不完全な僕ら−或いは人並みの生活
「君の忘れ物」



 愛してますよ、とささやいた。
 誰もいない、二人だけの儀式のようだった。朝陽の射し込む、部屋の中のワンシーン。
 それが二人の婚姻と、知っている者もいなかった。

 高校教師の天蓬と、大学院生の金蝉。
 この二人が結婚したことを知るものは、この世の中に多くはない。
 しかし、そんなことは幸せと比例しないもので。
 多少交通の便がよろしくなくても、二人で公団に引っ越し、仲良く新婚生活を始めた。
 とまあ、ここまではありがちな話。
 問題なのは、この二人が同性であること。しかも、片や世間知らずで潔癖、片や切れ者だが、妙なところで無頓着。一見うまくいきそうにない二人の結婚は、それでも穏やかに、いくつものエピソードを重ねながら、ゆるりと流れていた。
 今回は、そんな二人が結婚してから、二ヶ月と少ししてからのお話。


 あらかた片づいた部屋を見渡して、金蝉は満足げなため息をついた。
 なにせ、彼の夫である天蓬は、見境なくいろんなものを集めては、無駄に溜めこむ特技があるのだ。結婚してからは大分マシになっていたが、それでも物が多いのには、変わりがない。自然、片づけもわずらわしくなるほど、散らかってしまうのだ。
 金蝉は、家事の中でも掃除が好きだ。と言うよりも、掃除しかマトモにできた試しがない。未だに洗濯機の使い方を把握していないことからも、それは伺えた。
 生まれてから18を過ぎるまで、家事などというものに触れた機会がなかったのだから、仕方がないと言えばそうだ。そんな金蝉も、掃除だけはなんとか無難にこなした。
 金蝉が、掃除機を元の場所に戻して、天蓬の机を見た時のことだ。
 見覚えのある封筒が、うずたかく積み上げられたゴミ(と、金蝉には見える)の上に置いたあった。実に無造作に。
「これは……」
 嫌な予感を抱えながら、金蝉はそっと封筒の中をのぞく。
 違ってほしいという期待も空しく、そこには天蓬が持っていくはずだった書類が入っていた。
「あの、馬鹿……」
 ため息まじりにつぶやいて、金蝉は封筒をまた机の上に戻した。そのまま、洗面台に行き、出かける用意をする。
 幸い、今日は何も用事はなかった。時間は、昼を少し回った程度だ。これなら、間違いなく天蓬の所に届けられるだろう、と金蝉は踏んだ。今なら間に合うかもしれないとも。
 およそ他のことなら、金蝉も放っておいただろう。
 第一、頭は切れるくせに、天蓬という男は生きていることにルーズなのだ。忘れ物の一つや二つは日常茶飯事で、下手をすると手ぶらで出勤ということさえやりねない。
 だが、これはテスト問題というやつではないだろうか。
「明日渡さなきゃダメなんですよ」
 とかなんとか、昨日天蓬が言っていた気がする。ダメなのはお前だとつっこみたい所を、金蝉はぐっとこらえた。いない者に悪態をついても仕方がない。
 ドアを押しあけて外に出ると、まだまだ暑さのひかない外気が金蝉を覆った。
「っ……」
 別に大して体調が悪いわけではないが、丈夫ではない金蝉の体は、比較的涼しい室内との温度変化に慣れるのに、多少の時間を要した。
 団地内を歩いていき、バス停に着く。この間まで、昼間だろうがなんだろうがあふれかえっていた子供たちの声は、今はまったく聞こえない。
 バスに乗って、金蝉はとにかく駅に着くまで、天蓬の職場へのルートをおさらいした。
 小さな窓枠で区切られた外の世界しか見てこなかった金蝉も、電車の乗り方くらいは心得ていた。つい最近身につけた知識ではあるが。
 公団から学校に行くためには、電車に乗らなくてはならない。だが、天蓬の職場に行くのはちょっと違う。
 実際の長さは大してないのだが、一度乗り換えなくてはならないのだ。それがどこでかを金蝉は知っていたし、なんという電車に乗り換えなくてはいけないのかも、全部知っていた。
 それでも、一抹の不安は残る。
 致命的なことに、金蝉は天蓬の職場に行ったことがなかった。


 その頃、天蓬は昼食をとっていた。
 ゆっくりと頭の中で、今日のこれからのスケジュールをおさらいする。午後の授業はなく、帰りにクラスに顔を出せばいい。
 さすがにつきあいが長くなってくると、天蓬の人となりは広く知られているようで、彼がいなくてもクラス運営は成り立つようになっている。高校生であるのだから、それくらいできて当たり前だ、と天蓬が思っているせいもあるかもしれないが。
 天蓬の受け持っているクラスは、全員が全員、自分の担任に何もかもをまかせておいてはいけないのだと知っている。
 帰りにちらっと顔を出すだけなら、いっそ帰ってもいいかもしれないなあ、と冗談まじりにそんなことを考え、天蓬は今ごろ、家で待っているであろう人に思いをはせた。
 今日はきっと、金蝉は夕食を用意しているだろう。几帳面な彼のことだから。
「先生、さっき何か、その辺で音してませんでした?」
 同僚が天蓬の散らかった机の上を指して言う。いや、もはや散らかったとか、そういう問題ではないのかもしれない。様々なものが積み上がった様は、自宅の机によく似ていた。
「音ですか?」
「ええ。なんかケータイが震えるみたいな」
「あ」
 天蓬は、がさがさと机の上をひっかきまわし始める。だが、目当てのものはなかなか見つけられなかった。
「結局ソレ、なんなんです?」
「いえ、ケータイなんですけどね。そう言えば昨日忘れていったなあって……これは違うし……」
 眼鏡を押し上げて、食べかけの昼食そっちのけで、携帯電話を探し始める天蓬を、同僚は当たり前のように見ていた。
 いくら変わり者でも、一年半付きあえば慣れるというものだ。
「ケータイの意味ないんじゃないですか?」
 からかうように言えば、やわらかい微笑みが返ってくる。
「大事な人からの連絡さえ入れば、ケータイの意味なんて、それだけで十分だと思いません?」


