不完全な僕ら−或いは人並みの生活
「風と君と太陽」



 愛してますよ、とささやいた。
 誰もいない、二人だけの儀式のようだった。朝陽の射し込む、部屋の中のワンシーン。
 それが二人の婚姻と、知っている者もいなかった。

 高校教師の天蓬と、大学院生の金蝉。
 この二人が結婚したことを知るものは、この世の中に多くはない。
 しかし、そんなことは幸せと比例しないもので。
 多少交通の便がよろしくなくても、二人で公団に引っ越し、仲良く新婚生活を始めた。
 とまあ、ここまではありがちな話。
 問題なのは、この二人が同性であること。しかも、片や世間知らずで潔癖、片や切れ者だが、妙なところで無頓着。一見うまくいきそうにない二人の結婚は、それでも穏やかに、いくつものエピソードを重ねながら、ゆるりと流れていた。
 今回は、そんな二人が結婚してから、二週間くらいたった頃のお話。


 髪をなぶる潮風に、正直金蝉は戸惑っていた。
「どうしました?」
 にこやかに聞いてくる天蓬の声で、ようやく金蝉は顔を上げる。
「いや、海だなと……思ってな」
 自分の戸惑いに気づかれないように、金蝉は言葉をにごして、うつむいた。
「もしかして、こんなトコに立ったこと、ないんですか?」
 いきなり図星をさされ、金蝉は波打ち際から、じろりと天蓬をにらんだ。なんだか、馬鹿にされている気がしたのだ。ゆっくりと、海に向かって歩を進める。
 海に行こうと言い出したのは、天蓬だった。だが、そのきっかけを作ったのは金蝉だ。
 ある日、二人でのんびりとテレビを見ていた時、金蝉は「久しく海を見ていない」とつぶやいたのだ。そしてその次の日、天蓬は海に行こうと言い出した。
 金蝉が承諾すれば、話はトントン拍子に進む。天蓬は手際よく、宿と休みを手配し、それから一週間もしないうちに、二人して海を見ることになった。
 妙に人脈のある天蓬は、「デートの場所選びならまかせとけ」という知人に、穴場中の穴場という場所を紹介された。小さな砂浜があるきりで、観光客は毎年、ほとんどいない。世間でも、そこにそんな場所があるなどということは、大部分の人が認知していなかった。
 今も、二人の他に客はない。天蓬は、のんびりと砂の感触を楽しみ、その辺りの地形を楽しんでいた。だが金蝉はそうはいかない。
 金蝉にとって、海というのは遠くから眺めるものだった。自家用の飛行機からであるとか、あるいはホテルの一室から。
 波打ち際に立ってみて、自分の世間知らずさを思い知らされる。
 遠くから見ると、ただ美しいだけだった海は、手で触ると、手がベタベタした。波打ち際に裸足で立ち、そっと波に足をつければ、足の下の砂が動いて、奇妙な感触を与えた。
 海とはこういうものだったのか、とつくづく思うのと同時に、実際に海を目の前にして、どうやって過ごせばいいのだろう、という疑問も出てくる。
 すでに天蓬には、何度も世間知らずゆえの失敗を知られている。今さら、という気もしないでもないが、せめて海に来たことがないことは、悟られたくなかった。
 ひとつ、自分の世間知らずさを知るたびに、金蝉はなんとも言えない気持ちになる。天蓬も知らなければ問題はないのだろうが、あいにくと天蓬は、金蝉の知らないことはほとんど知っていた。天蓬が知らないことは、金蝉もきっと知らないだろう。
「金蝉?」
 深くため息をつき、金蝉は天蓬を振り返った。天蓬は箱から煙草を取り出して、ちょうど口にくわえようかというところだった。金蝉と目が合うと、にこっと微笑む。
「なんだ」
「いえ、何してるのかなあって」
 金蝉は裸足になって、海の中に立っていた。だが、もしかしたら、海というものはこういうことをする所ではないのかもしれない。いや、しかし、でも。
 混乱しながらも、金蝉は砂浜に上がってくる。
「そういうお前は土でも掘ってたのか」
 土を掘っていれば幸せだと、初対面の時に天蓬が言っていたことを思い出す。金蝉がそう問えば、天蓬は明るく笑って、首を横に振った。
「貴方を見てました」
「……は?」
 怪訝そうな顔で、金蝉は天蓬を見る。天蓬はTシャツの上から羽織った白衣に風をからませ、気持ちよさそうに遠くを見た。
「いい天気――ですね」
「ああ……まあな」
