「コトノハ 3」



 


 目の前に現れるなんて、詐欺だ……。
 探偵はそう勝手なことを思う。
 怪盗を残し、自宅に駆け込んだ探偵は自室のベッドに身を投げ出した。そして、目を瞑り体をぎゅっと縮こまらせる。
 
 
 予期せぬ出会いは、ただ恐怖だ。
 どしていいのか、さっぱりとわからない。
 自分の気持ちに猶予を与えようと思った側から本人が現れたら意味がない。
 突きつけられるのだ、彼に対する己の恋情が。
 見たくなかった本心が、まざまざと身体中にいっぱい広がり苦しくて溢れそうになる。決して出すことなどできないというのに。
 想いで窒息する。
 胸が心臓が痛くて、堪らない。
 触れられた腕から怪盗の熱が伝わってまるで血管に移されたように体中を巡り心臓まで届く。その熱は己に流れる血液まで沸騰させ、頂点に達すると急激に冷めた。
 怖いのだ。
 だた、怖い。
 「私は、ただ。先日のことをお聞きしたかっただけなのです」と聞いた怪盗。
 深く後悔した。
 不用意に伝えた言葉に。
 もっとも、無自覚で勝手に言葉となってしまったのだから己にとってもあれは驚愕であったのだけれど。
 もう、逢えない。こんな自分では逢うことができない。
 ただの探偵として振る舞えるまで、怪盗に逢うことはやめよう。彼の問いに何も答えられない自分は彼に不愉快な思いをさせるだけだ。
 探偵はふと起きあがり、電気を付けていない暗闇の部屋に届く月光を眺める。カーテンの引いていない窓枠の影が部屋に落ちている。
 今、彼はどこにいるのか。
 酷い対応をしてしまった己に呆れ、怒っているかもしれない。
 彼に軽蔑されたり、嫌われるのはとても辛いけれど、誠意ある態度が取れっこないのだから、選択の余地はない。
 キスして欲しいなどという、台詞のどこを弁解できるのだろう。
 嘘だ、揶揄ったのだ、巫山戯たのだ、適当に理由を並べてみても誰が納得してくれる?
 いくらなんでも、あの怪盗はそこまで甘くない。戯れ言をと不遜に笑いそうだ。騙されてなんてくれない。
 ああ……。
 嘆いたらいいのか、悲しんだらいいのか、落ち込んだらいいのか複雑な心境で心底困る。
 自分の感情よりなにより、怪盗の方に申し訳なさが募る。
 探偵は、大きな吐息を付いて項垂れた。
 
 
 
 翌日目を覚ました探偵は、着の身着のまま寝入ってしまったことを知る。身体がどこか怠いせいで、ぼんやりとしているため、シャワーでも浴びようと着替えを持って階下まで降りた。
 手早く熱いシャワーを浴び、ラフなシャツとジーンズに着替えてリビングへ向かいキッチンで珈琲の準備をする。
 その間に、新聞を取りに行こうと玄関から出て朝の光に目を細めながら門までに歩き郵便受けをみる。数種類の新聞が入っている。それを取り出し中を覗く。昨日はポストの中を確認していないから、入っているかもしれない。
 すると、ダイレクトメールや両親宛の手紙に混じり、消印のない白い封書があった。
 宛名は名探偵へとなっている。裏返すと怪盗のマークが入っていた。
 探偵は、動きを止めてその封書に見入った。すぐに玄関へ駆け込みリビングで鋏を用いて封書を開く。中から現れたのは1通のカード。ただし、暗号だ。
 何で?
 どうして?
 探偵の頭の中はその言葉でぐるぐると回っていた。
 日本警察の救世主と呼ばれる程の、迷宮なしと誉れ高い素晴らしい頭脳がこの時ばかりはうまく機能していなかった。
 やっと我に返った時は、折角コーヒーメイカーでいれた珈琲が冷めている頃だった。
 冷めた珈琲を啜りながら、ひとまず暗号を解くことにした探偵はしばらくリビングのソファに座り己の思考に深く沈んだ。
 無言の時間が過ぎ、やっと解読した文章を読み返して探偵はまたまた悩んでしまった。眉間に深いしわを刻み、首を傾げる。
 これは、どういう意味なのだろうか。
 犯行の予告状ではない。
 探偵宛の、招待状である。
 今夜、10時。あのビルの屋上で待つ。
 行ける訳がない。折角怪盗が譲歩してくれても、探偵はそれに応じることはできない。
 探偵までをも気遣う優しさを持つ怪盗が、こんな時は妙に切ない。
 己の不審過ぎる態度に、再度機会を与えてくれたのか。そのままでは、納得できなかったのか。わざわざ暗号まで作って、探偵の関心と興味を引いて。
 なんてお人好しなんだろう。
 苦笑するしかない。苦いものが口中に広がる。
 ごめんな、でも、俺は行けないんだよ。
 探偵は届かない謝罪を込めてカードを指先で何度も撫でるように触れた。
 
 


