ベネズエラ水害報告その2(2000年2月)


2月19日(土曜日)

CHICHILIBICHE バレンシアから車で約1時間ほど行った所にある海岸沿の街、FALCONとCHICHILIBICHEに行った。この地域は特に大きな被害を受けたというわけではないが、海岸に大量の木々、崩れた家のブロックなどがたまり、海の水も汚染されたところだ。ここは有名な観光地だったが、今回の被害によって、観光客が減り、多くの人々が生活に困っている。また、このあたりは漁業も盛んだったが、水害で海が汚染され、この国での魚の消費量が70から80%も減ったため、多くの漁師が生活に困っているという。そこで、政府が資金を出し、この地域の海岸を早急に掃除するというプロジェクトが始まり、既にほとんどの地域が掃除されていた。
 海岸にたまった大量の木々やブロックが、カラカスの近くの海岸地域にある村、LA GUAIRAから流れ着いたそうだ。LA GUAIRAとこの海岸までの距離は200km以上あるというから驚いた。


2月20日(日曜日)

 首都CARACASから車で30分〜1時間ほどの所にある被災地、LA GUAIRA、MACUTO、LOS COLARESに入った。ここは予想をはるかに越える、ひどい状況だった。今回の水害はほとんど山がそのまま崩れるような巨大な土砂崩れを引き起こし、町々は大量の土砂と巨大な石に襲われた。かつて町であったところは、見渡す限り大きな石しかない広場といった様相で、その隙間から石に潰された自動車が何台も見られた。家々の多くは土砂と一緒に海に流されるか、土砂に埋まるかして完全になくなり、運良く残った家々にも、1階部分には大量の石が詰まっていた。多くの人がこの大量の土石の下に埋まっているが、その数ははっきりせず、十万体の遺体が埋まっているという話もある。
 山腹に立っていた家々も多くが土砂と一緒に流されたが、山腹に住んでいる人の多くはとても貧しく、不法占有という形で住んでいたため、ベネズエラ政府はいったい何人の人が住んでいたのか、何人くらい亡くなったのか、見当がつかないという。
 今日、この被災地の様子を見るまでは、比較的まともな生活を送っている被災者を見ていただけだった。今日初めて、このベネズエラを襲った恐怖の凄まじさを理解した(写真レポートを参照にしてください)。


2月21日(月曜日)

 お世話になっているNGO、FIPANの方が、講演会に招待してくださったので出席した。講演のテーマは「緊急援助活動−今回の災害で学んだこと」といった感じだった。軍、NGO関係者、政府の社会福祉関係の役職についている方など5人、特別ゲストとしてIAF(International Association of Facilitators)の方2人が講演した。
 皆口々に「緊急事態に対してほとんど組織作りができていなかったので、今こそ、緊急事態に対応できる組織作りを作っていかなければならない」ということを言っていた。また今後の援助活動に対しては「被災者に対する精神面のケアが大変重要だ」ということなどが話題に上っていた。IAFからの講演者はコロンビア地震、トルコ地震、台湾地震の際も援助活動に実際に参加されていた方で、彼の話は非常に勉強になった。しかしどこにでも軍がいる。
 ベネズエラでは約1年前に軍人出身の大統領が就任して以来、軍人の給与が大幅に上がったり、軍人の特権ができたりしている。また彼は5年だった大統領の任期を13年まで延ばした。いわば今のベネズエラは軍政下のような状態で、今回の水害に際しても、NGOもメディアも、軍の許可なしに行動をすることができなくなっている。


2月22日(火曜日)