 金蝉は途方に暮れていた。
 途中、乗り換える駅でどこにどう乗り換えていいのか、わからなくなるというアクシデントはあった。
 駅の改札内で乗り換えなくてはいけないので、選ぶ範囲は狭いはずだった。だが、どうしてもわからない。
 仕方がないので駅員に聞き、どうにかこうにかホームには辿りついた。電車に乗り、しっかりと外を見すえて、乗り過ごさないように気をつける。
 だがしかし、問題はそこからだった。
 駅を降りてから、天蓬の職場に向かうまでの道だ。
 たとえば、駅で迷ったら、駅員に聞けばいい。それは、前回駅で迷った時、天蓬が教えてくれたのだ。だが、彼は路上で迷った時にどうするかまでは、言わなかった。
 天蓬の携帯電話に連絡を入れてみるが、案の定つながらない。どうせ、職場の机の上にでも、埋もれているのだろう。
 金蝉は、とにかく歩いてみることにした。体力を無駄遣いしたくはないが、誰にも聞けないのだから仕方がない。かすかな記憶を頼りに、きょろきょろと辺りを見まわしながら、歩き始める。
 金髪で長身の男が歩いていれば、それだけで目立つ。まして、不機嫌そうに歩いていれば。
 しかし、それは決して不機嫌ではないのだ。むしろ不安で仕方がない。
 天蓬が迎えに来たら、きっと簡単に天蓬の所まで辿りつけるのにと、どこか矛盾したことを考えながら、金蝉はとぼとぼと歩き続けた。


 天蓬は、自分の担任しているクラスをのぞいた。
「ちょっといいですかー?」
 もちろん授業中だが、その緊張感のない声に、授業をしていた教師が、どうぞと言うタイミングを失う。
「僕これから帰るので、代わりの先生に来て戴くことにしましたから、よろしくお願いします。ま、テキトーに帰ってください」
 教師としてはいささか問題なほどの、のんびりとした口調と内容にも、生徒達は驚かない。ただ、またかという顔をするだけだ。
 さっさと支度をすませ、白衣のままで天蓬は学校を出た。


 いいかげん、金蝉は泣きたくなっていた。
 行けども行けども、天蓬の職場に着かない。それらしい建物は見えるのだが、いつまでたってもそこに辿り着くことはなかった。
 帰りたくても、もはやどこから来たのかもよくわからないほど、ぐねぐねと複雑に歩いてしまっていた。
「あの」
 ふいに後ろから声をかけられ、金蝉は一瞬びくっとして、振り返る。
「この辺りにコンビニってないですか?」
 年若いその女性も道に迷ったようで、困りきった顔で聞いてくる。金蝉はさあと短く答えて、早々にその場を後にした。
 しかし、その女性は重大なヒントを与えてくれた。
 道に迷ったら、道行く人に聞けばいいのだ。
 金蝉はそうと決まれば、誰に道を聞こうかと、周りを見た。しかし、こんな時に限って、誰もいない。どうやら住宅街のようで、自転車で通る人もいなかった。
 金蝉はいいかげん疲れて、どこか公園のようなところはないかと探した。そのうちに、小さな公園を見つけ、そこにあったベンチに座りこむ。
「隣、いいですか?」
「っ!」
 驚いて振り向いた金蝉に、声の主は静かに微笑んでみせた。
「どうしたんです? こんな所で」
「……お前こそ……」
 どうにかそれだけ言い返して、金蝉はまだ信じられないと言うように、呆然と天蓬の顔を見ていた。
「誰かさんからの着信が入っていたもので、近くまで来てるのかな、と思いまして」
「……」
 金蝉はため息をついて、封筒を天蓬に渡した。
「忘れモンだ」
「あ」
 中身を確認して、すまなそうに金蝉を見る。
「もしかして、コレを届けに?」
「他に用事があるか」
 不機嫌そうな金蝉を、天蓬は後ろからぎゅっと抱きしめた。
「……人が、見るぞ」
「かまいませんよ」
 金蝉も、決して天蓬を振り払うなどということはせず、ただ黙って抱きしめられていた。


 本当は、テスト問題なんかなくても、作り直すのくらいは簡単なのだ。
 でも、僕が貴方のためにこんなことをしてくれるなら、忘れてよかった。
 ただそれだけで、気持ちが温かくなる。


 仲良く手をつないで帰る道すがら、天蓬はささやいた。
「金蝉」
「なんだ」
「愛してますよ」
 なんの脈絡もない言葉だったが、気持ちだけは、きちんと金蝉に伝わる。
 金蝉はつないだ手に、少し力をこめた。それが答えで、それがすべてだった。

   終  



箱入り金蝉さま。
初めてのおつかいだよね〜。可愛い。
そして、金蝉さまが学校に本当に来たらどうなるのかしら?と妄想を働かせてしまいます。
いつか、見てみたいです!!!(春流)

 

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