「月までの距離」4




 それからしばらく経った後。
 綺麗な月夜の晩のことである。

 今日も新一は眠れなかった。
 窓から差し込む銀色の月光を横目に見つつ、ちっとも読み進まない本を片手にもっている。ふう、とため息を一度付いて、気分転換に珈琲でも飲もうかとベットから立ち上がる。
 そして、確認するように一度だけベランダに面した窓に視線を向けた。
 なぜなら、今日はひょっとして、と予感があったから。
 今日は久しぶりにKIDの予告日だったから。
 ちょうど1週間程前に届けられた予告状から、今夜美術館に特別展示される宝石が獲物だとわかった。内容は新聞社にも取り上げられたし、難易度もそれほどではなかったから、新一のところまで依頼が来ることもなかった。
 
 コツン、コツン。
 
 まるで新一の願いを聞き届けたような窓をノックする音が響いた。
 新一は急いで近付いてカーテンを引く。そこには白い魔術師が立っていた。がらりと窓を開けると硝子越しでない本物のKIDがいる。

 「………」

 新一は無言で見上げた。
 そんな新一を穏やかそうに目を細めながら見つめ、KIDはいつものように優雅に一礼する。

 「お久しぶりです、名探偵」
 「………」
 「入ってもよろしいですか?」
 「今更、何いってやがるっ」

 呆れたように、顎で入れと伝える。

 「では、失礼します」

 律儀にそういいながら部屋に入り後ろ手に窓を閉め、久しぶりに新一の部屋を見回した。
 どこにも変わったところはないだろか?視線をめぐらすと枕元に本が置いてあることから読書していたことがわかる。
 新一はベットに腰を下ろして、そんなKIDをじっと見つめた。
 以前逢った時とどこにも、あくまでも外見は変わりがないように見える。もっとも、易々と自分に弱みになるようなことを彼が見せるとは思えなかったが。

 「………随分顔を見せなかったが、ドジでも踏んでたか?」

 新一は顎を上げて、伺うように目を細める。それをKIDは何事もないように受け流す。

 「……ご想像にお任せしますよ」
 「想像ね。お前がそういうんなら、そうなんだろうな」

 KIDはさあ、と小さく首を傾げ鷹揚に肩をすくめてみせる。そんな仕草や言葉から、多分自分の推測が正しいであろうと新一は確信する。何か、危険な目にでもあい怪我をしたのだろう………。自分の前にこんな風に現れるけれど、彼は世界に名だたる怪盗なのだから、危険が付いて回ることは至極当然なのだ。新一は内心吐息を付く。

 「私のことはもう、よろしいでしょう。それより名探偵、最近睡眠不足と伺いましたが、大丈夫なのですか?目の下にクマができていますよ?」
 「何でそんなこと知ってやがる?」

 新一は鋭く睨む。

 「私は何でも知っていますよ」

 さも当然と言わんばかりに、にっこりとKIDは微笑む。
 そんなKIDに眉を寄せ、新一はふんと鼻を鳴らす。

 「ほら、顔色が悪い」

 KIDは一歩近づき、新一の頬に白い手袋越しの指を伸ばして、心配そうに覗き込む。

 「別に、お前が気にすることじゃない」

 新一はその手をぴしゃりと払い横を向く。

 「名探偵?」

 気に障ったのだろうかと、問うようにKIDは新一の名前を呼んだ。
 言外にどうしましたか?と心配を覗かせて。そんなKIDの心使いは痛いほど新一にはわかる。伊達に幾夜と過ごしていない。
 しかし、新一はKIDを真っ直ぐ見てはいられなくて視線を避けたまま、小さな声で呟いた。

 「どうせ、気まぐれに飽きたんだろ?」
 「え?」
 「探偵の家に来る泥棒なんておかしいもんな」
 「何を言ってるんですか、名探偵?」

 KIDはいきなり理解できないことを言い出す新一に面食らう。

 「いつの間にかお前の存在に慣れて、いるのが当たり前になって………。でも、俺をそんな風にしておいて、お前は単に気が向いた時来るだけで。俺はこの時間が気に入っていたけど、続けるも止めるも、所詮お前の気持ち次第だ」
 「何ですって?」

 KIDは事態が飲み込まない。新一は何を言い出したのだ?

 「………お前に振り回されるなんて、もう、ごめんだ!」
 「ちょっと、名探偵?」

 KIDは新一に手を伸ばそうとする。が、その手が触れるのを嫌がるかのように、ぴくりと身体を緊張させると、ベットから立ち上がりKIDを見ないで部屋を横切り扉の前まで行く。

 「………もう、ここには来るな!」

 細い背中が拒絶を示す。KIDはその背中を見つめながら、途方に暮れる。

 「俺の安眠、返しやがれ!」

 最後は心からの叫びを訴えるようにKIDに投げつけて、部屋から出ていった。

 「名探偵………?」

 茫然自失とはこのことか、という様子でKIDはその後ろ姿を見送った。


 「ええ………と?」

 どういうことなんだろう?
 つまり?
 
