日々是好日・身辺雑記 2005年 3月
(下にいくほど日付は前になります)

 
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三月某日「にんじんだもの」  
   
下のタイトル肝心の「にんじんの」を付けるのを半日忘れておりました。
こんな日もある。 「にんげんだもの」(みつを)。
「相田みつを美術館」て、まだあるのだろうか?     
    
    

三月某日「にんじんの友よ」
    
なぜ描かなければならないのだろう 
     
なぜ創らなければならないのだろう
      
それは私たちにとってもう30年近い疑問だった。 今でもそうである。
私は漫画家兼イラストレーターになって、利き腕を壊し、それでも廃業出来ないでいる。
友人は大学内部の争いに巻き込まれて、大変な苦労をして、それでも創作の研究現場にいる。  
神さまは1ヶ月ちょうど違いの誕生日、私たちにこの世の「生」をお与えになった。
その時に「人生の履歴書」に「転職用スペア用紙」を添えるのをお忘れになったらしい。
私たちにトラバーユは、ない。
     
前の晩にパソコンのスキャナが反乱を起こして深夜まで夫が格闘し、朝になったらこんだァ
「アルファベット」しか打てなくなっていた。 どこか深部をこじらせてしまったらしい。
「帰宅するまであきらめなさい」と夫は言うが、今朝、今日、書かずにはいられないのだ。
えいくそっ、たかが電気カラクリ箱の分際でっ!!!
私は「彼女」に電話した。 居た。 ラッキー!
パニックを起こしているシロートの私をなだめつつ、彼女は時間をかけ、辛抱強く電話口
で指示して治してくれた。
    
こうして今カチャカチャ出来るんは○川、
あんたのおかげじゃ。
      
先日彼女から「病中見舞いです」と、ころころのニンジン(特産品)と、青木 玉さんの
「上がり坂 下り坂」、清水 義範さんの「大人のための文章教室」が届いた。
青木さんはその他の出版物を全部通販で取り寄せた。(こーゆーときには便利、パソコン)
おもしろい。 上手い。 美しい。 さりげなく品がある。 おすすめである。
清水さんは、今この文章を読んでいるあなたが必要としない限り、私はおすすめはしない。
(とてもいい、実用的な本ではあるが)
ただ友人は
「老婆心・お身体の方も見乍ら、書くことも続けてください」
と添えてくれた。 その「大人のための文章教室」も、もうすぐ読み終わる。
    
だがどうしても、どんなことをしても、私はまだ描くことを自分から切り離せないでいる。
切り離せないことに、どんなに絶望しても。
「描く」ことを「書く」ことで埋めようと、こうしてじたばたあがき、もがき尽くせないでいる。
もう利き腕の指が痙攣して、手が、ひじが、肩が、いうことを聞かなくても。
まだ描きたい。 漫画という「絵物語り」から自分を解放出来ない。
心に転職用の履歴書が、ないのだ。
あんたとおなじじゃ、○川。
私たちは、たぶんそれぞれの川の畔を歩いている。
     
来月の13日は誕生日ね、おめでとう。
毎年私より1ヶ月先に「お姉さん」になってくれて、ありがとう。
大好きだよ。
     
本、ありがとう。 にんじんも。
   
       
   

三月某日「平成版・病床六尺」
   
以前から予定していた入院が取りやめになって(場所おそろしく遠いし、相棒は
海外出張だし、両親三宅島に帰島しちゃうし)、仕方なく家で横になっている。
正岡子規の「病床六尺」はとぎすまされた感覚の空間だったけど、こっちの六尺は、
いかんせん薬で感覚を無理やりおさえこんだ状態なので、色彩があるような無いような、
触覚があるような無いような、聴こえるような聴こえないような、不思議な浮遊感。
   
まだ生きている・・・はずよねぇ、私ってば。    
   
   

