愛の劇場 「華の嵐」1




 約束の場所で一人待つ青年がいた。
 その街一番の名所である時計台の下で、1日中彼は待っていた。
 人待ち顔で、ずっとずっと立っている彼に誘いをかける者もいたが彼は全く他の人間を相手になどしなかった。
 彼は、想い人を待っていた。
 初めて逢ったこの場所で今日こそ好きだと告げようと、決めていた。
 だからいつ想い人が現れるかという緊張と、顔を見る事ができる幸せで自然と顔が緩む事を抑えるのに苦労していた。
 しかし、約束の時間を過ぎても想い人は現れない。

 (何かあったのだろうか‥‥?)

 時間に遅れてくるなんて、今までなかったのに。
 途端に心配になる。
 が、彼は想い人の連絡先を知らなかった。知っているのは名前だけ。
 それでも、どれだけ綺麗な瞳を持っていて笑うと可愛いか。時々素直になれない時があって憎まれ口を聞いてしまう事があったり、甘えるのが苦手で俯きながら小さく言葉を続ける耳が赤かったり。
 何も知らなくても、全てが愛しかった。それで十分だと思った。
 約束の時間をどれだけ過ぎただろうか。

 やがて雨が降り注いで来た。
 雨足は強くなり彼を濡らした。
 彼はずぶ濡れになりながらも頭上に広がる灰色の空を見上げてため息を付く。その拍子に前髪から雫が落ちる。

 (新一‥‥)

 彼は、想い人の名前を心の中で呼んだ。


***


 快斗‥‥、ごめんな。
 本当に、ごめんな。そして、さようなら。
 今まで、ありがとう。

 時計台の影からその姿を見つめて別れを心で新一は告げる。

 新一と快斗は数ヶ月前にこの時計台で出会った。この時計台はある時間になるとからくりが動く仕掛けになっていて、たまたまそれを目にした時隣にいた相手だったのだ。感嘆しながら頭上を眺める新一に快斗が話しかけた。
 こういうの、好きなの?と。
 楽しくて好きだと答えると彼は簡単な手品をしてくれた。新一は面白くて楽しくて時間を忘れて手品に見入った。しかし、その時はあまり時間がなくて後日逢って再び手品を見せてくれると約束して別れた。
 それ以来、逢うようになった。
 親しくなるのに、逢った回数なんて関係がなかった。
 互いに惹かれていた。
 約束の場所は毎回時計台。
 今日も二人は約束していた。が、新一は約束を守れなかった。
 なぜなら、経営の苦しくなった家のために、援助を条件にある資産家の人物に嫁ぐことになったからだ。両親は断ろうとしたのだが、新一が自分一人で助かるなら構わないと話を受けたのだ。工藤家は公爵家の血を引く古くからの旧家だが、残念ながら現実は厳しく財政難に陥っていた。
 新一は両親の苦しむ顔を見たくなかった。
 最初から自由に恋愛できるとは思っていなかったから、覚悟していたことだった。
 それが早いか遅いかの違いだ。
 快斗に逢えなくなるのは辛いことだけれど逢えただけ良かったのだと思った。
 
 (いつまでも覚えているから、思い出にしていつまでも忘れないから、だから、ごめんな。快斗‥‥)

 新一は雨の中自分を待っていてくれる快斗に、そっと別れを告げた。


***


 やがて、縁談がまとまってある資産家にやってきた新一はそこの主人と初めて顔をあわせた。
「はじめまして、新一」
 にこりと笑って優しく手を伸ばす青年の顔を見て新一は硬直する。
 驚愕のために声が思うように出ない。
「‥‥しん、いちです」
 震える声でそれでも自分の名前を口にする。
 その青年の顔はとても端正で言い方は悪いがお金のために問答無用で嫁いで来た相手にしては上等過ぎた。資産家のハンサムな青年なら相手は選びたい放題であろう。
 これが実は暴君だというならまだ話はわかるが、見たところ大層優しそうで性格も問題なさそうだった。何より声が穏やかで心地いい。
 緊張して屋敷を訪れた新一の心が和むほどだ。
 なぜ彼は自分など選んだのだろうか、と新一は疑問に思う。
 しかし、問題はそこではなかった。
 彼の顔は別れを心に決めた快斗とそっくり同じ顔だったのだ‥‥。
「私は、キッドといいます」
「キッド?」
「ええ。これからよろしく、新一」
「はい」
 新一は握られた手の暖かさを感じながら頷いた。
 何を言っても、もう引き返せなかった。たとえ、快斗と同じ顔をしていてこれからずっと顔を見るたび思い出すのかと不安に思っても。
 今日から、この大きな屋敷が新一の住む家でキッドが夫だ。
「何も心配することはありませんから、どうか気楽になさって下さいね」
 優しい笑顔を向けられて、罪悪感が芽生えたが新一は胸の中で押し殺した。


