日々是好日・身辺雑記 2005年 4月
(下にいくほど日付は前になります)

 
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四月某日「磁器と漆器と、魔法の粉と」
    
おや、突然の頂き物。 仲良しのおばあちゃんから
「いやー、昔、人からもらったんだけどすっかり忘れてたのよ。 
 私これいらないから、あげるわ。 使ってー。」
と古びた平な箱ひとつ。
なんじゃらほいと開けてみたら、うぉわぁっ!! ボーンチャイナ、それもこれ、
「・・・い、いったいお値段いくらなのぉ〜?」
って、それはそれは美しい、白地に藍色模様のパン皿1枚。
いいや、もらっちゃえ〜♪と、あいかわらずちゃっかり者の私です。
     
私、根来塗りなどの漆器(うるし塗り)も好きですが、陶器、磁器(焼き物)も
大好きです。
日本酒(注:ただいま禁酒中・)呑む時は江戸時代の湯飲み茶碗や蕎麦ちょこ登場。
(骨董市などでバラ物なので安かったやつデス・笑)     
パン食べる時はロイヤル・コペンハーゲンのイヤー・プレート、いちばん好きなの
は1990年版の「冬のチボリ公園」、とてもチャーミングな絵柄です。
しかし、今回頂いた磁器は・・・パン乗せると、ちょっとびびっちゃうかも・・・。
(・・・い、い、いいや、も、ももも、もうもらっちゃったんんだもんっ、使うっ!)
    
「ボーン・チャイナ」の名の通り、昔ヨーロッパでは焼き物の技術が発達していなくて
・・・というより土の質の問題で、薄くて丈夫な「磁器」が製造できず、はるばる中国
から輸入していました。
だから、そんな貴重な磁器は、最初は王侯貴族・ウルトラお金持ちだけのもの。
それを錬金術よろしくヨーロッパの土に混ぜる「魔法の粉」を根気よく追い求めた結果
やっと見つけた素材「ボーン」=「骨」の粉を混ぜて高温で焼いて、ロイヤル・コペン
ハーゲンやミントン、リモージュ、ヘレンドといった名窯が誕生し、今では世界中でた
くさんの人たちに愛用されています。
     
磁器を「チャイナ」と呼んだように、日本からの輸入品、漆器も「ジャパン」とか「ジャ
ポン」だった時代があります。
「チャイナ」と「ジャパン」は、ともに「貴重な品」だったのです。
最初はほんの少しの貴重なものとして遠く伝わり、響き合い、そしてさらに広がる。
シルクロード、大航海時代、そして今、 IT の時代。
磁器や漆器も、絹も、作物も、ペットたちも、香辛料も、料理も。 
音楽も、言葉も、文字も、思想も。 機械、科学、情報も、そう、
なにもかもが、旅をし、工夫され、響き合い、広がり、つながり支え合っている「世界」。
    
ただひとつ「憎しみ」だけは、響きあって欲しくない、広がってほしくないです。
    
この数日間で、あっという間に中国各地に広がった抗日デモのエスカレート。
日本の側でも、心ない人の手によるルール違反な行為が出てしまいました。
チャイナとジャパンの摩擦は、いつおさまるのでしょうか。
      
ボーン・チャイナを遠くヨーロッパの地で生み出したのは「骨粉」という「魔法の粉」。
中国と日本とが理解し合い、支え合い、互いによりよい存在へと進んでゆく関係を産み
出す「魔法の粉」は、さて・・・?
    
         
そうそう、昨年のイベント「江戸桜」では、終り際いきなり金髪碧眼のおねえさんが
カンナサークルのスペースにやってきて    
「ワタシヲ、アナタタチノさーくるニ入レテクダサーイ」
とおっしゃって、あとは英語なもんであたふたしたのでした、私たち。
(だってだって、その場にいただれも英語話せない!?んだも〜んっ・
汗&責任転嫁
      
カンナ、あなたというゲームキャラも、遠く旅して、異国の人に愛されたのね。
あの(おそらくアメリカ人の)お姉さんが見つけだした「魔法の粉」は何かしら。
    
「サクラ大戦」というゲーム、個性的なキャラクターたち。
タイのバンコクで売られてた海賊版持ってる(笑)私ですが、彼女たちはいったい
世界中のどこまで旅して、愛されているのでしょう?
      