三月十二日「Now, it's Show time.」
    
人々は唄う。 人々は舞う。
それは観ているものたちの心をたまらなくとらえてやまない。
祝祭空間の発生というのは、おそらく、きっと、そこから始まっているのだろう。
私たちは劇場へと足を運ぶ。
その美しい、人であって人を越えた、「誰か」たちが創り出す
観る者の心を打つ世界に出会うために。
   
     
世界初のトーキー(音声付き)映画の、出だしのせりふはこうだ。
    
Now, it's Show time.
「お楽しみは、これからだ。」
     
そう、「お楽しみ」は、ここから始まったのだ。
    
3月、私はやっと、待ちに待った舞台を観ることが出来た。
楽しく、しあわせな時空間だった。    
     
     

三月某日「あんが〜ぁ、K地センセエッ」     
    
「指のきれいな男が好き」。
    
まあ、だいたいこう言うわな、最近の若い娘さんは。 確かに繊細そうよね。
「知的労働者」っつーんですか?
だけど太古の昔から近代までは、指も体もごっつい男の方がモテたはずだってば。
だって、どう考えたって生活能力高そうだもん。 田吾作なら開墾して米いっぱい作りそう。
与作なら木ィいっぱい切ってきそう、万次郎なら魚いっぱい獲ってきそう、勘平ならイノシシ
ばかすか撃ってきそう。 お侍なら合戦で首いっぱい獲ってきそう。
    
「指のきれいな男」、しかし、ンなのは近世以降の日本での考え方で、やっぱオトコは「ごっ
つい」方が頼もしい。
侍は合戦で勝ち残らにゃならぬ。 働くお兄さんはたくましいほうがいい。
種の保存の本能の勝ちである。
防衛大学校の卒業記念ダンス(ソシアルよ)パーティーには、気合い入れた美しいお嬢さん方
が集うって、知ってた? 私、入学願書パンフ(資料としてね)取り寄せて知りました。
彼女たち、メイクに、ドレスに、目線に、バリバリ気合い入りまくってましたわいな。
    
「指のきれいな男」、私が見た端的な例ふたつ。
     
ひとりは、横浜に住んでいたころお世話になった自動車整備工場の若いお兄さん。
ごっつくて、節くれ立って、爪にも指先にも真っ黒なオイルが染まりきって、洗っても落ちない
スーツなんか絶対似合わない、でも、働き者のたくましい指。
      
もうひとりは二十代のころ、地下鉄「虎ノ門」駅から載ってきた四十もつれの紳士。
「神の指か」と思うほどスルリと爪先まで美しく光り輝いていたんです。
彼がブリーフケースから取り出して読み出したのは「心臓に関する外科医療業界紙」。
ああ、「虎ノ門病院」の、きっと心臓外科の医師なのね。
代議士が倒れると「虎ノ門病院」に運ばれる率が高いのが、よーく分りました。
きっと腕がいいのよ、「虎ノ門病院」医師の。
    
ふたりに共通していたのは、手の甲から指先まで、指の背に余分な脂がまったく付いていなかっ
たこと。 一流の音楽家、画家、職人と同じ。 節くれだっていようがスルリとしていようが、
指の背が美しかったんです。 鍛錬し続けた、一朝一夕では創れない美しい指でした。
    
さーてさて、ここで問題が。
最近虫歯うずくんだわさ。
主治医のK地先生、家近いし、腕前いいし、治療丹念だし、年寄りにも子供の患者にも優しいし、
しかも父の旧友ときたもんだ。
ところがね、指の背にもっしゃもっしゃ毛ぇ生えているのよ、しかも巻き毛が〜っ!!
花粉症のこの季節、い、息が、息が詰まる〜〜〜〜っ!!     
(かといって、早いこと行かないとなあ、歯医者・・・・・悩み多き季節なんだわさ。)
    
     

三月某日「夜の火の手は近くに見える」
   
夜中に近所で火事があったのは、小学校2年のころだったか。
団地の5階(最上階)しかも端っこという最高のロケーションに住んでいた私たち家族は
北向き四畳半の窓から身を乗り出して火事を眺めていた。
傍らの都道を、何台もの消防車がサイレンを鳴らして走り抜けてゆく。
火元は近く、舞い上がる火の粉さえ見える勢いだった。
   
