「月までの距離」1




 新一は自室のベランダから、月を見上げる。

 闇夜に浮かぶ満月。

 空には雲もなく、その美しい月を隠すものは何もなかった。
 遮るものなく注がれる銀色の月光は乳白色といおうか、それとも青白色と言えばいいのか、その空気と季節と天候によって様々な色に変える、神秘的な彩。
 満月なのか三日月なのか、それによっても表情を変える月。
 夜の支配者。
 それは古から言われるように女神であるのか。

 幼い頃は暗闇が怖かった。ただ、その闇が怖かった。
 見えないどこかに、何か潜んでいるような気がして、自分を見つめているようで、一人でいられなかった。広くて大きな洋館の夜中、真っ暗な中を一人では歩けなかった。
 眠る時もどこか安心できなくて。目を閉じるのが、怖い。それでも幼い子供は睡魔に負けて眠りにつく。
 両親が側にいてくれて、絵本を読んでくれて。手を握ってくれて。
 そうしてやっと安心して目を閉じる。

 古に明かりが蝋燭や行灯であった時、物の怪がいると思われていた。闇に潜む物の怪や妖怪。人間が作り出したお化けである空想の想像物。
 それは歴然と闇が存在したからだ。人間の領域ではない区別された空間の闇や森。
 人は太陽が昇れば起きて働き、月が出れば眠りにつく生活を送っていた。
 至極当然のこと。

 しかし、現代。
 この東都で本当の意味の暗闇など、もうどこにもないのではないだろうか。
 色とりどりのネオンが照らす街。24時間、人間は人工の明かりの下で働いている。
 喧噪とサイレンと。いつもどこかで犯罪が起きる。刹那的な犯行、快楽的犯行、怨恨の殺人事件………。
 今日も、そんな闇夜をかける泥棒が活躍している。

 白い闇。

 彼を見る度新一はそう思う。
 怜悧な冴えた雰囲気も漂う冷涼な存在観もどこか人間として稀薄だ。だから、『月下の奇術師』や『世紀末の魔術師』と呼ばれても違和感がないのか。
 純白のスーツに翻るマントと目深に被るシルクハット。青いシャツに赤いネクタイ。今時珍しく、片眼鏡を付けている。その出で立ちと夜空を自由に翔る姿はどこか人間離れしている。
 そんな怪盗が、いつからか、探偵の住まう館のベランダに降り立つようになった。
 最初に現れた時は驚いたものだ。

 なぜ?
 どうして?

 探偵の前にわざわざ姿を現すなど、馬鹿にしているのと思った。
 掴まることなど考えもしない顔で、こんばんは、などと笑う怪盗に絶句した。
 幾度となく、対決したことがある相手。
 宝石を取り戻しても、というかKIDから返却されて、彼を捕まえることはできない。
 変装の名人で声音は多数を極めて、見破るのは困難。
 捕獲不可能な怪盗KID。

 一体ここに何をしに来た?と疑問に思った。
 怪盗が探偵である自分に何の用事があるのか。目的があるのか。

 けれど彼は何をするわけでもなく、ここに留まる。
 予告日の仕事帰りにひょっこり顔を出すこともあれば、下見の日なのか何なのか、全く関係ない日にも現れる。
 最初は戸惑ったし警戒していた。何かあるんじゃないかとKIDの行動一つ一つに目を配り、意味があるのかと疑った。盗聴器でも付けて警察の動向を探るとか、情報を仕入れるのかと邪推した。が、そのうち気にするのが馬鹿らしくなって放っておくことにした。

 自分は1課担当であるから、KIDの必用な情報は持っていない。それに高校生である探偵の自分の行動を探っても何も出てきはしない。なのに、警戒するだけ、神経の浪費だ。
 KIDが現れると、一緒に他愛もない話をしたり、今日はいい月夜ですね、と月見してみたり、無言でただ側にいてリラックスしたり、珈琲なんて飲んでみたり。
 普通の友人同士が過ごす時間と変わらない。
 これが探偵と怪盗でなかったら、なんら変わりないだろう。
 
 ………とても不本意であるし、信じたくないのだが、どうした訳なのか、その存在になれてしまった。

 傍らにいて、何もしなっくても邪魔でなくて。
 無言でただ座っているだけでも、気詰まりでなくて。
 漂う優しい雰囲気に怪盗が側にいるというのに、うっかり眠ってしまうこともあった。
 新一が警察に呼ばれていない時、疲れて眠ってしまっている時は自分が来たという証拠にカードと薔薇が机に置かれているのが常だった。
 いつだったか、風邪を引いて寝込んでいる時などお見舞いと称して果物をもってきたこともある。どうして自分が風邪を引いている事実を知ったのか、定かではないが………。
 