 自慢の頭脳は上手く動いてくれなくて、頭を懸命に働かす。

 『どうせ、気まぐれに飽きたんだろ?』

 誰が………?それより、気まぐれって何?
 自分が名探偵を飽きる訳がないのに………。

 『いつの間にかお前の存在に慣れて、いるのが当たり前になって………。』

 新一にとって、自分のKIDの存在が当たり前になっていた?
 自分といる時間を気に入ってくれていた?
 この一時が終わるも続くもKIDの気持ち次第だと思っていたの?それで新一が振り回されていると感じたの?

 『俺の安眠、返しやがれ!!』

 新一の安眠に繋がっていた?KIDの存在が?
 ………最近、睡眠不足の理由って、それ?
 KIDが来なかったから?
 まさか?本当に?

 しかし、どう考えてみても、結論はそれしかない訳で。
 KIDは、急いで新一を追いかけた。

 (………どこにいる?)
 
 階下に降りてすぐ居間を覗くがいなかった。新一がいる場所といえば、自室か居間か、書庫か………。
 
 (………父親の書斎か?そう言ってたな、落ち着くって)

 KIDは気配を探りながら部屋の当たりを付けて、そっと音を立てないように重厚な扉を開ける。中は当然明かりなど付いていなくて、月の光が僅かに差し込むだけの暗闇が広がっている。しかし夜目のきくKIDはすぐに新一を見つけた。
 部屋の隅にうずくまって、顔をふせている。

 「名探偵………」

 気配を消していないから、新一もKIDが書斎に来たことがわかっただろう。KIDは近寄ると跪いて目線をあわせ、そっと驚かせないように、呼ぶ。

 「………」

 新一は答えない。

 「名探偵?」

 そっと手を伸ばす。びくりと揺れる身体。

 「何だよ………」

 顔を上げるが、不安そうに唇を噛みしめている様が痛々しい。
 そして、甘美な思いをも呼び起こす。
 自分のことで、これ程に気に病んでくれる。彼に影響を与えることができる。
 たとえ、辛そうな痛々しい表情でも自分が彼からそれを引き出すことができるのだ。
 これほどの、歓喜があるだろうか?
 その美しい透明な瞳が自分のために揺らめくのだ。強い瞳の名探偵。でも、同時に弱さも脆さも持っていて、僅かに覗くその彩が彼を一層美しくする。
 もっと、見たい………。
 暗い思いだとわかっていても、それを止めることはできない。けれど、もちろん彼には笑って欲しい。それが一番の願いなのだから。
 KIDは安心させるように、穏やかな目で新一を見る。

 「誤解を解いておこうと思いまして」
 「………?」
 「気まぐれでここに来ていたのではありませんよ。名探偵に逢いに来ていたんです」
 「探偵に?」
 「違います。もちろん探偵としての貴方も敬愛していますが、私は工藤新一に逢いに来ていたのですよ?」
 「何で?」
 「逢いたいからです、貴方に………」

 新一はKIDを見つめ、幼い子のように首を傾げる。

 「俺に?何で?」
 「………聞いて、後悔しませんか?今更なしにはできませんよ」

 言う気のなかった本心。
 けれど、伝えてもいいのだろうか?
 言ってしまったら、後には戻れない。なしになどできない。それでも?

 「そこまで言うなら、ちゃんと言えよ」

 KIDの懸念など新一は知らずにせかす。

 「では、約束して下さいますか?返事を下さい。私は、受け入れるか、二度とここには来るな、以外に答えはいりませんから」
 「受け入れるか、二度とここには来るな?」
 「ええ」
 「………わかった」

 新一は頷いた。そんな条件本当は飲みたくないが、KIDはとても大切なことを言おうとしていることだけ理解できたから。
 KIDは新一を真摯に見つめて口を開く。

 「貴方が好きだからですよ」
 「………好き?」
 「はい」

 肯定するKIDを新一は呆然と見つめた。

 (好き………って?俺をKIDが好き?)
 
 「誰よりも、何よりも貴方が好きですよ」
 
 新一は目の前にあるKIDの瞳を見つめた。今までにないほど近い。覗き込めば片眼鏡に隠された瞳の色さえ見える距離。
 優しさと切なさと愛おしさを込めた新一を見守るような瞳の彩。
 
 (あれ………?)

