「コトノハ 2」



 


 何でいるんだ……?
 探偵は、心の中でそう絶叫した。
 
 

 いつものように、目暮警部に呼び出され事件を解いた帰り道。それ程遠くではなかったので、車で送るよという気遣いを断って普通に電車で帰途についた。
 太陽が沈み夜になってだいぶ経つ。もうあと2時間程で日付も変わるだろう。日中は天気が良ければそれ程でもないが、夜はかなり冷え込むようになって来た。
 もうすぐ、冬がやってくるだろう。
 空気が張りつめる、怜悧な温度と湿度が好きだ。
 だから、季節では冬が一番好きかもしれない。空気が澄んでいるせいで星も綺麗にくっきりと見える。
 ふと、仰ぎ見れば、頭上には丸い月がある。
 月の明るさのために、星は等星の高いものしか認められないようだ。
 その月の輝きを見て、探偵はため息を付いた。
 月を見れば、月下の奇術師といわれる彼を思い出す。思い出せば、先日の夜が記憶に甦り、自分を居たたまれなくする。動悸がする。羞恥に顔が赤らむ。すべて、連鎖反応だ。
 あの時、なぜ自分は。
 そう何度も思った。
 口からこぼれた言葉は取り返しは利かないが、自分から逃走経路へ向かわない限り逢うこともない。そうすれば、いらない醜態を晒さなくてもいいだろう。
 第一、どうしていいかわからない。
 自分の気持ちを認めるとか、認めないとか、そういう問題ではない。
 今は、考えたくない。逢いたくない。
 そっとしておいて欲しい。
 真っ向から向き合う勇気が時分にはまだないのだ。
 いずれ、認めなければならなくなっても、今くらい現実逃避してもいいじゃないかと己に向かっていい訳する。
 それに、自覚しても、別段変わることなどないのだ。
 自分から、近づかなければ、あの怪盗とは二度と顔をあわすことはないだろう。よほど事件が絡んでいない限り、絶対だ。
 
 ゆっくりと自宅に向かって歩く。
 誰が待つ訳でもないから、急ぐ必要もない。寒いといえば、寒いえれど我慢できないほどじゃない。なんとなく、こんな風に歩いていた方が気が紛れる。
 自分の部屋で悶々と思考に耽るなんて、想像しただけで暗い。夜中、ふらふら散歩しながら頭の中を整理する方が有意義だ。
 人間は歩いている時、外界に注意を向ける部分と己の中に向ける部分とを分けて活用できると思う。外界は事故にあわないように、どこからか不審なものが襲ってこないか、帰る道を間違えず歩いているか、等々。それだけ最低限の注意力を残しほかの全てを思考へ回す。考えることはとりとめもないことが多い。一つ思い浮かべて、どうだろうと考えても、すぐに次にことが頭に浮かんでくる。そうして、普段頭の引き出しの中に入れ込んでおいたものを整理整頓して別のファイルに作りなおすのだ。
 必要なこと、調べなければならないことはメモして。
 いらないものは、頭から削除する。
 そうすれば、己の心も見えるだろう。きっと。
 
 それなのに。そうして、自分に猶予を与えるつもりだったのに。
 白い陰が目の前に降り立った。
 重力を感じさせない夜飛ぶ、白い鳥が舞い降りてきたのだ。
「こんばんは、名探偵」
 そうして、シルクハットを軽くあげてみせる。
 探偵は、予想もしなかった人物の登場に、息を止めた。
 今まさに、頭に描いていた意中の人。逢いたくなくて、考えたくなくて、それでもいつの間にか自分の思考を埋める人物。
 探偵は、知らず、一歩後ずさる。
 
 このまま、逃げてしまいたい。
 敵に後ろを見せるなというが、別に怪盗は敵じゃないし。殺されもしないし。
 自分のプライドも矜持も高いけれど、こと恋情に関しては、逃げ腰でいいと思ってしまう。というか、お願いだから、来ないで欲しい。
 何で?何でいるんだ?
 探偵は、唇を噛み締めながら顎を引き、怪盗を見つめた。視線を逸らしてしまいたい。が、逸らしたら、負けだ。
 負け、負けって何だ?
 負けてもいいじゃないか?逃げられるなら、それでもいい。
 あまりのパニックに完璧に思考おかしくなっていることに探偵は気が付かない。
 