もうすぐ(4/29・祝)オンリーイベント、「サクラ万博」です。
私は「魔法の粉」を探しに行きます。
ウチのスペースは入り口右壁列のいちばん端っこです。 新刊出します6年ぶりに。
少しずつですが、過去の本も全部復刻します。(たぶん間に合うでしょう〜! おっしゃ!)
よろしかったら、遊びにいらして下さいな。
サークル名は「帰ってきた抜刀質店」、創業1998年、もはやアンティーク?サークルですが・笑。
     
     

四月某日「春の花飛脚」
    
いやはや参った!    
通院中の車の中で、同乗者の
「ああ、こぶしの花がきれい。 あ、あそこに白木蓮も咲いてる。」
の何気ないひとことに、ホイと外を見やれば・・・・・
ありゃりゃ、こぶしと木蓮の見分けがつかないぞ、園芸マニアだったはずの私が!
おのれの好きなホクシア-「レディース・イヤ・ドロップ・貴婦人の耳飾り」ともいう
(ヨーロッパでは多年草だが、日本では高温多湿な真夏を越すのが難しい・・・)の日本
向け新品種を開発してもらいたいがゆえに・・・・「サカタのタネ」の大株主に、金が
あるなら本気でなりたかった位だから、もはや「オタク」の域やもしれぬ。
     
「どちらも、白く、灯るように咲く、きれいな春の木花なのじゃ。」
で済ましてしまえばいいのだが、やっぱりかつて「『マニア』を自称していた者」の
へんてこりんなこだわりプライドというものは、気持ちのどこか隅っこに残っていた
ようで。 「私も年ねぇ、物忘れが・・・」とおばちゃん風にスネてみたり、「やっぱり
『外傷性部分生史健忘症』(早いハナシが記憶喪失、かつて鉄の橋の欄干の角っこと私の
オデコがごっちんこして、1年くらい何もわからなかったのだ。 や〜れやれ・笑)
の後遺症か・・・」と沈んでみたり。
        
「名前は知らなくても花は花じゃ、いちいちクサクサすんなよっ自分っ!」
と気持ちを持ち直した頃には、こぶしも木蓮も散っていましたとさ。
春という季節の脚の速いこと速いこと。 冬が雪やどりしつつ行く旅人なら、春は飛脚だ。
迷いもせずに、決められた街道を一目散に走り抜けて行く。
      
三寒四温、私の住む街は、昨日は冷たい雨降り。
けがの後遺症が痛くてうまく歩けず、窓辺に這うようにしてにじりよる。
階下の、建物と道路とのささやかな隙間地に花壇。 上の階に園芸好きなおばあさんが
住んでいて、ひまを見ては手入れをしてくれているのだ。
糸のような雨に打たれながら、パンジーが、ビオラが、茂り始めている。
チューリップは、降る雨粒を中に入れまいと花びらの口をすぼませている。
つつじも、サツキもこれからだ。 目を凝らせば、どこか大きな別の草の葉陰に、小さ
な小さな花をうつむかせたたずんでいる慎ましやかなスミレも見つかるかもしれない。
けまん草のうつむいて咲く赤紫や黄色い花も、シロツメクサもこれからだ。
     
まだ、待っていてくれる花がある。
     
春は、飛脚は飛脚でも「ひとり」ではない。
次々とバトンタッチして走る「遠飛脚」のようなもの。
山もあるし川越えもあるし、見晴らしのいい野原や旅人の往来の宿場もあり、長く長く
街道は続く。
    
脚が痛まなくなったら花壇へ行こう、花たちに挨拶しに。
    
窓辺でひょいと首をのばしたら
「あ、あそこの隅に『プリムラ・マラコイデス:サクラソウ科、中国雲南省原産』だ!!
 確かサカタの・・・・品種名は『うぐいす・白』!」
まだちょびっとは、私は園芸マニアらしい。
    
        

四月某日「セナの右手・桜の左手」
    
今月といい、今年の1月といい、なぜか桜の話題がポツリポツリ。
さて今回の雑記は前フリとして2000年4月の雑記「斜め桜」がはいっちゃうんで、
お読みでない方はちょいとクリックしてみて下さい。 
(いいかげんにせい、カラクリ忍者屋敷サイト!)        
      