 今回の水害で被害がもっとも大きかったのは、CALAYACAという町からCARACASまでの海岸線で約100キロメートルの間にある地域だ。その地域のうち、私はCARACASの空港周辺からTENAGUARENAまでの町々を見ることができた。TENAGUARENAより先はいまも立ち入り禁止となっている。
 ベネズエラ全域の避難所にいる被災者のほとんどはこれらの地域に住んでいた人達だ。この地域には貧しい人が多く、山腹の不安定な場所に無理に家を建ていた。そのため土砂崩れを防ぐ木々はほとんど切られ、ただでさえ地盤は不安定だったのだが、そこにたった2日間で1年分の雨が降るという事態となり、ほとんどの家々が土砂と共に崩れ落ちていった。運良く崩壊を免れた家もあった。電気もガスも水道もストップしていたが、それらの家で貧しい人々は暮らしている。他に移りようがなく、結局どんなに危険であってもそこでしか暮らすことができないのだ。
TENAGUARENA  TENAGUARENAの町ではこの町出身のMIGUEL ANGEL氏に案内をしてもらった。ANGEL氏の暮らしていた地区(写真左)には213軒の家があったのだが、全部が土砂に流されるか埋まるかし、67人が死んだ。海に近いこの町はリゾート地でもあり、上流、中流階級の人々の別荘も数多くあったが、ほとんどが土砂で埋まり、数階建てのマンションでは1階〜2階部分は土砂が詰まっている状態だった。
 この町のさらに6〜7キロ奥にはCARMEN DE URIAという町がある。今だ立ち入り禁止だったため入ることはできなかったが、この町では人口約6000人のうち2000人〜2500人が亡くなったという。

 MIGUEL ANGEL氏の話によれば、アメリカ政府が約800人の兵隊を復興支援のために派遣しようと申し出たところ、ベネズエラ大統領がそれを断ったという。それで市民の反発を買ったが、大統領はアメリカ兵800人がする仕事を、ベネズエラの人々、水害で職を失った人々にやらせたかったようで、実際、私の見た海岸地域では政府に雇われた人達が町の清掃をしていた。
 これらの地域の海岸は、山から流れてきた土砂によって埋め立てられ、ひどいところで30メートル以上海岸が遠のいた。また通りや建物の中の土砂を海に捨てているのでさらに海がどんどん埋め立てられている。後々にはそれらの土砂を山間部に移動させる予定ではあるらしい。


2月23日(水曜日)

 CARACASで『アビラ亭」という日本料理店を経営してる竹内さんという方と一緒にCARACASから車で約1時間ほどのところにあるMIRANDAという町に行った。この竹内さんとは数日前にお会いし、そのとき「軍の入っていない被災地はないか」と訪ねたところ、すぐに知り合いの方に連絡をとって下さり、このMIRANDAには軍が入っていないことを調べてくださった。そのとき、私は、「その被災地には入れないか」、「被害状況や被災者の様子を説明してくれる人はいないか」、など図々しいお願いをしていたのだが、今日、MIRANDAの知事の秘書官と会えるよう手配してくださったのだ。秘書官とはいろいろな話ができたが、実際に見てければわからない。そこでその旨を伝えたのだが、秘書官と会った市役所から最も近い被災地まで3時間もかかること、秘書官にも仕事があり案内できないこと、もちろん竹内氏も夜は仕事であることなどのため、結局現地を見ることができなった。これが本当に心残りでならない。
 秘書官の話によれば、MIRANDAで最も被害が大きかったのはSANTA BARBARA、SAN FERNANDO、EL GUAPOという町で、これらの町の上流にあったダムが決壊し、多大な被害がでたという。土石流ではなく水に襲われたので、死者は少なかったというが、この地域のほとんどの人が従事していた農業、牧畜が壊滅的な被害を受け、現在住民は生活の手段を失っている。またダムの崩壊で水道施設が破壊され、日用的に使う水の確保も問題となっている。
 このMIRANDA州の知事は、軍の介入を拒んだため、政府の援助がまったく受けられていない。しかし、海外からの援助、ベネズエラの私企業からの援助を受けている。現在、ベネズエラのNGO、スペイン、スイス、アメリカのNGOが同州で活動している。スペイン赤十字は医療活動以外に水によってダメージを受けた学校や病院の再建、イスラエル、アメリカのNGOは水道施設の修復、井戸の設置などの支援を行っているという。 秘書官の話では、すべてがで駄目になってしまった農産物が再び収穫できるようになるまで、被災者への食糧、水の援助が必要だということだ。


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