愛してますよ、とささやいた。 誰もいない、二人だけの儀式のようだった。朝陽の射し込む、部屋の中のワンシーン。 それが二人の婚姻と、知っている者もいなかった。 高校教師の天蓬と、大学院生の金蝉。 この二人が結婚したことを知るものは、この世の中に多くはない。 しかし、そんなことは幸せと比例しないもので。 多少交通の便がよろしくなくても、二人で公団に引っ越し、仲良く新婚生活を始めた。 とまあ、ここまではありがちな話。 問題なのは、この二人が同性であること。しかも、片や世間知らずで潔癖、片や切れ者だが、妙なところで無頓着。一見うまくいきそうにない二人の結婚は、それでも穏やかに、いくつものエピソードを重ねながら、ゆるりと流れていた。 今回は、そんな二人が結婚して、四ヶ月たった頃のお話。 天蓬が家に帰ってきても、金蝉はいなかった。いつもなら、もうとっくに帰ってきてもいい時間のはずだ。今日は特に、どこかに出かけるという話も聞いていない。 買い物かもしれない、と自分に言い聞かせて、夕食の準備を始める。その時、電話がなった。 「はい」 電話の向こうから、聞き覚えのある声がする。確か、ずいぶん連絡をとっていない甥っ子だ。 金蝉という名前をしっているかと聞かれ、面食らう。なぜかと聞いたが、とにかくこっちに来てくれと言われ、病院名を教えられただけで、電話はきれてしまった。 天蓬はあわてて家を飛びだし、とにかく言われた病院に、タクシーで急行する。 何があったのだろう、あの金蝉に。もしかして、不慮の事故だろうか。しかし、どうしてあの甥がそれを知っているのだろう。連絡先を書いたものでも、金蝉が持っていたのだろうか。 いや、でも、しかし、ひょっとしたら。 傍目にはわからなくても、天蓬の頭の中では、様々な思考がぐるぐると巡っている。 「着きましたよ」 タクシーの運転手への支払いもそこそこに、天蓬は病院に駆け込む。入口の所に、見覚えのある姿を見つけた。 「お久しぶりです」 自分とよく似た容貌の男が、こちらを見て微笑んでいる。 「金蝉は……」 「ちょっと、学校で体調を悪くしまして。今、眠ってます」 二人で金蝉の病室に向かいながら、そんな会話を交わす。 大きな病院だからだろうか、金蝉には個室があてがわれていた。話の通り、眠っている。 「外で、話しませんか?」 姿を見て落ちついた天蓬に、甥がそう、声をかけた。天蓬はうなずいて、病室を出る。 「なんだか、久しぶりですね」 「ええ。ああ、僕は金蝉と同じ大学に通ってるんです」 さりげなく甥は、自分と金蝉との接点を告げた。天蓬はそうですかと答えて、ようやく微笑む。 「大きくなりましたね、八戒」 「子供じゃないんですから、やめてください」 苦笑する八戒を見て、本当に大きくなったものだと、天蓬は思う。最後に会ったのは、確か彼が高校生くらいの時だった。あの頃の彼は、もっとすさんだ目をしていた。 誰も信じないと、体中で叫んでいるかのようで、人ごとだとは思いながらも、痛々しい印象を受けたのを覚えている。 「それにしても、叔父さんが結婚してるなんて、思いませんでしたよ。しかも僕の学友となんて」 くすくす笑いながら、八戒が言う。天蓬もつられて、少しだけ笑った。 それから、心地良い沈黙が、二人の間に落ちた。天蓬はそわそわと病室を見るが、八戒の様子から察するに、どうやら危険な状態ということではないらしい。 「中で、待ってます?」 目を覚ますのを、という八戒に、天蓬はうなずく。 改めて、金蝉の枕元に立つと、いつもよりもう少し顔色の悪い彼に気がつく。いつからだろうかと考えるが、一向に思い出せない。今朝、少し元気がないなと思ったのが、最近の記憶だ。 「……ん」 わずかに身じろいで、金蝉がそっと目を開ける。 「おはようございます」 「天、蓬……?」 寝起きの悪い金蝉は、まだ夢の間を彷徨っているような目で天蓬を見ながら、ゆっくりと記憶をつないでいっているようだった。 やがて、完全につながったのだろう、どうしてここにいるのかという問が、金蝉の口から零れ出る。 「僕がですか? それとも貴方が?」 「両方だ」 「貴方は、八戒がここに運んでくれたみたいですよ。僕のところにも八戒から連絡があったので、来ました」 「八戒を、知ってるのか?」 「ええ。甥ですから」 あっさり言った天蓬を見て、金蝉はわずかに目を見開く。天蓬は苦笑して、気がつきませんでしたかと聞いた。 「……似てるなとは、思っていたが」 言われてみるとしっくりくる。確かに、親戚だと言われた方が納得する容貌はしていた。 「失礼する」 浅黒い肌の医者が、病室に入ってくる。天蓬は丁寧にあいさつして、金蝉の具合を聞いた。 「どうやら、元から体は丈夫でないようだから、2・3検査をしておきましょう。一晩ですむ検査なので、明日には帰れますが」 医者はそう答え、いささかの驚きをこめて、天蓬を見た。 「何か?」 「いや――その、あまりにも似ていたから」 ああ、と天蓬は納得する。外に、八戒がいるのだろう。 「甥なんです」 「……そうですか」 愛想の悪いその医者は、派手なピアスを鳴らしながら出ていった。 