 そうして、時間が過ぎてみればキッドはとても良い夫だった。
 何より、優しい。
 この上なく新一を大切にしてくれた。
 政略結婚みたいなものだったのに、確かに彼から深い愛情を感じた。
 後で打ち明けられた話によると、新一が珍しく出席した夜会で一目惚れしたらしい。新一はあまりそういった場が好きではなかったから、本当に偶然だったのだ。学友の誕生日でお祝いに行ったのだが、新一はそれほど広間にいなかった。ほとんどの時間は控えの間で久しぶりにあう友人と話をして過ごしたのだから。留学していた彼女は大層逞しくなっていて驚いたものだ。
 仕事柄夜会に出席する事が多いのに、見たこともない印象的な人がいると驚いたのだとキッドは語った。新一を見た時は、心臓の動悸が激しくてどうしようかと思いました。すれ違った瞬間、引き止めて話しかけようと考えたけれどできなかったんです、と気持ちを晒されて新一は赤面した。
 それから新一をどこの誰かか調べて、独身である事に喜んで正式に縁談を申し込んだのだという。
 だから、結婚の話を受けてくれた時は天にも昇る気持ちだったんですと、新一と逢う時訳もなく緊張していたんですと、言われれば新一の心も動いた。
 キッドは性格も人柄も文句ないほどの人物で、好きにならない訳がなかった。
 気持ちが傾いていくのを感じながら、いつしか新一はキッドの事を愛するようになった。

 嵐の前の静けさとはこの事だと後で思うくらい、つかの間の幸せだった。


***


 それは、夜会でのことだ。
 その宵も夫婦同伴である夜会に出席していた。
 夫であるキッドは主催者である主に挨拶をしているため新一は一人立っていた。キッドの妻として認知されているが、それでも思わず欲してしまう程新一は美しかった。凛とした立ち姿は咲き誇らんばかりの百合のようだ。大輪の百合は見る物を虜にする香りを知らずに撒き散らしていた。それでも、キッドの立場からか新一に無闇に話しかける者はいなかった。
 しかし、今日は違った。
 新一へと踊るような足取りで一人の男性が近寄って来た。目の前にできた影に、新一はうつむいていた顔を上げて目の前に立った男性を瞳に写す。
 新一はあまりの事に驚愕した。美しい目を見開いて男性を凝視する。
 ここにいるべき人でない、二度と逢う事などないはずの人物が目の前に存在していた。
「こんばんは、はじめまして」
「‥‥‥」
 にこりと愛想良く笑う顔は以前と同じものなのに、どこか違って見える。
 底の見えない目。
 自分の大好きだった無邪気でこちらまで元気になる笑顔が消えていた。

 (‥‥何があったんだ?快斗)

 新一は胸中呟く。
「とてもお美しいですね、旦那様が羨ましい」
「‥‥ありがとう、ございます」
 この場は知らない振りをしなくてはならない事くらい理解できる。初対面の振りくらいいくらでもする。
 自分は快斗との約束を破ったのだから。それについて、罵られても仕方ない。なぜ、来なかったんだと問い詰められても何も言えない。

 (‥‥でも快斗、何でそんな偽者みたいな笑顔なんだ?)

 自分が知らない間に、彼に何があったのかと新一は不安になる。
「失礼」
 そんな新一の心中などわかっているのかいないのか、快斗は新一の手を優雅に取って、その白い甲に唇を落とす。
 快斗の唇が触れた瞬間、手が震えてしまった。
 新一は快斗に気づかれないように心を自制して、動揺を隠す。
「それでは、また」
 快斗はにこりと笑って去っていった。その後姿を無言で見つめる事しか新一はできない。
 快斗の後姿が消えて、知らず息を止めていた事に気づきほうっとため息が漏れる。しばらくして、やっと安堵できた。
 新一はざわめく胸を押さえる。

 (こんなことって‥‥。どうしてだ?快斗)

 新一は痛ましげに目を歪ませ、唇を噛んだ。
「どうしました?新一」
 キッドが戻ってきて新一の横に立つが、新一の様子がおかしい事に気づく。
「何でもない」
「本当ですか?ずいぶん、顔色が悪いですよ」
「平気」
 平気と言っても決して平気ではなく無理をしがちな新一をよく知っていたキッドは肩をすくめる。
「今日は、もう帰りましょう」
「でも‥‥」
「挨拶は済ませましたから、今日の役目は終わりましたよ。新一の体調の方が心配です」「‥‥ごめんな」
「あやまらないで下さい。心配するのは当然でしょう。貴方は大切な私の妻なのですから」
 キッドは新一の背に手を回して帰途に付くため広間から廊下に出る。
 新一もこの場に居続けることが苦痛でキッドの好意に甘えることにして素直に身体を預けていた。

 そんな二人をそっと見つめる人物がいることを二人は知らなかった。





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