ご覧になった? はい、じゃ、ここへ戻ってきて下さいな。
     
    
F1ドライバーの名レーサー、アエルトン・セナが亡くなってもう何年になるのだっけ。
あの時は、何となく胸騒ぎがして、ホイとTVをつけたらいきなり訃報の第一報が入った。
(どうしたわけか、私はこーゆーことに変にカンがいい体質らしく、阪神淡路大震災の
時もNY貿易センタービル爆破の時も、「何だか妙な胸騒ぎが・・・」でスイッチを入れた
直後が臨時ニュースの第一報なのである。 このような予知?能力は別にオカルティック
なものではなく、生物学的にきちんと説明できる現象なのだが、それはまた後日ね。)
    
レース中のクラッシュでセナの車は大破、即死だった。
なにしろ無敵の王者の突然の死に、TVはくり返し、その一瞬の映像をスローモーション
で流し続けた。 カメラはずーっと走る車体の後ろをとらえている。
クラッシュ、後ろの座席シートからヘルメットがガクンッと見え、そして彼の右手がハンド
ルを離れ、肩のあたりで左右にただ一度、振れた。
     
     
咲いた桜にーぃなぜ駒ぁつなぐ、ヤレ、駒が勇めばエーェ花が散る
好きな、詠み人知らずの俗謡である。      
            
私の住む東京南部、今年の桜前線は小学校の入学式とかさなるいいタイミングであった。
というわけで、これをカチャカチャやっている今は、桜前線おしまいの週末である。
といっても、「桜前線」って、ほとんど江戸時代の園芸品種「ソメイヨシノ」が九州から
北海道まで咲き上がっていくほぼ一ヶ月のことなんだけどね。
沖縄の「寒緋桜」は1月だし、遅咲きの吉野山上、5月になってからの青森・弘前城の
しだれ桜などなど、日本は本当に
「桜天国」である。
     
まったく、西行法師(「願わくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月のころ」)
と本居宣長(「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂う山桜」)がなかったら、
そして江戸時代という長い平和の期間に起きた観賞用園芸の新品種大ブームがなかったら、
日本はここまで「サクラサクラ」した国だったろうか。
「万葉集」は梅が中心、染め物屋さん用の「日本家紋便覧」(あるのよ、そーゆーのが。)
を見ても、そのほとんどが植物文様なのに、桜の紋はびっくりするほど少ない。
(有名なのは「日本大相撲協会」の紋章くらいじゃないかしらん。)
桜は日本の園芸史上からみると、まだ実はスターになって浅い花なのだ。
人気品種のソメイヨシノは、雨にも風にもウィルス病にも弱く、樹齢も80年ほどしかない。
     
養母の庭に植えられた「斜め桜」もソメイヨシノである。
しかし彼は(「桜の精」は男だそうな・それも美男子)その樹齢さえ全うできない。
遺産相続の都合で、切り倒されるからである。
森を背に、日差しを求めて斜めに長く伸びるほどユニークな根性の持ち主なのに。
     
なまぐさい話はしたくないが、私はかなりやっかいなケースの相続を背負ってしまった。
下手をしたら複数の裁判沙汰、しかもこちらが訴訟人・ 見も知らぬ相手を訴えなければ
ならず、勝訴しても現実問題として
「じゃあハイ。」
なんて即払えるような弁護士報酬額ではない。
こうなったら、あるいはもう全面的に「相続放棄」になるかもしれない。
いずれにせよ荒れ果てた養母の家と庭は、近いうちに更地にしなければならない。
     
