「3. 魔法が溶ける」 初めて見た瞬間、心が乱された。 あれ以来、誰にも心を動かされることなどなかったというのに………。 ただ美しいだけの人間などたくさん見てきた。 顔の美醜など、皮一枚のことだと思ってきた。 それが、これはどうだというのだろう? 圧倒的な美の前では人は平服するしかないのであろうか。 身体の内側から光り輝く、人を惹き付けて止まない美貌。 その黒曜石のような瞳が微笑む様が、脳裏に焼き付く。 彼女はビックジュエルであるエメラルド『森林の姫君』の持ち主だった。 その名前は有希。 KIDの事を詳細に知っている風である。 本物のカードを見たことがあり、本物そっくりに変装をして潜り混むことを知り、人は傷つけないと自信ありげに答えた。まるで、KIDに出逢ったことがあるかのような、そこに信頼さえ伺えたことは錯覚だろうか? そして、彼女はビックジェルを月に翳した。 その上、憂いを帯びた声で、「………何も私には見えませんわ。KIDはこのビックジュエルに何を見るのでしょう」と言った。 彼女は「パンドラ」を知ってるのか? それとも、KIDが月に翳す行為を知っている? ただ美しいだけの少女ではありえない。 彼女は何者なのか。 警部をあっという間に床に沈める程の腕前と公爵が漏らした博士ですから、という言葉。KIDの興味と好奇心と不安と猜疑心と全ての感情を煽る。 確かに、そこにいるのに幻みたいな存在。掴み取れない夢みたいな人。 どうしたって、KIDの奥底にある記憶を呼び起こす。 小さな名探偵。 KIDが認める唯一の存在。 彼女にその姿を重ねていると思ったその矢先に、胸に刺さった彼女の言葉。 公爵に言っているのに、まるで自分に向けられたようだった。 『ねえ、シャルルおじさま。似ているだけでは所詮偽物でしかないのですよ?どれほど母に似ていても、おじさまが想う母の代わりにはならないのです。そして、私もそう………』 似ているだけでは、所詮偽物。 代わりにはならない。 誰も代わりになどならなくて、似ているだけでは偽物だと彼女は言うのだ。 そう言う真実を語る本人自体が、正しく『本物』であると証明している………。 KIDは確かめねばならなかった。 彼女はKIDが秘書のレオンに化けていることを予め知っていた。それなのに、何も言わなかった。その真意はどこにあるのか。だから、宝石を盗むだけではなく、彼女自身を宝石ごと浚った。もっとも、エメラルドがパンドラではないことは、彼女がすでに証明していたけれど。「私には、何も見えない」と彼女は言っていた………。それは、疑うことなく真実。 有希はKIDが浚うことも予期していたのか、全く抵抗を見せなかった。それどころか、協力的ですらあった。 彼女も宝石を狙う怪盗であるKIDと対面したかったのだろうか? 「失礼します、マドモアゼル」 室内が煙幕で覆われたと同時に有希の耳元で声がすると、ふわりと抱き上げられた。それがKIDであるとわかっていたため、有希は抵抗もせず逆に落ちないように洋服にしがみついた。 KIDは有希を抱えたまま白い翼で窓から飛び立つ。しばらくして飛び立った先、城内にある森の中の四阿に降り立った。 そっと降ろされて地に足を着け有希はほっと息を吐いた。 KIDに抱きしめらたままの身体は彼の腕が背中にゆるやかに回されている。 有希は腕の中でKIDを見上げた。 その腕を離し難く想っているKIDは彼女の奥底を覗き込むような瞳を見て動揺する。自分の内面が彼女には見えているのではないだろうか………。彼の中の葛藤が全てさらけ出されているような錯覚に陥る。 KIDは瞳を歪めた。 「貴方は、何者でしょうか………」 「………」 「私のことを知っていらっしゃる?貴方は宝石を月に翳した。その意味することをご存じなのですね?」 質問ではなく、確信に満ちた確認である。 「KIDが月に宝石を翳すことは、割合知られていることですわよ?………だって、私は探偵ですもの」 「………探偵、ですか?貴方が」 「ええ。おかしいですか?」 「いいえ、………きっと素晴らしい探偵でしょうね」 彼女が探偵と名乗るとは思いもしなかった。よりによって、探偵。 それは彼女に適任であろう。この瞳が煌めく様が、KIDの小さな探偵を否が応でも思い起こさせる。 「貴方は、どうして、こんなにも………」 苦しげに囁かれる声に、有希は反らすことなど許さないと真っ直ぐにKIDを見つめた。 「私、初対面の方に、そのように言われる覚えはありません。………貴方、誰かに私を重ねていませんか?」 「………失礼しました」 KIDは有希の手の甲に口付けを落とすと、彼女から一歩離れた。 彼女は、誰かに重ねられることを先ほど拒んだばかりである。敏感にKIDの気持ちを察したのだろう。 「泥棒さんは、私を誰と重ねていますの?」 「………とうになくしてしまった存在ですよ。女々しいでしょう?」 「なくされたんですの?怪盗と呼ばれる貴方が?」 「ええ。