「お母さん、恐いよ。」
私は母にしがみついた。
母の声は落ち着いて、びっくりするほど穏やかだった。
「だいじょうぶ。 夜の火の手は、近くに見えるものよ。」
   
母が東京大空襲の生き残りだと知ったのは、ずっと後になってからだ。(父もそうだ)
間引き疎開(上野広小路や蔵前のように、防火のための空き地を確保するための強制疎開)
で育った家を離れ、その疎開先も空襲で焼かれ、最後には住む家もなく一家揃って防空壕
で暮らしていた母。
妹も親戚も死んだ。 少女だった母は、夜の火の手を見慣れて育ったのだ。
    
3月10日、「東京大空襲の日」が、またやってくる。
もう60年も前のことだけれども、「夜の火の手は、近くに見えるものよ。」という母の、
まるで少女のような静かなあの声と共に、私の「戦争」は終らない、終れない。
    
火事の翌日、子供たちで焼け跡見物に出かけた。 同級生のYちゃんのお隣の家だった。
木造2階建ては、柱一本のこさず、ただ黒く焼土になっていた。 なぜか「両口屋是清」の名菓
「二人静」の紙箱がこげ残っていた。
真っ黒な、広い(大きな家だった)焼け野原に、どうしたわけか新品のトイレットペーパーが
真っ白く、斜めに走っていた。 不思議な光景だった。
    
ふつう、「焼けこげた街路樹に若緑色の新芽」とかに新生を実感するものだが。
    
なぜ、四角い焼け野原を斜めに横切る真っ白いトイレットペーパーなのか? なぞでは、ある。
    
    

三月某日「世界のはしっこで愛をぼやく」
     
こんなこと書いていいのかしらん。 いいはずよね。 世の中、書いちゃいけないことなんて、
もうたぶんきっと無いはずだもの。 たぶん、きっとね。
   
いや、コトここに及んで(ここってどこさって、ここのコトさね)コトの最中にベッドの上で
天井の木目を数えて時間潰してた、なーんてゆーよーな、そーゆーコトじゃないの。
(うっかり「羊」を数えちゃって爆睡ぶっこかなきゃいいのよ、んなもん。)
    
「愛」なのよ、「愛」、特に「純愛」、この場合タチが悪いのは。
なんかあれって、飲み屋の話題ワースト3に入りませんか?(あとの2つは各自考えるよーに)
「世界の中心で愛を叫ん」でる場合じゃないわいな、まったく。
     
「愛は心の仕事です」って歌ったの、誰だっけ。 異存はないは。
でも、だからといって、日本一億一千万、「愛」を口実にしとりゃせんか?
あまりにも「愛」を神聖視しとりゃせんか?
万能薬万能毒だともいうしね。
   
みんな真面目に「愛」に飢えている。
     
クリスマスに一人で過ごすことにおびえ、恋人とやり交わすブランドものをチェックしている。 
いったいいつ、私たちは足元を威嚇射撃されるトナカイになり果てたのか?
      
携帯メールは恋人たちの体の距離を近づけ、同時に、心を遠ざけもする。
相手に対して「誠実」なのは美徳のひとつだろうが、言質を取るのは姑息な手段だ。
会えないときにこそ「あの人は今ごろ、どうしているのかな」と想いはつのりさえする。
      
子供のためにビデオ・カメラが必須アイテムな運動会からは拍手と歓声が消え(片手だし、歓声
入っちゃうし)、じーちゃんばーちゃんは孫のためにバカ高いTV電話なんぞ買っちゃう。 

そんなに「愛」が恐いのか。
私たちはそのために消費し続けなければならないのか。
見栄えのいい純血種ペットも、除菌のできる台所洗剤も、車も、郊外型住宅さえも、私たちは買
い続けなければならないのか、「愛」という名のもとに。
    