とんでもなく長い(96段!)石段の途中という立地の不自由さはそりゃもう大変だが、
それなりに風雅な家屋と庭だったと思う。
今は廃屋・廃園だが。
右手に唐子椿、左は山梔子の大きく茂った入り口、黒土に青みのある飛び石を数歩踏むと
銅葺き屋根の格子戸門。
カラリと開ければ、右手に庭に続く枝折戸(しおりど)、左は御影石敷きで、母屋へと
続く。
家はアトリエばかりを中心にびっくりするほど狭く、220平米の敷地のほとんどが庭。
斜め桜、白梅、青桐に楓、牡丹、あやめ、水仙、浦島草。 描くための、絵描きの庭だった。
これを維持するために、養母の年金はその2ヶ月分、庭師への払いで飛んでいったほどだ。
中学生のころだったか、
「この庭の木を1日1本描いても1ヶ月はかかるね。」
と言った私に
「それを一枝一枝描いているから、1年あっても足りやしないのさ。」
と、養母はニヤリと笑って見せた。 
実際アトリエの天袋には草花の素描帳がぎっしり、いったい何十冊あるのかまだ数えていない。 
思いおこせば養母は、声楽家の発声練習のように、毎日庭の草花を描いていた。     
その庭が、もうすぐなくなる。
    
先週の土曜日、夫とふたり車で養母の家に向かった。
せめて最後の「斜め桜」の花の盛りを、愛でたかった。
丘の裏のコンビニで、「お花見用に」と桜餅とペットボトルの緑茶を買って・・・・・
突然車が駐車場で動かなくなった。 買って15年、故障知らずだったのが。
すぐそばの車屋に連絡して、レッカー車の到着を待って移動。      
夫は、故障の原因探しやら書類手続きやらでそのまま残ることになった。
今の私の脚力では、杖をついても丘に登れない(というか、平地でも無理)
     
「斜め桜の精」は、最期の花見を拒んだのだ。
   
アエルトン・セナはブラジル人だが、その中ではマイノリティーのイタリア系移民だった。
だから面長で色白、美男子だがすこしクセのある、ひょろりと長い鼻の持ち主だった。
「斜め桜」も本来なら日当たりのいい場所に植えられるはずの華やかな園芸品種が、庭北に
植えられてしまった「庭のマイノリティー」だったのかもしれない。
ひょろーりと長い長〜い胴を持つ美男子?な桜の精というべきか。
      
セナが亡くなって、本当に何年になるのだろう、私は何度も事あるごとに、彼の右手を
思い出していた。 スローモーションのそれは、左右にただひと振り
「じゃあな」
のさよならに思えてならないのだ。
    
車屋からタクシーを呼んで、一人で帰った。
「国道16号線、回って行って下さい。」
愛宕・白根不動尊の入り口、Y字路の信号が変ってタクシーは速度をゆるめた。
右側の車窓の外、急な丘の途中、養母の家。 屋根は前に建つ家に遮られて見えない。
が、家の右手、広い針葉樹林の森を背に、「斜め桜」はふわりと白く咲いていた。
タクシーがアクセルを踏み込んで再び加速し、後部シートがゆらっと揺れた。
     
「じゃあな」
    
「斜め桜」は私に、左手を振った。
       
       


四月某日「来世の私は大山夫人」
     
まいったなあ、1ヶ月に2度も乗るもんじゃないね救急車。
ストレッチャーに横になりながら、救急隊員の人に病院の指定とか妙に馴れていて、
あーヤダヤダ。 まあ、前回は意識なくして運ばれて、気が付いたら
「ここはどこ?」(だーかーらーぁ、病院の応急処置室だってばさ)
だったので、自分がどこに行くか分るだけでもまだいいか・・・・。
    