「どうでした? あ、おはようございます」 入れ替わりに、八戒が入ってくる。 「一晩、入院だそうだ」 顔をしかめて答える金蝉に、八戒はあははと笑った。 「ちょうどいいんじゃないですか? 時間もできることですし」 意味ありげな笑みを浮かべ、それじゃ僕はお先にと、八戒はさっさと背を向けようとする。 「おい」 金蝉に呼び止められ、八戒が振り向くと、金蝉は体を起こし、しっかりと八戒を見て言った。 「明日、来い」 「――はい」 目の前で交わされた約束に、天蓬は心の中で首をかしげる。この二人がどれほど仲がいいのか知らないが、金蝉がこんなことを他人に言う所を、初めて見たせいだ。 「それじゃ」 八戒の去った病室で、金蝉はため息をつく。天蓬はベッドの端に腰かけて、金蝉の髪をなでた。 「着替えとかいりますよねえ」 「いや、いい。それよりお前、帰らなくていいのか?」 「もう少ししたら、帰ります」 他の教師が休むので、かわりに補習を一回受け持たねばならなくなった、と天蓬が言ったのは、昨日のことだった。補習は明日なので、前もって準備がいるから、本当はすぐにでも帰らなくてはいけないのだが。 「明日は、何時くらいに迎えにきたらいいですか?」 「補習なんだろう? 一人で帰るから、別にいい」 わかりましたと天蓬はつぶやいて、金蝉の額に、一つ口づけを落とした。そして、名残惜しそうに立ちあがる。 「それじゃ、お大事に」 家に着いても、なんだか補習の準備をする気にはなれない。 金蝉は、どうやら天蓬に病院に来てほしくはないようだ。それがどうしてなのか、天蓬にはわからなかった。 補習のことを心配する口調は、別に冷淡なものではなかった。最近、怒らせるようなことをした覚えもない。 天蓬はぼうっと部屋を見まわして、ため息をついた。 金蝉ではない。おかしいのは自分だ。 翌日、補習を適当に切り上げ、まさかとは思いながらも、一度家に戻ってみる。すると、もう金蝉が帰ってきていた。自分の部屋に荷物を放り投げ、台所に立っている金蝉の隣に立つ。 「検査はどうなりました? 体は大丈夫なんですか?」 「ああ。ちょっと無理をしただけだからな。八戒が大げさなんだ」 よかった、と天蓬はつぶやいて、金蝉の作った、カレーとおぼしき物体を見る。カレー粉を入れてはいるので、一応それらしくは見えていた。 「……見たか?」 「何をです?」 「テーブルだ」 「はい?」 そう言われて、居間のテーブルを見る。そこには、きれいにラッピングされた包みが置いてあった。 「今、見ました」 「だろうな」 不機嫌そうな金蝉を横目でうかがって、包みを手にとる。そこにはカードがついていて、「天蓬へ」と金蝉の字で書いてあった。 「あの、開けていいですか?」 「ああ」 そっと包みを開いていくと、そこには一本のマフラー……としか言えないような、長い毛糸の固まり。 「マフラー……ですよ……ね」 濃い茶色のそれは、一目で編み物に慣れていない人間が作ったとわかるもので。 「もしかして、これ貴方が……」 「悪いか」 憮然とした表情で、金蝉は答える。天蓬はいえとつぶやいて、そっとマフラーを首に巻いた。多少、というか大分いびつではあるが、温かい。 「似合います?」 「……下手だな」 くすりと天蓬は笑うと、いいえと頭を振って、温かいですよとささやいた。 「ちなみに、どれくらいかかりました?」 およそ編み物なんてしたことのない人なのにと、天蓬は嬉しくなって聞く。 「ちょうど二月だ。今日できあがったからな」 うまくいかなかったがと、金蝉は夕飯の支度を終え、カレー皿を持って居間に来ながら言った。 「そんなことありませんよ。もしかして、八戒に習ったんですか? 無理をしたって、これのために?」 「ああ」 それでか、と天蓬は合点がいく。このラッピングも、おそらく八戒がやったのだろう。金蝉と共に、悪戦苦闘して編み物を教えている甥の姿を脳裏に描くと、知らず笑みが零れた。 「ありがとうございます。嬉しいものですね、手編みって」 「……そうか」 「金蝉、ちょっとこっちに来てください」 手招きをして金蝉を呼ぶと、そっと抱きすくめる。 「昨日、貴方がいなくて死にそうでした」 「間抜けな死因だな」 「でしょうね。『金蝉不足』ってヤツですか」 なんだそれはと、眉をひそめた金蝉に、天蓬は微笑む。 「大変なんですよ。貴方がいないとうまく息ができなくて」 照れたように顔をそむけた金蝉を、やわらかく抱きしめる。 「好きですよ、金蝉」 「……知ってる」 にっこりと笑って、金蝉を解放する。それからは何も言わず、二人してカレーにとりかかった。汚れてはいけないと、マフラーは丁寧にたたんで側に置いておく。 あまり煮えていない野菜と一緒に、天蓬は幸せをかみしめた。 終 編物する金蝉様。 きっと、絵になると思います。 そして、悪戦苦闘して教えている八戒さんと金蝉様の会話が聞いてみたい・・・。 「金蝉不足」と金蝉さまがいないと上手く呼吸できない天蓬。 そうかい、そうかい、ご馳走様って感じです。(春流) |
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