愛の劇場 「華の嵐」2




 「悪魔の囁き」というものを、はじめて聞いたと快斗は思った。
 突然いなくなってしまった想い人。
 どんなに探しても、時計台で待ってみても新一は現れなかった。
 いざ探そうとしても、新一が何者であるか快斗は全く知らなかったから探しようがなかった。名前しか知らない自分をその時ほど後悔したことはなかった。ただ逢えれば良かったから聞かなかったのだ。新一は言いたくなさそうだったし‥‥。
 見つからなくて。逢えなくて。
 時間が過ぎた。
 そして。
 焦がれて、焦がれて、心が壊れるかと思ったその時。
 見かけたのだ、新一を。
 新一は高級そうな車の後部座席に乗っていた。相変わらず綺麗なままで更に美しさに磨きが掛かったようだった。隣に誰かいるようだが快斗から見えなかった。
 そして、車道を挟んだ快斗の前で新一は降りてきた。誰かの手にその手を委ねて。
 二人が寄り添うように入っていったのは、劇場で今宵初演の演目のため招待客が詰め掛けていた。
 快斗は思わず、傍に居た人間にあれは誰か、と聞いた。
 新一とその隣にいる男は誰なのか、と。
 あの美しい人は誰?と聞くのは、ごく普通のことで変な勘ぐりをされず簡単に口を開いてくれた。
 親切な人は快斗に教えてくれた。そのどん底へ突き落とす驚愕の事実を。
 そこから快斗は新一が何者なのか、財政難の家のため政略結婚だったという噂や夫のキッドの人となり等を調べることができた。どこに住んでいるのか、どんな生活をしているのか。その美しい笑顔と姿を見れば幸せそうだと推測できた。
 しかし、新一の隣に立つ男はなぜ、自分と瓜二つの顔をしているのか。同じ顔をしているのに、どうしてこれほど立場が違うのか。
 羨む心は、止めようがなかった。
 どす黒く歪む欲望のような、自分で制御できない獣のような感情が沸きあがってくる。
 それを、押しとどめていたはずだった。それなのに、悪魔は自分に囁いたのだ。
 欲しくはないか、と。あれが、欲しくはないのかと‥‥。
 あの男に成り代わりたくはないか、と。お前にはその資格が与えられているのだと、と。

 快斗は孤児だった。赤ん坊の頃に孤児院の前に捨てられていた。
 物心付く頃には、自分は誰も頼ることなどできないのだと自覚していたから懸命に働いた。幸い手先が器用だった事から手品師の見習いになった。それに感謝こそすれ、誰かを恨む気持ちなどなかった。もう、今更だったからだ。生活が貧しくて子供を育てることができなくて我が子を捨てる親は多かった。
 しかし、立派な黒い服をまとった男が自分の前に現れた。
 お前はある資産家の子供だと。跡継ぎ問題で家がもめないために、双子の自分は生まれたばかりで捨てられたのだと言う。資産家の跡継ぎ問題はどこの家でも壮絶でお金のためなら血で血を洗うのだという噂のような知識しか快斗にはなかった。それが、自分の身に降りかかるなど誰が想像するだろうか。
 黒服の男は、快斗にその座を奪えといった。当然の権利なのだからと。
 お金が欲しかったのではなかった。
 名誉が欲しかったのではない。
 ただ自分の無力を嘆いていたから、その力が欲しかった。
 新一を再び自分の元に呼び戻すための、圧倒的な力が‥‥。だから、男の誘いに乗った。 その瞬間から、自分は過去を捨てたのだ。


