不完全な僕ら−或いは人並みの生活
「続・君の喜ぶ顔が見たくて」



 愛してますよ、とささやいた。
 誰もいない、二人だけの儀式のようだった。朝陽の射し込む、部屋の中のワンシーン。
 それが二人の婚姻と、知っている者もいなかった。

 高校教師の天蓬と、大学院生の金蝉。
 この二人が結婚したことを知るものは、この世の中に多くはない。
 しかし、そんなことは幸せと比例しないもので。
 多少交通の便がよろしくなくても、二人で公団に引っ越し、仲良く新婚生活を始めた。
 とまあ、ここまではありがちな話。
 問題なのは、この二人が同性であること。しかも、片や世間知らずで潔癖、片や切れ者だが、妙なところで無頓着。一見うまくいきそうにない二人の結婚は、それでも穏やかに、いくつものエピソードを重ねながら、ゆるりと流れていた。
 今回は、そんな二人が結婚する、一年ほど前のお話。


 「明日、一緒に作りましょう」と笑った天蓬の顔が、浮かんでは消える。
 あれから、もう三日が経とうとしていた。
 インスタントラーメンを、天蓬が金蝉の目の前で作ったのだ。その魔法のような所作に、金蝉はすっかり魅了されてしまったのだった。
 早速、インスタントラーメンを購入してはみたが、天蓬が一緒に作ろうと言ったがために、まだそのままになっている。
 その約束をした当人は、もう三日も連絡がとれない。
 なんでも、土を掘りに行く用事ができてしまったとかで、金蝉にはよくわからなかったが、どうやら普段は入ることもできない所に行けるとのことだった。
「すぐ、帰りますから」
 電話口でそう言った声も、どこか上の空だったと思い出す。本当に、土を掘る事と本を読む事となると、天蓬は夢中になり、金蝉のことどころか、自分のことを忘れることもしばしばだった。
 金蝉は、そんな天蓬が嫌だというわけではない。そもそも、全てにおいてルーズだということは百も承知でつきあっている。だが、三日も連絡がとれないのは初めてだった。
「あの、馬鹿」
 金蝉はインスタントラーメンの袋を見ながら、ぼそりとつぶやいた。
 ふと思いついて立ちあがり、インスタントラーメンの袋を開ける。どうにか台所から鍋を探し出して、火にかけた。
 自分の家の台所よりも、この天蓬の家の台所の方が、金蝉には馴染み深かった。よくここで、天蓬が料理をしているのを見ているからだ。
 合い鍵で勝手に入ったものの、することのない金蝉は、インスタントラーメンを、自分だけの力で作ってみようと思ったのだ。簡単そうな天蓬の手つきを見ていると、きっとそう難しくはないのだろう、と思えた。
 折しも昼下がり。うまい具合に、お腹の方も空いてきた。
 まず、麺を鍋に入れる。説明書が袋の裏についていることに気がついたが、読むとどうもおかしかった。天蓬が卵やネギを入れたタイミングと、説明書の順番が違う。きっと、天蓬の方があっているのだろうと、金蝉はそれきり、説明書を読むのをやめてしまった。
 箸で鍋の中に浮かんでいる麺をつついてみるが、やわらかくなった気配はない。イライラして、金蝉は一度、鍋から麺を引きあげた。
 天蓬はどうしていただろうと思いながら、金蝉は包丁を持ち上げた。前に、何かで天蓬が「少し切り込みを入れた方が、火が通りやすくなるんですよ」と言っていたのを思い出す。
 麺に切り込みを入れようとするが、なかなかうまくいかない。とうとうまっぷたつに割ってしまい、金蝉はため息をついて、それぞれをさらに、もう半分ずつにした。
 それを鍋に入れ、少し待つ。沸騰していないから駄目なのだと気がつくが、そのうち沸騰するだろうと、放っておくことにした。
 その間に丼を探し、ネギを省略して、卵だけを冷蔵庫から取り出した。一応、賞味期限がきれていないかどうか確認するが、どうやら大丈夫らしい。金蝉が家に来るようになってから、天蓬は冷蔵庫の中身を、いちいち確かめるようになった。なにせ金蝉は、最初は消費期限や賞味期限の見方も知らなかったのだ。天蓬の不注意が、そのまま命取りになるような状況だった。
 沸騰してきた湯に、卵を割り入れる。久しぶりにうまく割れず、ぐちゃりと潰してしまったが、金蝉はまったく気にせず、殻をゴミ箱に捨てた。
 インスタントラーメンを作る時に、気に入ったのはこの点だ。卵を割るのに失敗しても、どうせこれから潰すから、放っておいてもいいのだ。
 箸で適当にかきまぜていると、麺がやわらかくなっているのがわかった。嬉しくなってきて、金蝉は一生懸命かきまぜはじめる。すると、周りに汁が飛び散ったので、顔をしかめ、飛び散った所を丁寧に拭いた。
 その間に、鍋はみるみる溢れ、吹きこぼれそうになる。あわてて金蝉は火を消し、静まるのを待って、もう一度そろそろと火をつけた。確か、天蓬はもう少し、火にかけていた気がしたからだ。
 少ししてから火を消して、期待に満ち満ちた胸を抱え、調味料を入れた。