 無言で、怪盗を睨むように見つめる探偵を怪盗は眉を寄せながら、見ていた。
 



**********************




 目の前には、自分を散々惑わした探偵がいる。
 あの日から、あれは何だったのかと考えない日はなかった。
 結局自分を悩ませるだけ悩ませて、勝手に帰ってしまい、去り際に忘れろと言い捨てた。
 そんな、勝手なことがあるか?
 許せるはずがない。
 後になればなるほど、ふつふつと怒りが沸いてきた。それと同時に、探偵の言葉を真剣に考えた。
 探偵は、揶揄や、冗談を言わない。まして、嘘も。
 互いの立場は相反するものであるが、現場で探偵が警備に加わっているならともかく、逃走経路の屋上にふらりとやって来た場合、探偵は怪盗を捕まえようとしない。
 捕まえるなら現行犯がもっとうなのかどうか、定かではないが。
 反対に、目を細めて「今日もまんまと成功だなあ。怪我もない」と言う。怪盗が無事であることが、まるで良かったことのように。
 怪盗の孤独を知っている人だ。
 月下の仮面を見透かす人だ。
 探偵であっても、立場が違っても、人間として唯一の人だ。
 怪盗という仮面と虚無と、日常の一個人としての虚偽と嘘。
 自身の本当など、もうどれかわからなくなる時がある。いつの自分が正しい己なのかと。
 真実を見つけることができる探偵なら、己が知らず作っている仮面も虚偽も全てを透かして見つけることができるかもしれない。
 
 好きか、嫌いかと聞かれれば、好きだろう。
 好かれているというなら、嬉しい。それは本当だ。自意識過剰ではなく、嫌われていると思ったことはないが、それでも、好意の度合いというものはある。
 
 キス、して欲しい。
 
 その言葉だけが、探偵が望んでいることであるのか、今だ判断できない。
 探偵の真意は?
 
 結局、待っていられなくて探偵の前に現れた。
 探偵と怪盗の接点は以外に少ないのだ。特に、1課専属の探偵は。怪盗専属の探偵と違い、探偵がふらりと近づいて来なければ一切の接触は絶たれる。
 
「こんばんは、名探偵」
 紳士らしくシルクハットを軽く上げて挨拶をする。だが、探偵は息を飲んでらしくなく一歩後ずさった。そして、自分を睨み付けている。
 探偵が拒絶している。今までなかったはずの見えない壁がある。
「名探偵?」
「……」
 繰り返し呼んでも無言で見つめるだけだ。思わず距離を縮めてその顔をよく見て問いつめたくなり、一歩近づくと、彼は一歩後ずさる。また、一歩近づくと、二歩後ずさる。距離は一定に保たれたまま、埋まらない。それが歯がゆくて、不愉快になる。
「名探偵、なぜ、逃げるのですか?」
 強い口調で一気に距離を縮めて彼の両腕を掴んだ。
「……っ」
 探偵は驚いたように瞳を見開き、びくりと身体をふるわせた。触れた腕から探偵の緊張が伝わって来る。
 驚かせようとか、怖がらせようとか思っていた訳ではない。ただ、逃げないで欲しかっただけなのに。
 どうして、こんなに緊張されなければ、ならないのか。
 今まで、彼にこんな態度を取られたことはない。その態度が自分を振り回していて、気に入らない。自分が悪いようではないか。己は、先日のことを聞きたいだけなのに。
「離せ」
 小さく探偵が呟く声が耳に届く。
「嫌ですよ。離したら逃げるでしょう?」
「……」
 視線を外し俯いて捕まれた腕を見ている探偵は、ひどく困惑しているようだった。
「名探偵……」
「逃げないから、離してくれ」
 信じられない程弱々しい声音で懇願する探偵に、罪悪感が忍び寄る。
 虐めたい訳じゃない。ただ、探偵に逢いに来たかった。言葉の意味を知りたかった。
 怪盗は腕の力を弱めて探偵を解放する。
 探偵は、すぐに身を引き怪盗との間に距離を作った。そして、唇を噛みながら怪盗を見上げる。その眼差しには、困惑、恐怖、懇願という複雑な色が見て取れた。
「すみませんでした」
 あまりの反応に謝罪した。
 探偵は小さく首を振る。
「私は、ただ。先日のことをお聞きしたかっただけなのです」
 真摯に訴えた。それなのに、探偵は蒼い瞳に絶望的な色を滲ませて苦しげな表情を浮かべた。
 どうしてそんな顔をさせてしまうのかが、わからない。
 どうして、と聞きたいのは自分の方だ。
「……忘れろって言っただろ?」
 絞り出された声は、平坦なものだった。探偵の心情が伺えない。
「確かにお聞きしましたが、納得できません」
「納得しろよ」
「名探偵!」
 再度手を伸ばすが、探偵はそれより早く数歩離れた。
「忘れろ。忘れてくれ。……俺が悪かった。嫌な思いさせてごめん。謝るから、だから……」
 途切れ途切れの言葉は、余計に怪盗を困惑の淵に追いやる。
「ごめん」
 そう言い捨てて、探偵は走り去る。
 逃げないと約束したのにと思うが、追いかけることもできない。
 訳がわからなくて、怪盗は大きなため息を付いた。
 



 
 



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