 何か、既視感を感じる。
 今更KIDに既視感ともおかしな話なのだが、どこかで見たことがあるような瞳。
 新一はどこだろう?と思考するが考えがまとまらない。折角わかりかけてきたのに、睡魔で意識が途切れそうになる。
 新一は思わず、目の前のKIDのマントをぎゅっと力を入れて握りしめて、離さないようにした。
 この場から彼が消えないように。
 自分の意識を僅かでも留めておけるように。
 しかし、1週間分の寝不足のツケは否応なく新一を襲う。KIDは眠れる存在なのだから、これほど傍に彼がいるのだから、その反応は当然のことなのだ。

 「お前………、だっ、………ろ」

 そして、新一は睡魔に負けた。そのまま力が抜けてKIDにもたれかかる。
 残念ながら、絞り出した声は途切れてしまいKIDには新一が何を言ったのかわからなかった。しかし、苦笑しながらいきなり眠ってしまった新一をKIDは柔らかに抱き留める。
 答えは途中だけれど、眠れないといっていた新一が眠れるならいい。
 そうでないと、体力が落ちるし、体調も悪くする。
 KIDは新一を軽々と抱き上げると、2階まで運び、ベットにそっと降ろした。

 掴んで離さないマントを身代わりに置いて。

 KIDはすやすやと眠る新一の前髪をかき上げて、額に口付けを落とす。

 「お休みなさい、名探偵。また、返事は伺いに参りますよ」

 そうしてKIDは夜空に飛び立った。
 後にはカードと薔薇の花を残して。





 翌日の、江古田高校正門前。
 またもや、新一は立っていた。門に背を預けて青い空を見上げていた。

 「よう、黒羽!」
 「工藤?」

 快斗が門まで走ってくると新一は晴れやかに笑って快斗を迎える。快斗は、一体どうしたんだ?と疑問に思う心の動揺を隠していた。「また、工藤くんが来ているの」という情報を聞きつけて居てもたってもいられず、教室から駆けてきたのだ。
 先日お礼に来た新一と一緒にケーキを食べて工藤邸で過ごして、友達だって伝えて。
 その後はまた、来るからと言って別れた。
 携帯の番号も交換したし、一度電話もした。
 「黒羽快斗」としての自分はそれが全ての事実だ。
 急に新一が江古田まで来る必要性はどこにもない。
 
 (だったら、その答えは………?)

 行き着く答えは一つだけ。

 「返事をしに来たんだ」
 「………」
 「まず、返す」

 新一は快斗に紙袋を差し出す。
 中身は確認しなくてもわかりきっているだろう、真っ白のマント。
 自分の身代わりに置いてきた、怪盗KIDのマント。
 返事をしに来た、という新一は快斗の正体を確信している………。この一瞬は、まるで死刑宣告を受けるような気分だろうか?
 期待してはいけないと思いつつ、期待してしまいたくなる矛盾した気持ち。
 自分の傍で眠ってしまう新一。
 KIDの存在に慣れてしまった、という新一。
 果たして、その答えは?
 
 「昼も夜も、俺に安眠を寄越せ」

 新一は一息できっぱりと言い切った。

 「………」
 「傍にいて俺を眠らせろ」
 「………」

 それは、究極の殺し文句である。
 ただ、本人がわかっているかが、問題だ。
 快斗としては、好きな相手と眠るのに、安眠だけを与える訳にはいかない。それだけでは、すまない。

 「工藤。………それって、さ。一緒に寝ろってことだよね?」
 「寝ろとは言ってない。傍にいろって言ってる」
 「傍にいたら、工藤は眠るんだよね?」
 「そうだな。………確かに俺だけ寝るのは悪いな。じゃあ、一緒に眠るか?」
 「………俺、好きって言ったよな?」
 「ああ」

 新一は頷く

 「意味ちゃんと、わかってる?」
 「わかってるけど?」

 きょとんとしている新一に快斗は唸る。そして、徐に新一の手を引いて耳元に囁く。

 「俺は、無邪気な寝顔を見せられて、そのままでは済まない。我慢なんてできない。絶対、工藤に手を出すよ?好きってそういうことだよ?」
 「………」
 「それでも、いいの?」

 快斗は念を押す。
 傍にいられれば幸せだったけれど、もうそれだけでは満足できないから。

 「………お前の努力次第じゃねえか?」

 新一は耳を赤く染めて、横を向いた。

 「じゃあ、大いに努力させてもらいましょう」
 「勝手にしろ」

 楽しそうに快斗が宣言するので新一は照れて素っ気なく返す。


 「なあ、これからひとまず昼寝なんて、どう?」

 快斗は笑って、新一を誘う。

 「ああ、いいな」

 新一はにこやかに微笑んで承諾した。


 
 きっと、気持ちよく眠れるだろう。
 彼の傍なら安眠が送れるはず。

 
 もう、新一が眠れない夜を過ごすことはないだろう。



                                         END




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