 丼にラーメンを入れてみたが、一つだけでは足りなくなったので、もう一つ取り出す。
 箸をつけ、一口すすって、すぐに顔をしかめた。
「……不味い」
 何か変なことでもしただろうかと、金蝉は顔をゆがめて考えた。思い当たるフシは、あまりない。
 しかし、現実問題として、目の前のラーメンは不味かった。
 金蝉が途方に暮れ始めた頃、玄関のドアが開いた。
「こっちにいたんですか」
 待ち人が、にこやかな微笑みを浮かべながら、部屋の中に入ってくる。
「土はもういいのか」
「ええ。先に貴方の家の方に電話をかけてみたんですが、いなかったので心配してたんですよ」
「そのわりに、ゆっくりしてたようだな」
 三日も連絡のとれなかった恋人に、文句の一つも言ってみたくなる。天蓬はまだ半分濡れた髪に手をやって、照れたような笑みを浮かべた。
「いえ、ずっと土ばっかり掘ってたので、泥んこだったんですよ。で、連れて行って下さった方が、恋人に会いに行くつもりなら、せめて風呂にでも入っていけって勧められまして」
 汚れてるの、嫌でしょう? と微笑む天蓬に、金蝉は近づいた。それからゆっくりと、確かめるように、天蓬の頬に触れる。
「三日だ」
「ええ。長かったですか?」
「まあな」
 石けんのにおいのする両手で、金蝉の頬を包みこむ。かすめるような口づけを落として、天蓬は金蝉を抱きしめた。
「……すみません、でした」
「連絡がとれないのは、困るな」
 ふうっとため息をつきながら、金蝉が言う。天蓬は笑みを深くして、ますます強く、金蝉を抱きしめた。
「ところで、金蝉」
「なんだ」
「なんだか、すごくいい匂いがするんですけど」
 一瞬、答えようかどうしようか迷うものの、結局金蝉は白状する。
「インスタントラーメンを作った」
「貴方が……ですか?」
「ああ」
「一人で?」
「当たり前だろうが」
 不機嫌そうな声に、天蓬はくすくすと笑って、金蝉を解放した。
「お相伴にあずかってもいいですか?」
「不味いぞ」
 すかさず言って、しまったと思う。天蓬は案の定笑い出し、金蝉はすねたようにうつむいた。
 台所に置きっぱなしになっている丼を見て、天蓬は首をかしげた。
「二人分、作ったんですか?」
「いや、一袋しか開けていないが」
「……ああ、なるほど」
 失敗したのか、とは、口が裂けても言わない。それが金蝉のプライドを傷つけることを、天蓬は知っている。
「それじゃ、いただきます」
 一口食べて、天蓬は予想していた味くらいだと知る。じっとそんな天蓬を見ている金蝉に、安心させるように笑いかけた。
「初めて作ったにしては、上出来だと思いますよ」
 必要以上に短い気のする麺を持ち上げて、天蓬は笑う。
「……そうか?」
「はい。初めてって皆、こんな感じですよ」
「お前もか?」
「もちろん」
 それでも、不味いことに変わりはないはずだ。なのにまだ、口に運んでくれる、天蓬の優しさがくすぐったい。
「もういい」
「何がです?」
「不味いだろう」
「でも」
「お前が作って見せろ」
「え?」
 金蝉は下を向いて、ぼそりとつぶやいた。
「お前が作ったのが食べたい」
「――はい」
 にこりと笑って、天蓬は鍋をさっと洗う。ネギがないようで、卵だけをいれ、瞬く間にラーメンを作り上げてみせる。
「とまあ、こんな感じで作ればいいんです」
「……わかった」
「じゃ、のびちゃうので、食べてください」
「もう一度、作ってからな」
「わかりました。じゃ最初からやりましょう」
 にこにこと笑いながら、天蓬はまた、鍋を洗う。
「ええと、何ラーメンがいいですか?」
「お前は何がいい」
「しょうゆ、ですかねえ」
 天蓬に手ほどきを受けながら、こんなに簡単にできるものかと金蝉は舌を巻く。どうしてあんなに大変だと思ったのか、金蝉にはもう思い出せないほどだった。
「これで、できあがりです。どうですか?」
 一口食べて、金蝉はぽつりとつぶやく。
「……旨い」
 それじゃあと丼を二つとも、居間のテーブルに運ぶ。
「いただきます」
 昼下がり、ようやく帰ってきた天蓬と食べるインスタントラーメンは、なぜか今まで食べたどの料理よりも美味しかった。
「貴方の作ってくれたラーメンを食べられるなんて、僕は幸せモノですねえ」
「爺くせえ事言ってんじゃねえよ」
 そう言いながら金蝉は、天蓬に顔を見られないように、うつむいた。

 カップラーメンなるものがある、という話を聞いた金蝉が、どんな高価な食べ物だと天蓬に聞くのは、また別の話。

     終  



 
インスタントラーメンを金蝉様と食べたい!
きっと、金蝉様と一緒なら、インスタイイントラーメンでさえ美味しい。
とはいえ、結構ラーメン好きですが・・・。私は味噌がお勧めです金蝉様!(春流)



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