「コトノハ 1」





「キスして欲しい……」
 

 屋上に吹くビル風に漆黒の髪と服をはためかせながら、蒼い瞳が見つめている。
 月が照らす白い顔がやけに闇夜に浮かび上がっていた。
 
 その探偵の言葉に、ポーカーフェイスを信条としている怪盗は珍しく表情を覗かせた。
 何事にも動じなく、平常心を忘れずに。
 が、目の前にいる探偵を見つめたまま怪盗は自分の動きを止めた。
 衝撃、といえばいいだろうか。
 自分の聞いた言葉はひょっとしたら、幻聴なのではなかろうか。
 そうでなければ、おかしい。
 探偵が、そんな台詞をいうはずがない。
 自分がいくら敬愛している名探偵でも、互いの間にはそういったものは存在していなかったはずだ。
 そんなそぶりを見たことはない。
 まさか、彼は探偵の偽物か?
 見る限り、偽物には見えないけれど。
 自分の逃走経路に佇んでいることから、本物であると証明しているようなものであるし、自分が認めた彼と似た人間などそうはいない。
 
 それにしても、なぜ?
 
 まさか、からかっているのか?
 探偵に利点はない。
 誰かとの賭け?
 探偵がそんな俗物だとは思えない。
 だったら、事実?
 あり得ない。
 事実だったとしても、普通は好きだという方が先だ。キスして欲しいなんて、順序が逆だ。
 探偵が怪盗を試しているのか?
 自分が、そういわれれば、動揺すると思って?どう対応するか観察するために?
 
 以前、彼に言われたことがある。
 鉄壁のポーカーフェイスは疲れないか、と。からかいを含んだ軽い口調で。
 丁寧に見せて慇懃無礼だよな、と。そうじゃないお前は知らないから、らしいっていえばらしい。最も素直で好青年なお前は想像できない、と笑った。
 思い出した、その澄んだ彩。
 取り巻く空気が、和らいだ。
 思えば、怪盗をそう理解する人間など彼だけだ。犯罪者だからと否定しないで、実は性格悪いと苦笑してくれる人。
 敬愛と確かな親愛。
 そんなモノを持つ、真逆にいる人。
 何を考えているのか、今晒している綺麗な横顔からは何も伺えない。
 怪盗は、どうしていいか困惑して言葉が出てこない。
 
「帰る」
 すると、探偵は怪盗から視線を外しため息を一つ付くと、背中を向けて非常口へ向かって歩き出した。
「え?名探偵」
 怪盗は、急にきびすを返した探偵を呼び止めた。が、探偵は振り向きもしない。
「名探偵、名探偵!」
 引き留めようと、手を伸ばし足を進める。
 探偵は怪盗のせっぱ詰まった声に足を止めると、小さく呟く。
「忘れろ」
 そして、ひらりと後ろ手に片手を振ると非常扉に消えた。
 
「……」
 怪盗は、何も言えずに消えた扉を見つめた。
 何だというんだろうか。
 自分は判断を誤ったのだろうか。
 返答できず戸惑い考えてしまったのが、悪かったのか。
 忘れろ、とは何か。
 あの言葉は、消えはしない。
 そう簡単に忘れられるはずがない。
 こんなに自分を惑わして。
 
 怪盗はこれ見よがしに大きなため息付くと、マントを翻して夜空に飛び立つことにする。
 探偵の残した謎は、いずれ解くことにする。
 こんままにはしない。父親から継いだ怪盗の名が廃る。
 
 覚えていて下さいよ、名探偵。
 
 怪盗はシルクハットを目深に直し、夜空に飛び立った。
 
 
 その姿を銀色の月だけがひっそりと見ていた。
 
 
 

*********************




 
 
「キスして欲しい……」
 

 それは、衝撃的に口からこぼれた。
 
 
 
 自分でも信じられない台詞だ。
 なぜ、いきなりこんな言葉が自分から出るのだろうか。
 己のことなのに、わからない。全く理解できない。
 
 知らない間に、自分はおかしくなったのか?
 二重人格とか、夢遊病の毛があるとか。
 自分じゃない人格が勝手に出てきて、話しているとか?
 
 違う。
 違うと、さすがに、わかる。
 口から付いた言葉は簡単に消去できない。
 目の前には、自分の驚くべき言葉に衝撃を受け硬直してしまった怪盗がいる。
 変化は伺えないが、どこか変だ。
 普段ポーカーフェイスを貫いているのに、彼が纏う空気が怜悧なものから戸惑いを含んだものに変わっている。
 
 何も言わない怪盗。
 それは、そうだろう。自分でもそうする。
 いきなり、あんなことを言われたら、困る。どうしたらいいか迷う。
 逃げたくなるかもれいない。
 
 なぜ、自分はこんなことを言ってしまったのか。
 自分は彼にキスして欲しかったのか?本当に?
 気づいていなかっただけで、心の底に眠っていた願望だったのか?
 怪盗に?探偵の自分が?
 
 認めるには、相当の覚悟がいる。
 
 決して、彼は嫌いじゃなかった。
 犯罪を犯しているというのに、彼には爽快感が共にあった。
 人を殺さないという点と予告状を出し軽快に盗んでもそれを持ち主に返す点、それが大衆から受け入れられている理由だ。
 暗号は探偵の自分を楽しませ、唸らせるモノばかりで。
 まるでショーのような手口は月下の奇術師という名前に相応しい。
 奨励できないけれど、探偵としても己は認めていたのだ、彼を。
 
 それなのに。
 ただ、いつも通り暗号を解き逃走経路を推測して。白い羽を広げて怪盗がビルの屋上に降りてくる姿を見ていたら。溜まらなくなった。
 重力を感じさせない優雅な身のこなしで、マントを翻し目深に被ったシルクハットを直し、片眼鏡越しに怜悧な瞳で自分を認める。
 今までだって、何度でも同じことを繰り返した。繰り返して来たのに。
 どうして、今日は違うのだろうか。
 喉からせり上がって来る、熱い何かがある。
 心臓が鼓動を打つ音が大きく聞こえる。
 震える手先を止めるのに必死で、それ以上言葉を紡げない。
 ただ、怪盗を視界に納め見つめているだけで、身体中に熱が行き渡る。
 
 が、どれほど待っても、何も怪盗は口にしなかった。
 待つ、とは言え己には長い時間だったと感じたが、一瞬だったのかもしれない。
「帰る」
 やっと探偵はそれだけを吐き出した。
 怪盗から視線を振り切るように外しため息を一つ付き、背中を向けて非常口へ向かって歩き出す。
 返事など待つ意味はないのだ。
 自分でも、どうしていいかわからないのに。
 己はさっさと立ち去るべきだ。
「え?名探偵」
 怪盗が己を呼び止めたが、振り向くことなどできない。
「名探偵、名探偵!」
 引き留めようとする声が嫌にせっぱ詰まって聞こえた。だから緩慢に足を止めると、小さく呟いた。
「忘れろ」
 忘れて欲しい。
 自分の言った馬鹿馬鹿しい言葉など、なかったことにして。
 
 そして、怪盗の姿を見ずにひらりと後ろ手に片手を振ると非常扉の中に入り込む。背中に怪盗に視線を感じながら。
 
 すべて、月が見せた幻だったら、良かったのに。
 己に隠されていた気持ちなんて、気づきたくなかった。
 全部、忘れられたら、どんなにいいか。そう祈りたい。
 
 



BACKNEXT