 雲一つない、とまではいかないが、機嫌良く晴れ渡った空は、ずっと高みから二人を見下ろしていた。ときおりきつく吹く潮風が、天蓬と金蝉の髪をつかみ、引っ張っては離していく。
 空気はぼんやりと優しく、金蝉は天蓬と同じように海の向こうを見て、目を閉じた。波の音が、耳をくすぐる。海というのはこんなに気持ちがいいのかと、金蝉は思った。
 陽差しの強いのが玉に瑕だが、それすらも気持ちいい。
 ふと、眼前に気配を感じたと思った矢先、唇にやわらかい感触が降りる。
「……っ?!」
 覚えのある、それがなんなのかに気がつくまでに数瞬。金蝉は目を開けて、すぐ前に立っている天蓬をにらみつける。
「誰かに見られたら……」
「どうせ、僕らのことを知ってる人なんていませんよ」
 あっさり言って、天蓬は金蝉の手をとる。
「初めてですか?」
 海に来たのは、と問いかける天蓬に、金蝉は首を横に振った。なぜ、とっさに嘘をついたのか、よくわからない。天蓬が意外そうな顔をしたのが新鮮で、気をよくした金蝉は、天蓬の手を少し握り返した。
 そもそも、同性同士の結婚など、法律で認められてはいない。社会的にも、同性愛はまだまだ異質な存在だというのが、本当のところだ。
 まして、天蓬の行っている職場にでも知られたら、私立校ということもあり、スキャンダルを嫌って解雇されかねない。理由なんて、適当にいくらでもでっち上げられるのだ。
 だから二人には、外で手をつなぐなどということも、よっぽどのことがない限りはできない。だから、天蓬が外でこんなことをしてくると、慣れない金蝉は、どう返していいのかわからなくなる。
「綺麗ですね」
 金蝉の髪を触って、天蓬は微笑む。一房とって、唇をそっと寄せる。陽に透ける金色は、天蓬の手の中できらきらと光っていた。
「……そろそろ、戻りましょうか」
 来たばかりだというのに、天蓬はそう言って微笑んだ。金蝉にはその行動が理解できず、怪訝そうにそのにこやかな顔を見る。
「どうかしたのか?」
 普段の天蓬なら、よほどのことがない限り、一つところに留まって、ゆっくり過ごすのが好きだ。涼しい、少し曇った日など、公園に論文を持っていって、ぼうっとしていることがよくあった。結婚してからは、まだ一度もそんなことはないが。
「やっぱり、海に来たことないでしょう」
 少し笑いを含んで、天蓬が言えば、金蝉はむっとした顔で、そんなことはないと答える。
 だが、天蓬はただ笑ってうなずくばかりで、完全に信じていないことがわかった。当然、金蝉は面白くない。やはり馬鹿にされている気がする。
「俺はまだここにいる。帰りたければ勝手にしろ」
「駄目です」
 天蓬は強引に金蝉の腕を握り、宿の方に向かって歩きはじめた。金蝉は手にサンダルを持ったまま、ひきずられていく。あわててその手を振りほどこうとするが、天蓬は腕を放そうとはしない。
「やめろっ!」
 半ば叫ぶように言うと、天蓬はようやく立ち止まり、困ったように金蝉を見た。そんな天蓬の顔は、結婚してから初めてだ。どんな失敗を金蝉がしても、にこやかにフォローしてきた男が、今はとても困った顔をしている。それは、なぜか金蝉をイライラさせた。
「そんなに気に入ったなら、明日来ましょう。ね?」
 どこか小さい子に言い聞かせるような言葉も、金蝉の神経を逆なでる。
「明日は来なくていい」
 自分の言葉も、駄々をこねているように響いてしまうのだろう、と金蝉は思う。だが、どうしようもない。
「金蝉」
「お前はすぐにそうやって、なんでも知っているような顔をする」
 忌々しそうな言葉に、天蓬は戸惑ったような、それでいて微笑みに見える表情を浮かべた。ゆっくりと腕を離して、その手を金蝉の背中にまわす。
「……すみません」
「謝るな」
 よけいみじめになった気がして、金蝉はうつむいた。別に、謝ってほしいわけではないのだ。
「でも、とにかく戻りましょう」
「嫌だ」
 意地を張る金蝉に、天蓬は困った笑みを浮かべた。背中にまわしていた手をほどき、金蝉の左手をとる。
「お願いします」
 金蝉は、天蓬のその言葉に弱い。それがわかっていて、天蓬もあえてそう言う。左手の薬指、シンプルな指輪にゆっくりと唇をあてた。
「わかった」
 こくりとうなずいて、金蝉は天蓬と共に、宿に戻った。


