳でもあるまい。
 いくら通りすがりに助けてもらっても、あの新一が身を簡単に委ねて寝ているとも思えない。自分たちが人の気配に敏感すぎる部分があることを知っていた。
 それは危機意識のなせる技であり、磨かなければ生き延びてこれなかったのだ。

 「なあ、随分顔色が悪そうだった。どこか悪いのか?」

 快斗は素知らぬ振りで、主治医である哀に新一の状態を聞く。

 「健康状態は今のところ何とも言いがたいわね。彼、体力ないから………」

 身体が元に戻ってから免疫力が低下して無理がきかない。暑さにも弱くて、体力が弱っているのだろうか?でも、こんな風に倒れるなんて………。

 (私は何も聞いていないわよ、工藤くん)

 哀は眉を寄せる。
 主治医である自分に何を黙っているのか。
 体調が良くないなら、定期検診に言ってくれないとわからない。自分がわかることは限られいてるのだから。

 「じゃ、俺、帰るわ」

 そんな眠る新一を見つめる哀に快斗は切り出した。
 いつまでも関係ない自分がここにいるのはおかしい。例え新一の側にいたくても、これ以上の介入は、良くない。離れがたい気持ちを振り切り背を向ける。

 「上着はどうするの?」
 「また、取りに来る。それまで預かっておいてくれ」

 頭だけ振り向いて、それだけ言う。

 「わかったわ。本当に、ありがとう」
 「いいや、人として当然だろ」

 哀の初対面との態度の違いに、快斗が苦笑して去ろうとした、その時。

 「う………ん?」

 新一の瞼がゆっくりと開かれる。瞳を瞬かせて、目覚める。

 「………あ、れ?」
 「工藤くん、気が付いた?」
 「え?………と」

 哀が急いで側により覗き込むが、まだ状況を理解していないのか、自分がどこにいてどうなったかわかっていないようで、ぼんやりしている。

 「貴方、倒れたのよ。全く、困った人ね」
 「………そうか。ここ、博士んち?あれ?」

 苦笑と安堵を込めた哀の言葉に新一は頷いて、身体を起こそうとする。それに哀は手を添えた。

 「ああ、急に起きあがっては駄目よ」
 「………俺どうなったんだ?」
 「あの人が、助けてくれたのよ」

 首をひねる新一に哀が後ろに立つ快斗を指す。
 新一が部屋の扉の前で佇む快斗を見つめた。一瞬、時間が止まったかのように無言で二人は見つめあった。

 「ありがとう………」

 その後、新一は感謝を込めてお礼を述べる。
 
 (ああ、意識がなくなる時に支えてくれたのが、彼なのだ………)

 貧血なのか、目の前が真っ暗で何も見えなくなって身体に力が入らなくて、まずいと自分でも思った時に、手を差し伸べてくれた人。新一は真っ直ぐにその人物を見つめた。

 「いいや。意識が戻って良かったよ」

 快斗は一旦扉にかけた手を離し、新一が座るベットに戻ってくる。

 「工藤くん、彼の上着を離さなかったのよ。だから彼がここまで来てくれたの。高木刑事が申し訳ないって言ってたわ」
 「え?………あれ?本当だ」

 新一が我に返り自分の手を見ると学生服を掴んでいた。
 途端に赤面して耳まで赤く染める。
 まさか、自分が何かを掴んで離さなかったなんて………。そんなこと思いもしなかった。自分で信じられない。助けてくれた初対面の人間に再び迷惑をかけてしまった。

 「ごめん………、本当に、ごめん」

 新一は申し訳なくて俯いた。

 「いいよ、気にしなくて」
 「でも」
 「それより、がんばり過ぎじゃないの?高校生探偵、工藤新一さん」
 「俺を、知ってるのか?」

 新一は名前を言われて不思議そうに首を傾げた。そんな無自覚な反応をする新一に快斗は苦笑する。

 「あんたを知らない人間なんてそうそういないと思うけど?俺は黒羽快斗、よろしく」
 「黒羽、快斗?」
 「そう、あんたと同じ高校3年生」
 「そっか。………ありがとう、黒羽」

 新一は教えられた名前を呼んではにかみながら、再びお礼を言う。笑みを浮かべる新一が眩しくて快斗はそういえば、と軽口を叩いた。

 「あんた、軽すぎ。もう少し、食った方がいいよ」
 「………へ?」
 「そこらの女の子の方が重いんじゃない?50キロないだろ?」
 「あのな………!」

 新一は向きになる。体重が軽い、と言われて嬉しい訳がないのだ。只でさえ、体力は落ちているわ、元に戻ってから身体が成長していないのではないかと不安なのに。

 「でも、ないだろ?」
 「………」

 黙ってしまい唇を尖らせる新一に快斗は笑う。
 そして、ベットの上にある自分の学生服の上着を掴むと、

 「じゃあな」

 と手を上げて快斗は部屋から今度こそ去った。






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