この手から滑り落ちてしまったのです」 「大切なものはきちんと掴んでいないと飛んでいってしまうなんて、子供でもしっていますわよ?」 「そうですね………。でも、それは私のものではなかったのですよ?」 「泥棒さんの言葉とも思えませんわね。盗むのが本業でしょう?」 くすくすとおかしそうに有希は笑う。 「確かに私は怪盗ですが、大切なものは盗めませんよ。まして人の心など簡単なものではありません」 怪盗だというのに、至極まっとうなことを説くKIDに、あら?と有希は首を傾げた。 「では、後悔していらっしゃるの?」 「後悔、でしょうか。………もう一度、もう一度戻れるなら掴んで離さないでいられたでしょうか」 自嘲気味にKIDは目を伏せる。 「随分自信がないのですね。大切なのでしょう?」 「大切だからこそ。私が掴んでいい訳がないのです」 その手を掴むことは大罪であると思っているように、KIDは否定の意味で首をふった。 「泥棒さんて結構馬鹿ですのね?大切なものを掴むこともできないなんて」 「私は、これでも不器用なのですよ。たった一人しか心に入れられないのです。あの人を失ってから誰にも心を感情を動かされない。私の心は凍えたままなのです。どれほど探しても見つからないまま時だけ流れてしまいました」 「それほど大切な方ですの?」 「………私の光でしたよ。希望そのものでしょうか。………愛していますよ」 その熱烈な告白に有希は目を見開き、次いでふわりと微笑んだ。 「その方、どんな方なのか聞いてもよろしいかしら?」 「………そうですね、今ならちょうど貴方と同じくらいでしょうか。同じような漆黒の綺麗な髪で、………貴方は黒曜石のような瞳ですが、あの人は真実を見極める宝石のような蒼い瞳の持ち主です………」 KIDは切なげに答えた。 「………私、紫外線が良くないので瞳を少々カバーしておりますのよ?」 有希は己の瞳に手を伸ばして、コンタクトを取り外しそれをひょいと捨てる。 顔を上げると、夜空にかかる月が蒼い光を反射した。 きらりと輝く神秘の光。 KIDは有希を驚愕で見つめる。 「………その、蒼い瞳は……。でも、私のたった一人の方はマドモアゼルではないのですよ」 まるで、拒むように、似すぎている事実が辛そうにKIDは答えた。 「私、女性だと言った覚えはありませんけれど?」 「………え?」 怪盗紳士とも思えぬ程間抜けな声をKIDは出す。 「………」 KIDの思考は停止していた。 「………………名探偵?」 まさか、と思う。 抱きしめるほど近付いたからわかるが、有希の長い髪も本物であるし、あの美貌も本物である。 KIDが変装する時のような鬘もない、マスクもない。身体だって華奢そのものであった。胸までは服の上からではわからないけれど………。 10年前別れた名探偵も子供にしては大層綺麗な顔立ちだった。男の子とも思えないほど可憐で、服を代えれば十分女の子に間違えられるほどに。 が、いくら彼が成長しても、これほどの美貌になるのか? それに立ち振る舞いが、完璧に女性であるのだ。 付け焼き刃的なものではない。 変装を得意とするKIDだからわかること。 どこからどう見ても、有希は美少女である。 (………そういえば、公爵は有希と名を呼んだり「この方」とは言っても「彼女」とは呼ばなかった………) 「だったら?」 ぐるぐると思考に沈むKIDに有希は簡素に答えた。 「………本当に?」 馬鹿なことを聞いているとKIDに自覚はある。けれど、聞いてしまうKIDに有希はにやり、と笑う。 「俺が、わからないか?KID」 その、声。 KIDと呼ぶ声音に記憶が呼び起こされた。そんな風に呼んでくれるのは名探偵だけだ。 (………こんな都合のいい話があっていいのだろうか?) もう、逢えない。 どれほど探しても見つからない。 半分諦めていたのに。 なのに、相手から自分に逢いに来てくれるなんて………。 人生はそんなに甘くない。KIDの今までの過去を振り返っても小さな名探偵に出会えたこと自体が奇跡なのだ。再び巡り逢えるなんて、奇跡過ぎる。 奇跡は一度しか起こらないから、奇跡なのだ。 二度も起こるなんて、信じられない。 逢えると僅かな望みにかけて信じてきたが、本当に逢えるなんて思っていなかった。 「………」 唖然として何も言えないKIDに有希は笑う。 「江戸川コナンじゃないぞ」 「………?」 「俺は工藤新一、探偵だ」 「………工藤、新一?」 「そう」 彼は己の名を呼ばれて、満足そうに頷いた。 KIDはその名に覚えがあった。 「日本警察の救世主」と呼ばれた名前。KIDと同じく新聞紙上を賑わせた日本では知らぬものなどいなかった。10年ほど前、行方不明になったまま聞かなくなった有名過ぎる名前だ。 「………それはどういうことなのでしょう?」 行方不明になった工藤新一は当時高校生である。自分と同世代なのだ。現在、15、6の姿はおかしい。第一自分が出逢った名探偵は小学生であったはず。 