***


「はじめまして、兄上」
 快斗は真正面から初めて対面する同じ顔をした兄を冷たい目で見つめた。
「‥‥兄上とは、‥‥貴方は誰ですか?」
 不審そうに探るように自分を見るキッドに快斗は冷笑する。
「貴方の弟ですよ」
「弟?弟だとういうのですか?まさか」
「本当です。この顔が何よりの証拠でしょう」
 全く同じ顔の自分達。違うのは髪形くらいか。そして、感情や育ちがにじみ出る表情。持ちえる者と持ち得なかった者の差だ。
 快斗はその事実を心中笑い飛ばす。
 そんな差なんて、すぐに埋まる。そして、蹴落としてやるのだ。
 誰かをこれほど羨んで憎んだ事はなかった。憎悪で黒く塗り潰される己を誰も止めることはできないだろう。この欲望が満たされるまで。ずっとずっと。
「信じられませんか?」
「いや‥‥」
 首を振って否定するキッドに快斗は口元を吊り上げた。
「貴方とは双子だったようです。俺は生まれたばかりで捨てられたらしい。跡継ぎは一人で良かった‥‥」
 キッドも今までその事実は知らなかったが、あり得ないことではないと結論付ける。もう死んでしまった父親はキッドから見ても冷酷でそれくらいしそうだった。
 しかし、目の前に存在する弟は何を求めてここまで来たのだろうか。
 嫌に、冷静だ。
 懐かしさも肉親の情も何もない。
 その語る口調が楽しげでもある。もっとも、目は笑っていなかったが。
「‥‥それは」
 捨てられた快斗に言う言葉はない。捨てられなかった自分との差は多分に紙一重だったのだろうから。兄と弟とは生れ落ちた瞬間の違いだけだ。
「今更どうでもいいことです。でも、俺にも権利はあるでしょう?貴方と同じだけの権利が」
「何が望みですか?」
 酷薄に微笑む快斗にキッドは感情を抑えた声で問うた。
「‥‥全てですか。貴方の持っているもの全て」
 快斗は歌うように望みを告げた。
 まるで残酷な宣言のように。
「すでに会社の株は押さえさせてもらいました。貴方との立場は今のところ半々だ。‥‥精々、俺に奪われることを楽しみにしていて下さい。今までのうのうと生きてきたのだから、それくらいいいでしょう?‥‥そうそう、忘れないように言っておきます。全てとは貴方の綺麗な奥方ももちろん入っていますから」
 快斗はキッドに波紋を投げかけた。
 心の泉に毒の入った液体を一滴。それだけで、十分だ。
 目を見張ったキッドをさも楽しそうに観察して、快斗は声を立てて笑いながらその場を後にした。


***


「キッド?」
 新一は顔色の良くないキッドを覗き込む。
 キッドは最近考え事が多い。どこか遠くを見つめてため息を付く姿は憔悴している。
「なあ、キッド」
 心配を覗かせて新一が上目遣いで見つめてもキッドはわずかに瞳を歪めて新一から視線を外す。
「何か、あったのか?俺には言えないこと?」
 仕事のことは自分にはわからないから、何も手伝うことなどできないけれど。
 キッドがこれほど憔悴している姿をはじめて見た。
「何でもありませんよ、新一」
 優しげに微笑まれても、新一にはキッドが何か隠していることがわかった。それが何かまでは特定できなかったけれど、何か新一の知らない重大な何かをキッドは隠している。それが心に影を落としている。それくらいは夫婦なのだからわかるのだ。伊達に一緒に生活はしていない。
 自分はそんなに頼りにならないのだろうか。
「嘘ばっかりだ。お前、俺に心配もさせてくれない」
 新一はキッドの胸にもたれかかる。
 程よく筋肉の付いた身体はいつも新一を支えてくれるけれど、自分だって彼を支えたいのだ。
 愛していると言ったのは嘘ではない。
 最初に好きだった人は違う人だけれど、新一は確かにキッドを愛していた。
 キッドが愛を囁いてくれる度、自分も小さな声でだけれど伝えているはずなのに。
 キッドに頼られるには自分の信頼は至っていないのだろうか。
 心の裡を自分には見せてくれないのだろうか。
 何でも言って欲しいなんて贅沢は言わない。誰にも言えないことくらい人間ならあるだろう。
 けれど、今回のことは大事に見えた。そうでなく、どうしてキッドが自分から目を反らすのか。こんなことは初めてだった。
 いつも真っ直ぐこちらが恥ずかしくなるくらい優しい瞳で自分を見てくれるのに。
「キッド‥‥」
 新一は悔しくて唇を噛みながら夫の名を呼んだ。
 自分がどれだけキッドを愛しているか伝わっていないのだろうか。
 キッドが悲しめば自分も悲しい。キッドが笑えば自分も嬉しい。キッドが苦しめば自分も同じように苦しいのだ。
「新一‥‥。すみません、貴方を蔑ろにしているつもりはないのです。信頼していない訳でもありません。ただ。まだ、言えないだけなんです。それまで、待って下さいませんか?必ずお話しますから」
「わかった」
 真摯なキッドの言葉に新一は頷いた。
 どこか苦しげなキッドをこれ以上自分が困らせたくはなかった。
 キッドはそんな傷ついたような新一を両手でしっかりと抱きしめて、想いをこめる様に白い額に口付けた。
 キッドの表情が複雑そうに歪められていたことを目を閉じていた新一は知らない。