「泣く」ことも「叫ぶ」ことも「嘆く」ことも許されない「愛」。
世界の中心ではなく、はしっこで、ぶつくさぼやいてる「愛」の方が、悲しみが深いこともある。
    
安直に涙を流すことすら許されない「愛」というものが、この世にはあるのだからして。
      
    

三月某日「嵐を呼ぶ学生服!・後編」(あ、中編もありますよ〜。 このすぐ下です。)
(ややこしくて申し訳ありませんねー。下にいくほど日付が前なもんで、いきなり後編です)
   
さて、と、大学合格発表の帰りに入学手続きの書類をもらって、あたしゃ家に帰りました。
で、その日の午後。 父と兄は仕事、母は用事で外出、私ひとり台所で書類書いていました。
と、電話のベルがジャーンッ!!(なつかしのダイヤル式黒電話です。 物もちいいの、ウチ)
「はぁい、もしも・・・」
「スギウラさんっっっっっっ!!!!!!!」
(スギウラというのは私の前の前の苗字)あら、昨日まで聞き慣れた担任のN先生のお声。
「はぁ、こんにちは。 昨日(卒業式)は、どうも。」
「昨日じゃありません、今日です、今日ッ!」
「は? 今日?」
「合格したなら、なんで学校に連絡してこないんですかっ!」
「いや、もう卒業しましたから・・・・・」
「・・・いいですかスギウラさん、たとえ卒業式は終っても、日本の法律上3月31日までは
 あなたは我が校の生徒なのですよっっっっっっ!」
ひょえぇぇえええええ〜、知らなかったよ。 
卒業証書もらったら、それで終りと思っていた単純な私。
んじゃなに、元気のいい生徒さんの多い学校で(いい日本語よね)卒業式の後センコーにお礼
参りするのって、あれ、学校と縁切れてないの?
などと修道院系ミッションスクールにあるまじき発想が頭の中をグルグルと。
    
「とにかく明日、合格報告に、登校なさい。」
「・・・・登校・・・・出来ません。」
「なぜですかっ!?」
「あのぅ、制服、もう着ないと思って、今朝燃えるゴミに出しちゃいました。」
「・・・・・・・・・・・・・・っっっっっっっっっっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
     
かつてこれ以上深い「絶句」を聞いたことがあったろうか、いや、ない。
   
「・・・・・・・・スギウラさん。」(ちょっと息ゼエハア荒かったですね、N先生)
「はい。」
「明日、私服でいいから登校しなさいっ! いいですねっっっっっ!」
あー、めんどくさ。
行きましたよ、翌日、えっちらおっちら片道1時間半かけて(遠距離通学だったの)学校。
そこでのまあ、卒業総まとめのお説教の数々ははしょるとして、です。
    
最後にN先生とフランス語の W先生が一冊の本をくれました。
「森有正・記念論文集」。
なにしろ私、受験勉強するふりして(バレとるがな、んなもん)森氏の「経験論哲学」に夢
中になっていた、学校にとっては「規格外」の生徒、先生ふたりでお金出し合って(けっこ
う高かったもんで、自分じゃ手が出なかったのよ)プレゼントしてくれたのでした。
    
そんなおカタい本、バカな私の役に立ったかって?
ん〜、もう着ない制服よりちょっとは・・・・・たぶん、そこそこに(笑)。    
    
   

三月某日「嵐を呼ぶ学生服!・中編」
(今回「前編・中編・後編」なので下の「前編」から読んでくださいな)
   
さてさて。 大学コンパの日。
私が高校時代の学生服を持っていなかった理由は実に簡単でございます。
捨てたから 
それも卒業翌日。 だって「燃えるゴミの日」だったんですもん。
ボロボロだったんですもん、スカートの裾なんかすり切れて、かぎさぎだらけだったんですもん。
私たち、90人が12年制、60人が6年制っきりの、ホントにバンカラな女子校生でした。
制服だって、不良っぽい長スカートが流行だった頃だってのに、みんなつんつるてんのボロボロ。
「ひざ下丈が望ましい」ってのをクリアするのに、みんな必死でした。
今のマイクロ・ミニの女子高生が聞いたら卒倒しそうだ。 
    
