ベネズエラ水害報告(2000年2月)

 2000年2月、金井優子がベネズエラ水害緊急救援委員会の要請でベネズエラ水害の実地調査に赴きました。以下、その報告です。
尚、写真レポートもご参照下さい。


2月16日(木曜日)

 午後四時ごろ、空港でベネズエラYMCAのFELIX氏と会い、首都カラカスの中心にあるYMCAの建物へ向かう。空港は海抜0メートルのところにあり、カラカスの中心部は海抜約900メートルにある。カラカスは盆地で、中心をはずれると平地を探すことは難しく、たくさんの小さな家が山の斜面にひしめいている。カラカスの人口の約60%〜70%の人々は貧しく、そういった貧しい人々がこれらの家々で生活しているのである。剥き出しの山肌に掘建て小屋と呼んでも良さそうな家々がへばりついている様は、ちょっとした雨でも地面ごと家が崩れ落ちてしまいそうなほど危うく見える。
caracas  そして実際、今回の豪雨で山の斜面のあちこちで土砂崩れが発生し、まずこれらの貧しい人達が被災した。 空港から町までの幹線道路は水害の起こった昨年12月末は土砂に覆われまったく使用不能だったそうだが、今は回復している。またカラカスのの中心部に行く途中、カラカスの中でも比較的被害の少なかったという被災地域を通ったが、小さながけ崩れが起きていて(写真右)、流された家々の残骸が、土砂にまみれて放置されていた。
 地盤がいかにも弱そうな斜面に肩を寄せ合うように建てられている家々は、次にまた大雨が降ればすぐにがけ崩れを起して崩れてしまうのではないかと思われる。貧しさのために強いられた生活環境が大きな被害を生み出したであろうことがうかがえる。  ここでもホンジュラス同様、貧しい人がさらに貧しい状況へと追いやられていると感じた。 (今日はFELIX氏と今後の打ち合わせをしただけで被災地に入らなかった。)


2月17日(金曜日)

 午前中、ベネズエラのNGO団体 FIPANのオフィスに行き、彼らの案内でカラカスの街中にある避難所のひとつ、SIMON RODRIGUEZ避難所(以下SR避難所)を訪ねた。ほとんどの避難所が軍の統制の下にあり、このSR避難所も同様で、ビデオ撮影にも許可が必要だった。
simon rodriguez  この避難所では54家族が比較的良好な状態で生活をしていた。部屋は8畳程度の広さで、ひと部屋に最高で8人までしか入れないという規則があるため、比較的ゆったりとしたスペースで生活ができ、衛生状態も良かった(写真右)。こちらから緊急の援助を行う必要性はまったく感じられなかった。衛生状態も悪く、狭い部屋に押し込められ、最低限の生活権さえ守られていないような避難所もあるようだが、そういった避難所を見ることは難しいようだ。避難所を管理する軍は、そのような避難所への見学の許可は出さないというのだ。しかし、私は、そういった最低レベルの生活をしている避難民の姿こそを調査したいので、YMCAのFELIX氏に許可が取れるよう努力をしていただいている。うまくいけば来週には許可が下りるという。
 午後は避難所で活動をしているNGO団体のスタッフに会い、話し合いをした。彼らは避難する際に離れ離れになった家族を引き合わせるための活動をしている。被災直後、軍がヘリコプターなどを使って被災者を避難所に輸送する際、男だけ、女だけ、子供だけのグループに分けて避難所に入れたり、避難所で親の留守中に勝手に子供だけ別の避難所に移送したりしたため、家族がばらばらになってしまい、推定6000人の子供が消息不明のままだという。このNGO団体では、聞き取り調査などを行ってそういった子供たちのリストを作っているのだが、まだ話すこともできない乳児も多く、リスト作りは困難を極めている。私は「マス・メディアを利用してはどうか」と提案したが、いまのベネズエラではマスメディアも軍の統制下にあって、大変難しい状況だという。
 何か良い考えがあれば教えて欲しいのですが。
 このプロジェクトは非常に興味深いものを感じている。しかし、軍の統制というのは良そう以上に問題があるようだ。私にとってのいま一番の課題は、ここでどんな救援活動ができるかどうかを見極める以前に、いかにして本当に苦しんでいる被災者の生の姿をこの目で見るか、ということだ。


2月18日(金曜日)

 首都CARACASからバスで2時間半程行ったところにあるVALENCIAという町に行き、ここの二つの避難所を訪ねる。一つ目はFUERTE PALAMACAY避難所。
 ここは陸軍の基地の中にあり、以前兵士達が寝泊りをしていた建物四ヵ所に約1400人の被災者が住む。4〜5畳程度の広さの部屋に最高で大人4人(子供が入ると5人になる場合もある)が暮らす。食堂、医務室、幼稚園、小学校、中学校、共同のトイレ、シャワー、テレビを見る場所、洗濯場が四ヵ所の建物語とにある。すべての被災者は軍の作ったIDカードを持ち、カードにはIDナンバー、名前、以前住んでいた場所、今いる避難所の名前が書かれている。食事、乳幼児や妊婦のための特別食、トイレットペーパーなど、薬などが無料で提供され、それらの物資はベネズエラ政府からと海外からの援助物資でまかなわれている。
 トイレ、シャワールーム、食堂、寝室すべての場所で衛生管理が行き届いていので、伝染病などが発生する危険は少ないと思われる。食事は軍人によって作られている。私が訪れた際には衛生士によって歯に関する青空教室が開かれていた。他の病気に関する青空教室も行われているという。医務室は赤十字の管理下にあり、それ以外に軍の病院が敷地に内にあって避難民はそこを利用することもできる。歯科、小児科、外科、精神科などがあり、薬も十分にあった。被災者の入院患者は約10名おり、ほとんどが子供だった。敷地内には学校など子供たちのための教育施設もある。そのうち、被災者のための幼稚園を見せてもらったが、「ちょうど子供たちが休憩しているときだ」などということを言われ、授業風景は見ることができなかった。しかし、私がそこを訪ねたのは午前中で、3時間以上もいたにもかかわらず、まったく授業風景に遭遇することができなかったのには少し疑問を感じた。