***


「そろそろ決着を付けたいね、兄上」
 快斗は乾いた瞳で冷酷に笑う。
 愉快で仕方ない、と言わんばかりだ。
「どこまで、味方に付けたのですか?」
 会社の株を半分握った快斗は、その後残った株主達を取り込みにかかった。
 キッドに付いていた、信頼していたブレーン達が次々に寝返る。
 どうやってそんな事をしたのかと思っていた。中には寝返るとは思えないくらい信用と信頼を寄せていた補佐役までいたのだ。
 彼は苦しそうにキッドに言った。
 申し訳ありません、と。仕方がないのだと。
 そうしないと、家族が危ないのだと言うのだ。自分だけの責任だったらどこまでも付いて行く一存だけれど、やはり家族は代え難いものがある。その男の妻の実家に圧力をかけたようで、破産寸前に追い込まれたのだそうだ。子供も襲われかけた。
 もう、残された道はなかった。
 男は涙を堪えるように、歯を食いしばり拳を握ってキッドに頭を下げた。
 キッドは自分の弟だという快斗の手段を選ばない極悪な人間性を見て、ぞっとした。
 憎しみを心に刻んでいる男だった。
 弟とは思えなかった。同じ顔で背格好も何もかもそっくりなのに、どうしてこんなに心は離れているのだろうか。自分に憎悪を向けるのか。
 殺したい程キッドを恨んでいるのは、なぜか。
 捨てられたからか。
 孤児として両親の愛を与えられずに育ったからか。
 同じ権利を持つはずが、兄だけ与えられて何不自由なく暮らして来たからか。
 それとも、それとも。
 
 (彼の愛する者を奪ったからか?)
 
 キッドは新一と快斗の繋がりを調べた。それほどの繋がりはないのだが、知り合いではあったらしい。時々逢っていたようだ。しかし、キッドが邪推するようなものはなかった。それはキッドだとてわかる。
 新一を疑ってなどいない。
 自分を愛していると言った新一の言葉は真実だ。しっかり自分に愛情を注ぎ、信頼していてくれるとわかっている。心配して、気遣って、新一は立派なキッドの妻だった。
「どこまでって、知ってるでしょう?ほとんどだよ」
 快斗は獲物をいたぶる獣のような顔をする。
「‥‥酷い方法を使う。なぜ、そこまでするのですか?私が憎ければ私を痛めつければいいだけでしょう」
 部下の腹心の辛そうな顔が目に浮かぶ。
「そんなに簡単に楽になんてしてあげないよ。少しずつ少しずつ、兄上から大切な人を奪っていくよ。怖いだろう?最後は一人だ」
 嘲るように声を立てて笑う弟は、狂っているのかもしれない。
 その暗い思いは、果たされたからといって潤うことができるのだろうか。飢えている心は、満足するのだろうか。
 キッドはこうまでしてしまった責任は、捨てた父にあるのか、知らないで育った兄である自分にあるのかわからなかった。
 それでも、この快斗をこのままにしておく訳にもいかなかった。この憎しみを受けるだけでは許されないだろう。
 会社の責任者として、新一の夫として。
 キッドは快斗を真っ直ぐに見返して、強い瞳ではっきりと告げた。
「私は、負けませんよ。覚えておいて下さい」
 そして、快斗ににこりと笑うと背中を向けた。
 残された部屋では快斗が忌々しげにキッドの背中を睨み付けていた。



 



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