私が初めて社会人として1/5社に入社したのは、1985年、すなわ ち、バブルの時代が始まった頃。
数々の景気の良い話が新聞紙面を賑わ しており、ご多分に漏れず1/5社の業績も鰻のぼりの時期でした。
もともと給料水準の高い会社だったこともあって、私生活では先輩たちに美味しいレストランに連れていってもらったり、海外旅行に行ったりと、学生時代には味わえない「社会人=おとな」としての楽しい時間を過ごすことができていました。
一方、仕事の面では、最初の数年はどんな仕事も新鮮で、新しい仕事を 覚え、何かをまかせられるということが楽しく、充実感を味わうことが 出来ていたものの、残念ながらその気持ちを長く持続させることはできませんでした。 と言うのも、私は男女雇用機会均等法前に入社した世代。1/5社でも、殆どの女性が2〜5年程度で、結婚やその他の理由で辞めて行くのが当たり前でした。
そのため難しい仕事を女性にまかせようという文化が会社の中には無く、男女差別的なことが悪気も無いまま当たり前のことと して存在していたのです。例えば、入社1年目の男性社員が出席している会議に、私は出席できずお留守番役などということは普通のことでし た。
それでも私は上司に恵まれ、女性社員がやっていなかったような仕事もどんどんまかせてもらえるようになり、それなりに恵まれていたのですが。
そうこうしているうちに先輩たちが次々と辞めていき、7人居た女性の同期も居なくなり、とうとう後輩たちも私を追い越して辞めて行くよう になりました。その居心地の悪さも手伝って、徐々に「私はこのままでいいのだろうか」という思いに、毎日悩むようになっていたのです。
なんのスキルも無いのに給料だけは人並み以上にもらい、優しい上司に 怒られることも無く甘やかされた状態、しかも名古屋という町は中途半端に田舎で毎日の刺激も無い・・・。 このままでは平平凡凡、毎日の退屈さだけをボヤいて人生を終えてしま うのではなかろうかと、だんだん形の見えない不安に押し潰されそうになってきました。
後から気付いたのですが、20代後半という年頃になると、誰でも多かれ少なかれ同じような悩みを抱えることになるようです。ある程度仕事を覚えて自分に余裕が出来てくると、現状に満足したくないという、生まれながらに人間に備わっている成長欲求のようなものが、ひとつの壁となって目の前に立ちはだかるのが、ちょうど20代後半なのかも知れません。
そして、いつしか私は無意識のうちにその現状から脱出するための何かきっかけを探すようになっていました。
そんな時、ふと「そうだ、東京に出てみよう。」という気持ちが頭の中 に閃いたのでした。今から思えば仕事も無く、どうやって東京で暮らしていくというのか・・・それはかなり無謀な考えでした。ただ、当時は バブルがはじける寸前だったこともあり、被雇用者にとって有利な状況が続いていたため、たとえ正社員になれなくても、時給が高騰している派遣社員でも十分暮らして行けるであろうという目論見がありました。
そうは言っても、ただ東京に出て行きたいと言っては親や会社に対する 説得力も無いことはわかっていたので、最初のうちは形の無いぼんやりとした希望だけだったのですが、ある時、雑誌「宣伝会議」を見ていて、 「これだ!」というものを見付けました。 それは、同誌主催の「コピーライター養成講座」。 ちょうど、私が企画・作成した営業用パンフレットの評判が良く、将来この道で生きて行けたら良いかもと思い始めていた時期でもあり、自分がスキルとして身に付けたいと思っていたことと、講座の内容が合致し たのです。宣伝会議には、コピーライターとしての求人情報もたくさん載っていたため、「うまく行けば就職もOKかも」と若気の至りで考えたのでした。当然世の中そんなに甘くは無かったわけで、実際のところ は講座に通い出してすぐに挫折したのですが・・・。
会社 にすごく不満があったとか、具体的なキャリアアップの計画があった訳でもなく、 「広い世の中に出てみたい」 それだけの漠とした思いだけで、私の初めての転職は具体化することとなったのです。

4.私の転職ものがたり・1回目の転職(1)

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