 大の男が、二人して手をつないでいるという光景は、誰が見ても少し異様だ。
 それを気にしてか、金蝉は手をつなごうとはしなかったし、天蓬も無理にそうしようとはしなかった。
 宿は普通の旅館だった。二人部屋で、帰るともう布団が敷いてある。
「金蝉」
 呼ばれて振り向くと、天蓬がひやりとしたタオルを、そっと額に当ててくる。
「思ったより陽差しが強かったですね。ちょっと横になってください」
 丈夫でない金蝉の体では、あれ以上海にいることはできないと、天蓬は踏んだのだ。それならそうと言ってくれればいいのにと、金蝉はため息をついた。
 わかっているのだ。そう言ったところで、自分はきっと大丈夫と言い張って、そこに残っただろう。
「……悪かった」
「いえ、僕もちゃんと言っていれば」
 苦笑して、天蓬は寝ころんだ金蝉の額に、冷たいタオルをのせた。
「あ、ちょっと頭を上げてください」
 言われるままに頭を上げると、天蓬の膝がその下にすべりこむ。熱や疲れを取るように、静かに顔を拭う。
「気持ちいいですか?」
「……まあな」
 目を閉じて、金蝉は答える。天蓬はひっそりと笑った。
 丈夫でない体が厭わしかった。この体のために、海にも長い間いられないし、おそらく明日もいろいろな場所を見て回る事はできないだろう。
 本当は、天蓬だっていろんな所に行きたいはずだ。なのに、自分がこんな体なばっかりに、結局どこにも行けない気がする。金蝉はため息をついて、天蓬の秀麗な顔を見つめた。
「どうしました?」
「……明日、どこか行きたいところはあるか」
 意外な金蝉の言葉に、天蓬は首をかしげる。
「貴方は? 金蝉」
「俺は行かん」
 静かな部屋の中に、金蝉の声が響く。天蓬は少し笑って、金蝉の髪をなでた。
「じゃ、僕も行きません。ゆっくりしてますよ」
 きっぱりと言った天蓬に、金蝉は呆れたような顔をした。そんな金蝉に、天蓬は苦みを含んだ笑みを向ける。
「貴方がいない場所に行くなんて、職場だけで十分ですよ」
「……」
 金蝉はうつむいて、フンとだけ言った。天蓬はふふっと笑いながら、金蝉の髪を手で梳く。
 天蓬は金蝉の上にかがんで、そっとささやいた。


「貴方がいればそれで幸せ、なんて、信じます?」


  終  


初めての海。でも、意地っ張りな金蝉様は初めて来たと言えない・・・。
く〜、可愛いじゃないですか!
っていうかね、金蝉様がいれば天蓬は幸せってのが、こう新婚なだと思いました。
新婚じゃなくても、もちろん幸せだけどね・・・。(笑)    (春流)



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