事故ったり気絶したり血吐いたりで、なにかとお世話の救急車&処置室。
そう、あれは5年ほど前の夜でしたか・・・・・     
     
私は頭に包帯まかれて、迎えの車が来るのを処置室で待っていました。
隣りに運び込まれたおじいちゃんは看護婦さんの対応から見て高血圧症の常連さん。
「あら、大山さん、ご自宅で夕ご飯中に倒れちゃったの?」
看護婦さん、大山さんのこと「86才だもん、元気よう」ってはげましてました。
真っ赤な顔で点滴を打たれている大山さん。 いかにも付き添い馴れているといった
風情の、ほっそり色白の奥さん。 点滴が済んだら、今夜はこのまま入院だそうな。
わたしにとって初めての病院じゃありませんでした。
養母、実父(戸籍上は私のいとこでもある)、実母(同・いとこのよめさんでもある)、
親が多いせいもあって私は病院馴れていました。 入院の付き添いを何度もやっていたので。
こんな時は男の患者さんのほうがドキドキ落ち着かないというのも、他のたくさんの入院患
者さん見て知っていました。 
かえって、そばに身内がつきそっていたほうが気が高ぶっちゃうって。
こーゆーときは、自身の不安から気をそらすのが一番です。
     
「奥様、ご主人の点滴もう少しかかりそうですから、いかがですか、ここ出て左に自動販
売機コーナーがありますから、なにかお飲みになっては。
ここには私がいますから、大丈夫ですよ。」
(勝手知ってる病院ですもの)
「そうですわね、じゃ、あなた、私ちょっとお言葉に甘えて行って参りますわね。」
そこはそれ、病院付き添い族はツーといえばカーです。 ここは席を外して、私とのおしゃ
べりで落ち着かせましょ、と察した奥さんはスッと出て行きました。
(夕食の最中に夫が倒れてここまで来たんですもの、一服くらいしなくちゃ。)
    
ふたりきりの処置室で、ぽつりぽつりおしゃべりが始まりました。
大山さん86才。 私、この位の世代の人と会話するの半端じゃなく得意です。
養母が明治40年生まれ、通ってた女子校は高齢の教師と戦前のばあちゃんシスターの巣。
実父母が年がいってから産まれた子供なので、戦前・戦中・戦後やたら詳しいです。
あっというまにおしゃべり花が咲きました。
(ま、当然私は聞き役、「合いの手役」に徹しましたが。)
      
横浜の職人町に生まれた大山さん、親の決めた婚約者がいて、兵役で中国で終戦、抑留
3年。 帰国して、なんとなく気まずくなって婚約解消、今の奥さんとは恋愛結婚。
「そうですよ、新憲法24条『婚姻の自由』の時代ですよ、大山さん!」
(また、こーゆー雑学はよく知ってるんだあたしゃ。ふたりきりなのをいいことに「憲
法24条の歌」なんてのまでひと節歌ってさしあげましたわさ。)
戦後の混乱期、転職繰り返して、一男一女にめぐまれて、横浜市の教育委員会で定年退職。
「あ、じゃ、私市役所そばの「横浜F学園」出身ですから、在学中きっとお世話になって
ますねえ。」なんて。
    
私の迎えが来るまで小一時間おしゃべりしました。
(大山さんの奥さんは、察してロビーにいるのでしょう、席を外したままでした。)
最初は真っ赤な顔をして肩で息をしていた大山さんは、すっかり落ち着いて・・・・・・
ガッバと上体起こしました。
「オレは決めたっ!!」   
「は?」
「来世生まれ変わったら、あんたにプロポーズするっ!!」
さすがハマッ子、このテの決断早い早い。(笑)
あたしゃ気押されて、パッと直立不動、
「ハイッ、来世生まれ変わったら、プロポーズつつしんでお受けいたします!」 礼!!
ふたりで目を合わせてにっこり。
ここでちょうど私の迎えが来ました。
   
ドアの所で、戻ってきた奥さんと軽く目礼して別れました。
    
私、来世に婚約者がいます。 来世は「大山夫人」です。
血圧高めなのが玉に傷だけど、働き者で気だてがよくて、すくなくとも86才まで長寿。
背も高いしなかなかの美丈夫。
    