 怪盗と馴れ合うなんて、そんな気、欠片もなかったのに。

 いつのまにか。
 知らない間に。
 それは、とても自然に。

 傍にいた。





 それは、月夜。

 怪盗KIDは『月下の奇術師』。
 月がある夜現れる、それが世の人々の認識。
 守護に頂く月がなくては話にならないし、彼には殊の外その月光が似合う。
 決めごとなどないはずであるけれど、月下の幻は月の女神があってこそだと思われた。
 もっとも、それは人の偏見なのか自身の誇りであるのか定かではない。
 
 世の中に知れ渡った怪盗KID像は鮮やかにビックジュエルを盗み、その後盗んだ宝石を返却する。純白の衣装にマントで空を飛び、慇懃無礼な態度で誰も傷つけない紳士。
 警察も新聞社も彼の情報は一欠片しか知らない。
 正体は誰なのか、男であるのか女であるのかでさえ、本当のところわからないのだ。

 が、そんな彼には誰も知らない習慣が一つある。
 
 
 閑静な高級住宅街にある木々に囲まれた大きく立派な洋館のベランダに降り立って、コツンコツンと二度ノックするのが合図。
 幾度となく通う名探偵の住まう窓。
 KIDが唯一認めた高校生探偵である彼は『日本警察の救世主』と呼ばれている。
 それだけでも、KIDにとっては相容れない相手。
 加えて世界屈指の推理作家の父と元大女優である母を両親にもつ彼は、その容姿も頭脳も飛び抜けていた。
 誰をも惹き付ける美貌と希有な存在感。真実を見抜き暴き出す瞳と頭脳と観察力。
 光の中にいる、彼。
 
 
 彼の影がカーテンに映り、がらりと大きな窓が開く。
 顔を出すのは工藤新一、この部屋の主。
 KIDはにこやかに微笑みながら敬愛をこめて、優雅に一礼する。

 「こんばんは、名探偵」
 「KID」

 新一は、若干眉をひそめるが、いつものことと肩をすくめて背を向ける。その後を付いて、KIDは部屋の中に入った。
 

 今では、KIDに気付けばこんなふうに窓を開けて中に入れてくれる。
 まさか、こんなふうに受け入れてくれるだなんて思いもしなかった。
 最初は、賭だった。
 警戒されて当然。
 不審に思われて当たり前。
 何が目的なのか、と探偵の顔で聞かれた。
 素直に嘘などなく、「名探偵に逢いに来た」と言えば、首を傾げて不思議がっていた。
 それでも、情報を引き出す訳でもなく、からかう訳でもなく、ただ逢いに来る自分に慣れていったのか、受け入れてくれた。
 
 ただ、新一の顔が見たくて………。
 それが、KIDの最たる目的である。
 疲れて眠っている時は起こすのが忍びなく、穏やかな寝顔を見て帰る。
 カードと薔薇で自分が来たことだけど伝えて。存在を置いて。

 そのうちKIDの存在に慣れてくれたのか、一緒にいても警戒なく疲労で寝てしまうこともあった。
 警察の要請で連日多忙な名探偵。電話で呼び出されて現場に駆け付け事件を追う。真実を追い求めている時は他のことなど見えなくなる。ただ突き詰める。睡眠も食事も何もかも忘れて傾ける姿は儚いまでに強くて痛々しい。
 信念が、謎が、真実が彼を動かす。
 
 時には、辛そうな日もある。
 KIDの存在をその場において、無言でベットに丸まっている時もある。
 何も言えない自分は、傍にいるだけだ。慰めも問いも必要ない。ただ、存在を許されていることだけで、いい。きっと、弱っている姿など新一は誰にも見せたくない。それでも、自分は彼の邪魔にはならない………。
 
 珈琲などいれて他愛もない話もする。
 最近の天気や行事、ニュース。最近関わった事件で思ったこと。学校であったこと。
 新一の語る話に耳を傾ける。
 自分のことは語れないけれど、思ったことや考えたことを伝える。普通に感じることなら、互いに話せるから。
 新一の好きなミステリの本や映画などなら時間が経つのも忘れるほどだ。
 
 穏やかに過ぎる時間は何よりの至福。
 傍らにいられれば、それだけで満足。
 相容れない、側にも寄れないと思っていた相手と共に過ごす時間。
 大切で、大切で。壊したくなどない。
 誰にも邪魔させずに、二人でいたい、月夜の奇跡。
 月が魔法をかけるのか、その瞬間だけは誰よりも近くにいるような錯覚をKIDは覚える。

 そして、今日も訪れる瞬く間の時間。
 何を話そうか?
 どんな顔を見せてくれる?
 貴方のことなら、どんな些細な事でも知りたい。
 自分に見せてくれる表情や感情は、心の奥に閉まっておく秘密。
 
 だから、今日も傍にいさせて………。






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