卒業式の翌日。
私は進路が決まっていませんでした。 受験した大学落ちまくっていたからです。
シスター方のおおぼえめでたい子は、校長推薦か学校推薦で秋の始めには進路決定、あとは
のんびり卒業アルバムの編集などしておりました。 私大組も決定。
国公立の発表(これ遅いのよ)を待つ連中も、私立で滑り止め決定済み。
んな中、私ひとり「進路未定」。
フランス語で受験しちゃったんです、帰国子女、ネイティヴざくざくいる中で(無謀だった)。
     
「あ〜、こりゃあかんはぁ〜。」
卒業式翌日の私の第一声。
「浪人しても、これ以上成績伸びるとも思えないしなぁ・・・ 
 専門学校は学費高いっつーし、働くかぁ、こりゃ。」
と、第二声。 ふと壁のハンガーに目をやる。 ボロボロの制服。
「今日、燃えるゴミの日だったなー、どっこいしょっと。」
クルクルっと丸めて、袋に入れて、近所のゴミ集積所にポイッ。
なんの感慨もなく、「歯を磨く」とか「朝ご飯を食べる」という感覚でした。
    
ところが。
朝の10時に最後の大学から電報が。(地方受験者が多い学校だったので、電報くれたんです)。
「ありゃま合格だってさ」
「とりあえず、ウソかホントか確かめに行きましょう」(ここいらへん、さすが我が母の反応)。
掲示板見に行ったら、受験番号ありました。
なにせ元某国連・ユネスコの実験大学、合格者水増しなんて気のきいたことしてくれません。
そのせまいせまいワクの中に、私は
ぽっちり受かりました。
手続き書類を受け取っての、母の言葉。
「学費の安い学校ねえ(なんせ国立大より安かった)、あんた親孝行だは。
 ま、
4年間の長い夏休みと思って、思いっきり遊びなさい。
    
はい、その教えは、忠実に守られました(笑)。
    
しかし、捨てちゃった制服に関しては、もう一波乱あったのでした。
     
     

三月某日「嵐を呼ぶ学生服!・前編」
   
あのぅ・・・
高校時代の制服って(私服の学校だった人は別として)、みなさんとってありますか?
たとえば自宅ではなくても、実家のタンスの上置きケースとか、旧子供部屋の押入の天袋とか
に・・・・あります? 無いとしたら、学校卒業してから何年目位に処分しましたか?
実家の改築の時とか?
    
       
私の、嵐のような大学画学生時代の学園祭。 
これ、三連日、休みなくぶっとおしでやるんです。
オールナイトの72時間。 アパートが近い連中を除いては、数日前の準備期間中から全員学
校に泊まりっぱなし。
真夜中にロックコンサートやらかして近所の住民から苦情来るは(そりゃ来るわいな)、
アトリエの天窓ぶち破って酔っぱらった女子学生降ってくるは・・・高さ三階建分ですぜ・・・
奇跡的に無傷でしたが。 
野郎どもが暴れまくって、一晩で救急車14往復なんて年もあったなあ。
「どなたか血液型O型の人、輸血のため同乗して下さい!」
「お〜ぅ、救急隊員さん、オレの血使ってくれ〜ぃ!」
「O型なんですね!?」
「うんにゃ、おいらAB型〜。 全部抜いてもかまわねーぞぉっ!」
「・・・・・酔っぱらってますね・・・・。」
「いんにゃぁ、シラフでぇ〜いっ! さぁっ! 今すぐ抜きやがれってんだぁっ!」
あんたジャマだから、あっち行って下さいっ! O型の、シラフの方ぁーっ!!」
「オレB型〜!」
「アタシ Aでぇーす。」
「RhマイナスAB型でっすぅ!」
いらんっちゅーとろーが! 酔っぱらいはあっち行かんかいーっっっっっ!!!
(さすがに後日消防署から「困ります!」の抗議文がおいでましましました・アタリマエだ)
    
