不完全な僕ら−或いは人並みの生活
「月と君」



 愛してますよ、とささやいた。
 誰もいない、二人だけの儀式のようだった。朝陽の射し込む、部屋の中のワンシーン。
 それが二人の婚姻と、知っている者もいなかった。

 高校教師の天蓬と、大学院生の金蝉。
 この二人が結婚したことを知るものは、この世の中に多くはない。
 しかし、そんなことは幸せと比例しないもので。
 多少交通の便がよろしくなくても、二人で公団に引っ越し、仲良く新婚生活を始めた。
 とまあ、ここまではありがちな話。
 問題なのは、この二人が同性であること。しかも、片や世間知らずで潔癖、片や切れ者だが、妙なところで無頓着。一見うまくいきそうにない二人の結婚は、それでも穏やかに、いくつものエピソードを重ねながら、ゆるりと流れていた。
 今回は、そんな二人が結婚してから、三月くらいたった頃のお話。


 いい月夜だった。金蝉はベランダから空を見上げて、ふうっと息を吐いた。
 やはり月見はいいと思う。こういったイベントをこなすことは、金蝉の中では当たり前にしたいことだった。だから、バレンタインやクリスマス、果てはそれぞれの節句に至るまで、決して手を抜こうとはしない。
 もっともそれは、世間一般もそうだろう、と誤解をしているせいもあるのだが。
「きれいですね」
 後ろから話しかけられ、金蝉はああと返事をする。
 天蓬は左手に酒、右手に団子の入った皿を持ち、金蝉の隣に座った。猪口を渡して、少しだけ酒を注ぐ。
「明日、仕事だろう」
「これくらいなら、大丈夫ですよ」
 月を眺めて、降りてきた沈黙を楽しむ。
 天蓬は、金蝉のいる空間が好きだった。彼が何も話さなくても、いっそ眠っていても、彼のいる空間には、全てを放棄するだけの価値があった。
 彼らの住んでいる部屋のベランダは、外から誰かに見られるという位置にはない。また、どこからも見えないことを確認して、天蓬は金蝉の肩を引き寄せた。
「寒くないですか?」
「ああ」
 自分の時にはからきし駄目なくせに、金蝉のことになると、天蓬のセンサーは敏感に動くらしい。わずかな温度の変化に、金蝉の体がついていけるのかと危ぶむ。
 金蝉にしてみれば、天蓬の心配は、心地良いがくすぐったい。それよりも、自分のことにもっと気を配ったらどうだと思うが、それは口に出せないほど恥ずかしい理由で、言わないことにしていた。
 天蓬はふいに立ちあがると、部屋の中に入っていった。ついさっきまで、肩にあった手が離れると、思ったより寒いことに気がついた。
 やがて戻ってきた天蓬は、手にタオルケットを抱えている。
「貴方は、自分がつらい時にも気がつかないから」
 静かにそう言いながら、金蝉の肩にタオルケットをかける。もう片方は自分にかけて、先ほどのように、金髪の秀麗な男の肩を抱いた。
 金蝉は、お前もそうだと言いたいのを、必死にこらえた。その台詞を言ってしまったら、黙っている恥ずかしい台詞まで、言わなくてはならなくなるだろう。
「でも、いいんですよ」
 嬉しそうな微笑みを浮かべて、天蓬は金蝉を見つめた。
「貴方がつらかったら、僕が気がつきますから」
 金蝉ははっと顔を上げて、天蓬を見る。それは、自分が隠していた台詞と、まったく同じだったからだ。
 かすめるように、天蓬は金蝉にキスをする。
「……月見じゃないのか」
「ええ、そうですよ」
「なら月を見てろ」
 照れてそんなことを言う金蝉に、天蓬ははいと答え、空を見上げた。眼鏡ごしに、月が白く輝いている。
「月にはウサギが住んでるそうですよ」
「ほう」
「見る人によって、いろんな風に見えるそうです。でも、いくつかの絵柄を見せると、たいていの人が、ウサギが二匹いる絵を指して、『こう見える』って言うんだそうです」
「何故だ?」
「人間は、見たいものを見るそうです。だからきっと、月にはウサギが二匹いてほしいんでしょうね。……一人は、あまりにも淋しいから」
 一人では、生きていきたくないから。
「そうか」
「僕には貴方がいますから、淋しくありませんけどね。月のウサギも、できたら幸せでいてほしいじゃないですか」
「……ああ」
 天蓬の肩に、金蝉はそっと頭をのせた。

   
   終 
 

月見。でも、隣に金蝉様がいたら、見ちゃうよね。きっと。
だって、月より綺麗に輝いているんですもの♪
天蓬、金蝉さまに出会えて良かったね。(春流)


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