AYUCA・土屋敦の現地報告日記2

 現地で活動している当会・土屋敦の日記です('99年2月12日〜2月25日)。

 この日記は土屋が個人的につけていたものです。支援活動と直接関係ない部分が多い上、意味の分かりにくい部分も多々あると思いますが、ご了承下さい。


2月12日(金)

 今日、すでに、シリンでノートが配られるであろうことがトルヒーヨで知られていた。(しかも僕が配るということになっていた)噂が広まるのは早い。
2時ぐらいから停電。昼寝。4時頃にビクトルの家に行き明日の集会、種の配布について話し合う。  夕食もごちそうになる。クラリータは頭が痛いそう。ちょっと心配。
 帰宅後、懸案の報告と滞在延長のお願いのメールなど書く。延長の覚悟が決まった!
 夜けっこう強い雨が降り続く。明日行けるだろうか、とても不安である。晴れるように!。
 11時40分就寝。


2月13日(土)

 6時30分起床。雨は止んでいる。7時過ぎビクトルの家に行き、バスで途中まで行き、そこでヒッチハイク。今日もなかなか車が来ない。今日は生きた鶏たちと足踏みミシンと7人の子供たちと一緒。プランチャは道がまだあったが、道がぬかるんで坂を上るときは車から降りなければならなかった。
 ドス・ボカスから車が全然来ない。結局ブエルタ・グランデに先に行くのはあきらめ、ミラ・モンテまで歩く。ようやく10時にミラ・モンテに着く。
 意外にも多くの人が集まっている。みんなの切実さが違うのか。
 さらに人が来るのを待って10時30分頃集会を始める。
 最初にAYUCAの説明をして、次に家の数、家族構成、家の被害状況などを個別に確認する。30戸の内約20戸の人が来ていた。高出席率。ただまだ抜けている人がいるかもしれない。
 そのあとコミュニティを組織するかどうか、参加者に決めてもらう。ビクトルは演説がうまい。

ビクトル 「なぜドス・ボカスにもアグアンにも、ブエルタグランデにも援助が来るのになぜここに来ない?」
村の人々 「コミュニティがないからだ」
ビクトル 「なぜ、援助物資はすべてここを素通りして行くのか?」
村の人々 「コミュニティがないからだ」
ビクトル 「なぜ学校も井戸もここにはないのか?」
村の人々 「コミュニティがないからだ」
ビクトル 「じゃあ今コミュニティを作るかどうか、今決めたらどうだ」
村の人々 「今決めよう!!」

という感じで盛り上げて行く。
 とりあえず、代表や副代表、書記を推薦と投票で決めて行く。学級委員を決める小学校の学級会を少し思い出した。
 みんな投票をよくわかっていなくて、挙手で決を採ったのだが、たとえば代表に三人の候補者がいると、みんな3人ともに手を挙げてしまう。この中から一人だけに決める、といっても決められないらしく、やっぱり3人共に手を挙げてしまい、「一度挙げたらもう手を挙げてはいけないんだ」と言うと、手を引っ込めるので、結局投票はすべて最初に読み上げた候補者が選ばれた。
 その後、ハリケーン後の様子やどんな援助が来たかなどを聞く。アグアンやドス・ボカスで食糧をもらったり、ラミナを少しもらって持っている人はいるが、ここミラ・モンテに来た援助はない。コミュニティがないことと、家がなくなり、10家族ぐらいを除いて今ここに住んでいないことが理由か。
 それから援助物資でお金を取っているのは運んでくる連中らしいことがわかる。
 どのような形の援助にするか、明日金井さんと相談しよう。向こうは向こうで考えてくるはずだし、水曜日の話し合いでもうすこしつっこんで話そう。
 水曜日はアグア・アマリーヤに8時に彼らが迎えに来てくれることになった。この非常に協力的な様子は、それだけせっぱ詰まっているのだろう。
 12時30分ぐらいにようやく終了、と同時に大雨が降ってきた。ガリン氏がブエルタ・グランデまで連れていってくれるといっていたが、あきらめる。
 トルヒーヨにエビや魚を売りに行く車をオスカル氏がつかまえてくれたので、それで帰る。行きは鶏と、帰りはエビと一緒。
 昼食は鶏肉を食う。久々の肉。豪華な食事。39lps。午後はずっと雨。