「私さ、生まれ変わってもあなたと、と思ってたんだけど、途中一人予約入ったから。」
「ああそう」と車のハンドル握る夫。
「その間、気だてがよくて優しくてやりくり上手な美女と結婚しててね。 あたしみたいな。
「あいよ。」
この男(相棒)冗談通じてんだか、いないんだか・・・・・笑
     
ま、来世は「抜刀・大山・質店」の予定な私です。
     
     

四月某日「再版します、『ばんからさんが通る』と『おっぱいがいっぱい』!!」
      
家中大捜索の末、とんでもないところから発掘された「ばんからさんが通る」と「おっぱいが
いっぱい」の生原稿。(ウチの中もうシッチャカメッチャカです・笑)
掘り出してくれてありがとう、相棒!
コピー刷り用に版を組んでいたのを崩して、裁ち切った分台紙に貼って、ノンブル打ち直して、
なんとかオフセット用に組み直しました。 ハイ、本日入稿〜!
ほんのちょっぴりですけれども、「サクラ万博」で再版します。
おまけページもあるでよ(笑)。
    
オフセット版によせてのあとがきをペンで書いていて、思い知らされました。
コピー版の時のような柔らかい線は、もう引けない。「つ」が「フ」になっちゃう。
鉛筆でのリハビリは続けていますが、もうどうやら、ペンで強弱を付けて思いのままに線を弾く
(「引く」じゃなくて「弾(ひ)く」)のは不可能なようです。 
40年近く、私は何をやってきたの。 
描きたい世界があったから、ここまで
やってきたんじゃなかったの。 
利き腕の自由を一瞬で持っていってしまった、事故は残酷です。
片平なぎさの気持ちが分っちゃうぞ〜、「スチュワーデス物語」!
    
「サクラ万博」が終ったら、私は、表現したいものを表現する方法を、探さなければなりません。
今のところやらないかと話が出ているのが「視覚障害者のための朗読ボランティア」。
って、聴覚障害者(軽い)じゃなかったのか、わし?
自分の喉元に軽く手を当てれば、ボリュームやトーンは分るので、不可能じゃないかも・・・・。
でも・・・・「自己(創作)表現」の方法は・・・・先はまだ長そうです。
     
     


四月某日「東京はもうすぐ桜」
    
東京「六義園」のしだれ桜は半部咲きだそうな。
今日、用事で通った目黒川沿いの桜並木は、花見提灯ばかりでコンマ1部咲き・・・?
でも気の早い人たちが、つぼみを愛でつつ酒盛りをしていました。
本当に一重桜はお天気次第。 2〜3日でも雨と風で散ってしまう年があれば、咲き揃ってから
寒の戻りで散りそびれて1週間以上もつ年もあるものねえ。
(八重桜だと花保ちが比較的安定しているのだけれど。)
とりあえず春だから、ちょっとプロフィールをいじってみました。
(大好きな写真家・木村伊兵衛さんのこと、書きたかったの
       
   


四月某日「今日の料理:『抜刀質店』の作り方・いきなり、その3.8」
「秋刀魚苦いかしょっぱいか の巻」   
        
タンタカタカタカタンタンタ〜ン♪ (NHK「きょうの料理のテーマソング」鳴る)
みなさま、こんにちは。
「抜刀質店の作り方・いきなり、その3.8」の時間です。
「いきなりその2」で、最初がいわゆる「作文」じゃなくて「報道文」の基本から
始まっちゃったことは書きましたね、そうです、新聞部の「鬼の 岩平先輩」鉄の指導のもと。
んでもって、いきなり「その4」で「銀座タダ飯酒・・・・・・・おととっ、『話芸』修行物語」。
間の「3.8」は・・・「3.8」はカタイです。
私は文章校正(というか翻訳)をしていました。
1円の得にもなりませんでしたが、父の命令でしたので。
     
インターネットの前、こんなふうに個人がサイトを持つなんて遠い夢だった、パソコン通信の時代。
ニフティの方なら「フォーラム」といえばお分かりいただけるでしょうか。
ひょんな事から、実父がそれをひとつまかされることになりました。
元エンジニア、しかも C@A だのNAT@ だのと特許がなんじゃと働いていた男が、定年後いきなり
農園はじめたんですワ、三宅島で。 
で、「その体験エッセイを書かないか」とさるところからハナシが来ました。
父、書きました。
それは「日本語の」文章になっていませんでした。
    
元・技術屋の彼は、頭の中が、数字とアルファベットと単語、それをつなぐ「て・に・を・は」のみ。
書けば書くほど機械工学論文になりはてていく。(初期のレニを「う〜んとオヤジ」にしたカンジ?)
   