「まあ要約するとだ、当時高校生の俺はある組織に毒薬を飲まされて死ぬはずが、細胞の突然変異により縮んで子供になったんだよ。俺が生きてることが知られる訳にはいかないから……見つかれば殺されるだけだし周りの人間も消される可能性があったからな……、あの姿のまま生活しながら情報を集めていた。その時、ちょうどお前にあったんだな。が、事態は甘くない。自分のことは自分でけりをつけるつもりだったけど、周りに危害が及ぶことにくらべたら俺のプライドなんて些細なものだ。状況的に不味くなった俺達は、両親の協力のもとアメリカに渡った。結局元に戻ることはできなかったから、そのまま成長を待つことになって、現在の姿な訳だ。わかったか?」 「………ええ、まあ。おおよそは」 ものすごい端折り方であるが理解はできた。困惑気味だが一応納得したKIDに新一は、よしわかったな、と頷く。 「それにしても、全く気が付きませんでしたよ」 自分がずっと探し求めていた人間が、まさかわからないなんてKIDは思わなかった。再び逢えば、絶対に見分けることができる、見つけられると硬く信じていたのだ。それが、どうだろう………。確かに、もしかして、と思った。その姿に重ねていた。しかし、しかしだ………。KIDは少々自信を無くしていた。 「そりゃ、そうだろうな。これでも大女優の息子にして演技力も直伝だ」 工藤有希子、旧姓藤峰有希子は世界に名だたる大女優。その美貌と人気は引退した現在も不滅である。その息子なら、この美貌も演技力も納得のいくものであろう。加えて、父親は工藤優作。世界屈指の推理作家。頭脳明晰は言うに及ばず、抜群の推理力と観察力は幼少の頃から英才教育。 自分の前にいる存在が途方もない両親の遺伝子の結集であることと、こうして存在していること自体が不思議であり奇跡であるとKIDは思う。 「それで、どうするんだ?KID」 新一はKIDを真剣に見つめた。 「どうするとは………?」 「その手に掴まないのか?こぼれ落ちたままなのか?」 「………この手に、掴んでいいのでしょうか?」 弱気なKIDに新一はふうと、大きく息を吐いた。 「まだ、そんなこと言ってるのか?その手は何のためにあるんだ?お前はそれでも怪盗なのか?………黒羽快斗」 「………そこまで、ご存じですか」 「当たり前だろ、俺を誰だと思ってる?」 「貴方には適いませんね」 KIDは諦めたように肩の力を抜くと、笑顔を見せて新一に手を伸ばした。そのまま万感の想いを込めて抱きしめる。 「………愛していますよ、新一」 引き寄せた耳元にずっとずっと伝えたかった言葉を囁く。その柔らかな言葉に新一はくすぐったそうに身をすくませると、「知ってる」と返し、笑みを含んだ吐息を付いた。 「もう、貴方を離せないですよ。よろしいですか?」 「大切なものは、その手に捕まえておかないと駄目だ。そんなことは子供でも知っている、だろ?」 「そうですね。では、掴んでおきましょう」 「そうしろ」 新一に命令口調で言われてKIDは微笑む。全く、彼には適わない。 「ところで、どうして今、私の前に現れてくれたのですか?」 KIDは疑問を問いかけた。この10年姿を消していたのに、なぜ、今になってと気になっていたのだ。 「う〜ん、俺の問題もカタが付いたことと、元の年齢に近付いたからか。もう一度やり直すには、ぴったりだろ?上手い具合に俺の宝石を盗むって予告状まで来たし、タイミングとしてはこれ以上はなかった。………それに誰かさんは、最近精細さが欠けていたしな」 「………誰かとは、私のことですか」 どこまでばれているのだろう、とKIDは思う。 感情を表に出しているつもりはなかったのだけれど、些細な言動から名探偵はKIDの内なる思いを読み取るのだろうか。小さな名探偵の頃からそれは変わらない。現場で誰にもわからないのに、屋上で逢う時、KIDの機嫌を名探偵はわかっていた。一目で伺うことのできる洞察力。 名探偵に逢えない、見つからないと焦る気持ちは、情けないことに彼本人にはばればれだったらしい………。 「まあ、良かっただろ。とっておきの、10年越しの魔法だったんだから」 「10年越しの魔法?」 その真実を見極める彼らしくない夢みたいな言葉にKIDは不思議に思って聞き返す。 「そう。時間のかかる最上の魔法。驚いただろ?」 「驚きましたよ。心臓止まりそうでしたよ?」 大げさな仕草で驚いてみせるKIDに新一は目を細める。 「止まったら、困るだろ。心臓麻痺にさせるつもりはなかったぞ?第一心臓弱いKIDなんて夜空を飛べるか」 そんな情けないKIDを想像したのか新一は声を立てて笑う。KIDもつられたように一緒になって笑みを見せた。 「でも、とても素敵な魔法ですね………。このような魔法なら大歓迎ですよ」 「だろうと思った」 新一は悪戯が成功した子供のように満足げに微笑みながら、自分より逞しいKIDに抱きついた。その華奢な身体を大切に、そして誰にも渡さないかのようにKIDは掻き抱いた。 |