*******************




 眼下にそびえるのは、不夜城都市。人工の明かりが灯る暗闇のビル達。
 ビルが立ち並ぶこの付近は、夜ともなると明かりが落ち人気もなくなる。まして屋上tもなれば、巻き込むビル風だけが吹き付けるむき出しのコンクリートがあるだけの、無機質で寂しい場所だ。
 その場所に、白い影が立っていた。
 白いスーツに長いマント、シルクハットまで全身を純白に染めた、巷に有名な怪盗だ。青いシャツに胸元を飾る赤いネクタイだけが色を添えている姿は闇夜の中、くっきりと浮いて見えた。
 一人ただ、立っている怪盗は両手をズボンのポケットに入れ、わずかばかり顎を上げ動かなかった。
 片眼鏡が風に揺れ月光に煌めく様が目を引くが誰も見る者はいなかった。もし、見る者があったなら、怪盗が無表情の中、苛立っていることがわかっただろう。
 
「来ないか……」
 怪盗のつぶやく声は、沈んでいた。
 まさか、とは思っていた。来ない可能性は、それでも低かったはずだ。
 己が名探偵と認める彼は、恐ろしくプライドが高い。謎が好きな彼は真実を見つけることが生き甲斐のような人間だ。怪盗の暗号でできた招待状を無視するような人間ではない。挑戦を受け暗号を解き、……彼が解けないとは到底思えない……この場所に訪れるだろうと予想した。が、彼は来ることを拒んだ。
 暗号の答え合わせだと、時々怪盗の前に現れていた彼が自分と逢うことを拒絶した。
 それが、信じられない。
 確かに、昨夜の彼はいつもの探偵ではなかった。怪盗に謝った。忘れてくれと、嫌な思いをさせてごめんと。
 その顔が見たこともないほど苦しげで弱々しくて、追い掛けられなかった程だ。
 あんな探偵は知らない。いつも見る瞳は意識の強さが滲み出る透明で綺麗な色をしている。間違っても弱々しいなどというイメージはない。探偵はいつも存在自体が強烈に輝いているのだから。
 指定した時間を1時間過ぎても、探偵は現れない。
 割に律儀な探偵が、遅刻とは考えにくい。もう、どれだけ待っても来ないだろう。だからといって、すべて諦めてしまうのも納得できない。このまま放置などできはなしない。
 延々、この理不尽に悩まされる疑問とはっきりしない不快感を引きずるなど、怪盗には我慢できない。
 探偵から逢おうという気になってくれないと、無理矢理昨夜にように目の前に現れても逃げられるだけだ。逃げないよう捕まえても、緊張され怖がられるなど、反対に言語道断だ。
 怪盗は、白い手袋に包まれた人差し指を唇に当てて、思考に耽る。しばらく目を閉じて思考に沈み、再び目を開けると口元に笑みを刻んだ。
「泥棒は盗むのが仕事であって、謎を解くのは探偵の仕事なんですがね」
 
 怪盗が取った方法は、諦めず招待状を送ることだった。
 
 
 
 
 
 次の日も、暗号で招待状を出した。探偵は来なかった。
 その次の日も、暗号で招待状を出した。また、探偵は来なかった。
 その次の次の日も、暗号で招待状を出した。またまた、探偵は来なかった。
 
 暗号は毎回試行を凝らして、作る。
 解く時、楽しめるような、わくわくするような。挑戦したくなるような。
 少しでも難解度が低いと、怪盗のやる気が疑われそうなため、気を抜かずに複雑で難解で捻りを加えた暗号を作った。
 暗号で指定する場所は様々な場所にするようにした。時間は夜の9時から12時くらいの間。
 1週間ほど送り続け、怪盗はあることに気づいた。
 探偵は、事件がひとたび起こればそれに時間を費やして家に帰らないこともあるのだ。まして、事件中に暗号を解く時間などある訳がない。暗号と殺人事件とどちらが重いかと聞かれれば誰もが殺人事件だと答えるだろう。事件を優先しない探偵など名探偵ではあり得なかった。
 怪盗はそれからは、週に2度ほどに減らした。
 その際、カードに白い薔薇を添えるようになった。贈るという意味が理解してもらえるように。挑戦している訳ではなく、無理に呼んでいる訳でもない。ただ、招待したのだと、伝わるように。どうか、来て、欲しいと怪盗が願っていることがわかるように。
 
 そんなある日。怪盗が早朝探偵の郵便ポストにカードと薔薇を入れようと近づくと、ポストの上にあるものに目を引かれた。
 
 リボンが結ばれている花だ。それも前日怪盗が贈った薔薇だ。
 探偵が突き返すつもっりなら、カードも共に置いてあるだろうが、リボンを付けて薔薇だけこんな目立つところに置いてあるということは、怪盗にメッセージが込められているのだろう。リボン付き花は、多分……。
 怪盗はその薔薇を掴んむと、己が今日持って来た薔薇だけをポストに入れた。カードはもう必要ない。
 満足そうに口の端を上げ微笑むと怪盗は早朝の街を歩いていった。
 






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