で、いきなりハナシとハシは娘に振られました。
晩ご飯の最中で、わたしゃさんまの塩焼き食べてました。
「おまえ、オレの文章に手入れろ。」
っぅつ
咽詰まりましたわよ、そりゃもう。 むせかえりました。 
背中を詩人の佐藤春夫がポンポンたたきましたね〜、ああ、さんま、さんま、さんま苦いか塩っぱいか。
   
なにしろ父と私の人間関係は最低最悪です。
ここまで仲悪い父娘もめずらしいんじゃないかな。 
いまだに「親子モード」すると双方カチンコチンに緊張するのがよ〜く分かりますもん。
   
それがなんと、校正係やれとな。
この男、何事も命令形です。 言ったが最後、決定です。
    
・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
    
だあぁぁあぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜っ!
とにかく、ハシにもボウにもマルタにも引っかかんねぇっっっっっ!
な日々でございましたが、それでも少しずつ、少ぅしずつ、見えてくるものがありました。
会社に残りゃ、それなりのポジションでふんぞりかえって?いられた男が何で、離島の
荒れ地を開墾して農業をやろうとしているのか。 島のこと、海のこと、緑のこと、人
のこと。 ここまでたどりついた彼の少年時代。 少しずつ、少しずつだけれども、文法
間違いだらけのお堅い学術研究調文の間から、にじみでてきました。
     
そのかわり打ち合わせはハンパじゃない「がなりあい合戦」でしたわよ。
もう、思い出すのもイヤダ。 助詞ひとつ、形容詞ひとつの使い分けで、なんで何時間も
むかいあわなきゃならんのよ、大嫌いな天敵と。
      
しかしその頃、じつは私自身の方も日本語に少し問題がありましてね。
英語じゃなくてフランス語で大学受験やったせいでラテン系の文法で考えるクセがついちゃって
たんです。 寝言までフランス語の動詞活用表暗唱(150ページ位ある)でうなされました。
たとえば「S'ASSEOIR(座る)」の男性三人称複数・接続法半過去型「qu'ils s'assissent」・・・・
(いまはダメよ、フランス語で「ABC・・・・」最後まで言えない。 ああ、教育って無力。)
名詞も形容詞も形容動詞も男性形・女性形、それと、これはフランス語にはないけれど中性形、
動詞の活用型は「直説法」現在、半過去、大過去、単純過去、単純未来、前未来、「接続法」
「条件法第2過去型」「命令法」「分詞法」「不定法」・・・・・・もうなにがなんだか(笑)。
かなりこんぐらかった文法のアナ底にはまりこんでしまっておりまして、
「いったいこれからさき、自分の日本語をどうしよう?」
な時期だったわけですな。
     
んなもんで、父が三宅島からファクシミリ送るなり、東京に来るなりする文章に、毎晩父娘で
ヒタイ寄せて(ツノ突き合わせてともいう)、父の、もはや日本語とすら呼べない文字の羅列を、
見知らぬ方々にとりあえず「エッセイ」として読んでいただけるレベルに持ってゆくべく、
あーでもない、こーでもないと大騒ぎしておりました。
   
とにかくその校正作業を、単行本にして2〜3冊分やったのが、はからずも自分の文章修行
には、なりました。
   
もいっぺんやれっていわれても絶対!イヤダけどね・笑。
   
(エイプリル・フールはフランス語で「4月の魚」。 
 てなわけで「さんま」ネタでいってみました〜笑・でも「さんま以外」はホントの話ですよ。)
    
さあ、楽しい4月を!
         
     


      
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