2月14日(日)

 カスティージャに行く。素朴な漁村で、先端に海軍とスタンダード・フルーツカンパニーのある立入禁止の建物と敷地がある。途中の道は両側の木々が完全に枯れてしまっていた。
 6時過ぎから停電。仕事を中断。暗闇の中食事を作って食べる。7時30分頃、金井さんが戻ってくる。8時頃電気が来る。
 夜また、メールが送れなくなる。11時頃就寝。


2月16日(火)

 朝7時起床。メール送受信など。8時過ぎブエルタ・グランデに行く。プランチャまでは電波ニュースの方の車で。ものすごく助かる。有り難い。いろんな家々を訪ねる。家の建築状況のチェックとビデオ撮影など。家はまだまだ造られていない。木を切り出すのに時間がかかっているよう。それでもブロックなどを入手して建設中の家もある。ここ最近の雨でまた村内の一部は湿地のようになったことと、またプランチャの道が分断されたことも家の建築が遅れている理由。
 しかし、トタン板を手に入れたことが、彼らの家を建てようという気持ちをより積極的なものにしているのは確かなようだ。トタン板が村再建のモティベーションになってくれれば。
  今日の集会の予定は予想通り、伝わっていなかった。そのかわり、「水曜日、ミラ・モンテでの集会に皆来るように」という間違った情報が伝わっていた。あぶなかった。
 皆に木曜日に種についての集会があることを伝える。
 労働の代わりに手に入れられる食糧が非常に質が悪く、トウモロコシも米も粉のようになったものだという。「働いた結果、家畜の餌のようなものしかもらえない」と憤慨していた。
 帰りはヒッチ。最近はよくオスカルの車にただで乗せてもらう。ものすごくいいやつ。
 夜は電波ニュースの方のおごりでグリンゴズバーに。初めて。高い割に量が少なく、観光地にありがちな店だった。それでも久々の(本当に)豪華な外食。こんなおなかいっぱいになったのも久々。ビールも10日ぶりぐらい。嬉しい。


2月17日(水)

 ミラモンテで集会。すごい人数が来ている。来た人の中には、アグアンで家がつぶれ、これからミラ・モンテに住みたいという人も多く来ていた。
 早足で壊れた家を見て回る。被災当時と変わらぬ悲惨な状況におどろく。ほとんどの家が完全につぶれていた。ミラモンテ地区は意外に広く、道からはまったく見えない場所に沢山家があった。ユッカの挿し木と、若いプラタノが点在していたが、収穫まで9ヶ月から1年ほどかかるよう。どういうわけか、皆がぞろぞろとついてくる。ガリフナの人たちは明るいのがいい。皆マチェテ片手に、途中で椰子の実やクラントロという香草、ホップに似た植物などを拾いながらついてくる。みなスープに入れるそうだ。つぶれた自分の家の前で写真を撮るとき、皆満面の笑みを浮かべてポーズをとる。もちろん、時間が経った今だからこそだろうが、すべてを失っても、笑顔を見せられる強さに感服した。彼らのように自分たちで何かをしようとしている人たちに対しては、特に何か手伝えたら、と思う。
 予想以上に多くの家があったので、金井さんに非難の目を向けられる。ごめん。結局道からアグアン川の側のチェックしかできなかった。
 グラナダで食事。昨年、ただの旅行者としてこの町に初めて来た日、ここで食事(ソパ・デ・カマロン)を食べた。そのときはまさかこの国がこんな被害にさらされ、自分が今のような立場で戻ってくるなんてまったく想像できなかった。


2月18日(木)

 ブエルタ・グランデで野菜の種子配布の集会。その準備のため朝、トマト、ピーマン、ラディッシュを35袋ずつにわける。集会には30家族ぐらいが集まっていた。思ったより多い。ちょっとしか配れない、と思っていたが、みなけっこう喜んでくれた。ただ、とりあえず僕らの前だから喜んで見せているのかもしれない。
 栽培方法がわからない人にパストールが説明してくれた。農業従事者はともかく、牧畜をやっている人は良く育て方がわからないようだ。おそらく種をちゃんと育てられない人、時間がなくて種を蒔かない人もいるだろう。しかし、できるだけ多くの種が地面に蒔かれることを祈る。3ヶ月後、実っているようにとも。
 ここでこちらの岸のまだトタン板をあげていない最後の人と話し、明日届けることにする。