で、ある年、地獄の「72時間」打ち上げコンパに、いっそ「自前学生服コスプレ」やろうじゃ
ないか、と。 (今のイベントと違って、「コスプレ仕立屋さん」なんていない時代ですよ)
はっきりいって「72時間完全徹夜打ち上げ」は「発狂集団ええじゃないか騒動」です(笑)。
でも、やらかしちゃう。
どうにもこうにも、バカだったから、私たち。
    
日本全国、東北から、九州から、郵便小包で(郵パックなんてなかったのよ!)宅配運輸便で
(宅急便なんてなかったのよ!)届くは届くは、かつて自分たちが着ていた学生服。
まだ男子は詰め襟、女子はセーラー服が大多数派だったころ。 
一律「樟脳・ナフタリン臭い」。
「匂いのしな〜い『ムシューダ』♪」なーんて高値の花だったんですから。
     
卒業ン年、みんな結構とっておいてるもんなんですね、学生服。
北国の詰め襟は厚ぼったい生地で、南国のセーラー服は軽やかなスカートで。
そのまま駅前の安飲み屋になだれこんで・・・・ホントだったら集団補導・・・なわきゃないっ!
なにしろモヒカン刈りあり、留年7回目のひげ面あり、茶パツのカーリーヘアーを無理に結った
これみよがしな巨大ピンクのリボンつき三つ編みあり。
この連中を「ホンマもんの高校生と思え!」
というほうが無理です。
シュールな(ものは言いよう・阿鼻叫喚な)光景でしたよ、そりゃもう。
セーラー服の美人美少女とは、もはや呼べない)お姉さんが
「すいませーん、モツ煮3人前と、あと、しらすおろしに、ホッケ2人前ね〜っ!」
なんて、馴れた口調で店員さんに叫んでるんですから、くわえタバコで。
     
さて、そんな中で、私はドカジャン(クギ付き)に工事用安全ヘルメット、破れジーンズにコン
バースのバッシュ(爪先とかかと底に穴があいていた)姿で呑んでました。
学生服はいずこ?
    
その理由は、また次回。
(おお、今回初の前・中編・後編じゃわいな) 
    
 

三月某日「さあ、三月です!」
     
胆石も薬でだいぶん小さくなってきたのかな? 
ここ数日、体が楽です。
医者にゆく道すがら、気が付けばもう紅梅白梅ほころんで、しみじみと美しい。
梅は「ほころぶ」さくらは「咲く」椿は「開く」。
梅は「こぼれる」さくらは「散る」椿は「落ちる」。
四季のある日本では、花一輪ですら「ブロッサム」では言い表しきれない、喜びがあります。
    
今年ほどこの春の月を待ちわびた年はありませんでした。
   
急性肝炎が再発してから72時間は、真剣に「死」を意識していましたし、その後も、胆石と
いう「居候」が体の中で同居。 その発作と共存しつつ、養母の遺産(額はどーでもいいけど、
血縁関係と相続形態があまりにも複雑すぎて、下手したらこの
アホンダラな私が訴訟3件抱え
なきゃなんないのかい〜っ!?ってとこまで追いつめられました)
かててくわえて日本画家であり書家でもあった養母の人間関係の整理・・・・・
あー、いま自分で書いてても、心でゲロ吐きそうじゃわいな(笑)。
     
そんな、ぐっしゃぐっしゃな毎日の、心の支えは
「それでも、かならず三月は来る!」
でした。
   
観たい舞台があり、逢いたいひとがおり、少しでも体良くなって、歩きたい街があり。
花粉症のくせによくゆーよー(笑)なのですが、鼻をかみかみ、春の日差しの中、自分の脚で
街を歩きたい。
   
2月28日と3月1日、たった24時間経過しただけ。
    
でも、3月の訪れは、心にとって特別な喜びなのです。
    
みなさまも、よい3月を。
    
     


      
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