PARQUE RECUREACIONAL  もう一つの避難所はPARQUE RECUREACIONAL SUL という。 もともとは大阪の万博公園のような公園で、その中の大きな建物に約1000人の被災者が生活していた(写真左)。
 被災者は男女別の大きなホールにシングルベッドが並べられ、プライバシーはまったくない状態で生活をしている。男性の部屋には入れなかったが、女性の部屋では家族、親族がかたまり、布などでベッドの周りを囲んでプライバシーを守ろうとしていた。6〜7歳までの男の子供は、母親と一緒に生活できる。すべての被災者が、この避難所を指揮する軍によって作られたIDカードを持っている(名前、ID番号、性別、年齢が書かれている)。病院が設置されていて、常に4人の医師が常駐している。不定期ではあるが、それ以外の医師も診断に来る。ここには小児科、外科、婦人科、歯科、精神科がある。
 また、それ以外に食堂、テレビを見る所(4台のテレビがある)、シャワー、トイレ、学校(幼稚園から中学校までがあり、計8人の教師が働いている)、電話(公衆電話2台あり。1人1日3分、ただで使える。携帯電話1台あり、無制限で使える。全て、企業からの援助)が設置されていた。
 1日3回の食事、子供、妊婦の特別食、すべての日用品、薬が無料で与えられ、手に職の無い被災者のために、仕事が見つかるよう美容師、大工、などといった教育を与えるための組織がある。軍の指揮下の下衛生管理が行き届いている。夜は軍のほか、2人の警備員が警備を行っている。

 軍関係者によると、政府は被災者たちのために家を建設するプロジェクトが予定していて、このバレンシアでは3500軒の家が建てられるという。プロジェクトの内容は、

・2から3室の部屋+食堂+居間という間取りの家を建設。
・テレビ1台、台所用品1セット、最低限の家具を支給。
・はじめの2ヶ月間は食事を支給。
・家賃は、最初の1年間は無料だが、その後20年かけて月20,000〜30,000ボリバル(約4〜5万円)を支払う。

 というものだ。  また無料で住むことのできる最初の1年間のうちに仕事を見つけられそうにない人達のために裁縫、大工、美容師などの職業訓練を受けられるサービスを始めるという。
 プロジェクトは全国的に展開され、すべての州で同じ形式での家の供給を行うわけではないが、バレンシアでは上記のようになるという。
 しかしこれらの家に多くの被災者達が住むことができるとは考えにくい。貧しい人々に毎月20000〜30000ボリバルを払うことは不可能だからだ。これは噂だが、それらの住宅の一部は軍関係者のものになるともいわれている。

 今日見た避難所では、全てが軍の指揮下の下にあるため、衛生面などでは問題がなく、また、暴動が起こるようなこともないだろう。ここでは軍の力が強いため、皆が軍の指揮に従っている。しかし、どこに行ってもいつも軍人が私の後をついてくるため、被災者に色々話し彼らの本音を聞こうと思っても、被災者は、いつも私の後ろにいる軍人の顔色を見てから答えるため、彼らの本音が聞けないように思える。また、それぞれの避難所を仕切る軍人に色々質問しても、皆、「すべての被災者が良い状態で生活を送っている」「何も足りないものはない」「全てを我々軍が統括している」といったように、決まったことしか言わないので、彼らが私に見せてくれた施設、話してくれたことがどれくらい機能しているのかが分からない。軍にコントロールされている地域でのNGOによる援助活動の難しさをつくづく感じた。
 また、全てが軍人によって行われ、すべての物が軍から支給され、おまけに家も支給されようとしているということが、人々の意欲をそいでしまう危惧がある。多くの人が働こうとしていない、という状況が既にある。もし、いざ働こうと思っても、貧しい人々の多くは、特に手に職が無いため、今から職を見つけることが大変難しい。しかしまだ、この問題に被災者の多くは直面していない。これも、軍のもと保護されているからだ。しかし、このままでは、軍の下を離れた時、彼らは自分達の生活を維持することができなくなり、大変な問題が出てくるだろう。
 また、多くの避難所が首都から離れた地域にあるが、多くの被災者は、首都、もしくはその周辺に住んでいた貧しい人々だ。彼らの家は崩れてまったくなくなり、地盤が緩んで危険なので再び同じ場所に家を建てて住むことが大変難しくなっていること、カラカスには平地が少なく、既に余りにも多くの人口を抱えていて、土地を失った人々にはもう住む土地が無いということで、どうしても他の場所に移動せざるをえないという状況だ。しかし、首都にはどんな貧しい人でも、何とか生きていける手段があるため、多くの人がカラカスから離れたがらなく、今にも崩れそうな不安定な場所に再び危険を冒して戻りつつある。このような状況では、今後再び雨が降った時、また大きな被害が出る可能性がある。


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