2月19日(金)

 銀行に行き、お金をおろす。これを前回までの500枚のラミナ(トタン板)、そしてさらに560枚のラミナの分の支払いに充てる。ここで滞在延長の手続きのための印紙を銀行で買い(10lps)イミグレに行く。NGOで救援活動をしているといったら、延長にかかる20lpsは払わなくていいことになった。
その後ホルヘのところで支払いを済ませ、ブエルタ・グランデ方面へ。とても遅くなってしまった。プランチャまではホルヘがラミナを運んでくれた。そこから小さな木をくりぬいた小舟にラミナを載せ、向こう岸からはリットーのピックアップでブエルタ・グランデまで行ってもらう。ラミナはわずか10枚程度でも非常に重かった。道が良くなると楽になるのだが。ピックアップの後ろに載せたので、皆がラミナの上に座ってラミナがバコバコいう。傷ついていないかちょっと心配。ブエルタ・グランデについたのは昼過ぎになってしまった。ラミナを受け取るはずの人はとても心配顔で待っていたようだ。本当に申し訳ないことをした。
 ここでまた学校の先生の家のトタン板のことが話題に出る。助けてあげたいが。川向こうのことは、のどに刺さった棘のようにずっと僕らの活動に引っ掛かっている。とにかく一度川向こうに行ってみる必要があるだろう。そこで何を見るのか。何をいわれるか。何ができるのか。ちょっと怖い。
 そのあとミラモンテに行く。今日も集会があると言ってあったのだが、ほとんど誰もいなかった。金井さんと別れて、Otro Ladoの家々をチェックする。もうトウモロコシを植えた家もあり、少しほっとする。
 一人でドス・ボカスまで誰もいない道をただとぼとぼと歩いていると、落ち着いてきて本来の自分を取り戻したような気になる。本当によい風景。また旅行がしたくなる。


2月20日(土)

 トコア、サバに行く。サバの町を流れるアグアン川に架かる橋の工事の進み具合を見るが、まだまだ車が通れるようになるのは先のようだ。しかも古い木をつかった相当あやうい工事。これではいつかまた流されるか、落ちるかしそうだ。
 以前は広大なバナナ畑が広がっていた対岸は、すべてバナナの木が切られ、ただの平原になっていた。驚くべき変化。畑を持っていたドールはアメリカに引き上げてしまった。ドールで働いていた数多くの人が失業した。
 ずっと停電が続き、夜クララの家に行くが、フィエスタはお流れ。挽肉のパステルと自家製のVINO(ワイン=ブドウに砂糖とクローブとシナモンをつけ込んで2,3日置いたもの)を頂く。相変わらずクラリータの料理は美味しい。
 12時頃帰宅し、それから毎日放送のために撮影したビデオの内容をチェック。これじゃちょっと使い物にならないのではないか。申し訳ないことをしたと思う。あとHPに載せる金井日記を写す。電気がなく、ろうそくの明かりで手書きで写す。深夜3時までかかった。3時半には金井さんを送る予定などので、30分屋上に寝転がっていた。星が美しい。絵に描いたような流れ星を見た。
 3時半過ぎ、金井さんをセントロまで送る。停電のためまっくら。日本でのことよろしく。
 結局朝6時まで起きていた。


2月21日(日)

 結局3時間ほどしか眠れず、自家発電装置のあるホテル・クリストファーに仕事をしに行く。停電は全然直らない。
 コンピュータを使ってミラモンテの住民リストを作っていたが、途中突然電気が切れてすべて消えてしまう。腹が立ったので、ビーチで眠り、泳ぐ。今日は休日。行きの飛行機でもらったまま温存していたキリンビールを飲む。
 今日も一日中停電。


2月22日(月)

 サンタ・ロサ・デ・アグアンに行く。先週晴れの日が続いたので、プランチャの道は復活していた。ミラモンテに働くための家を持っていて、アグアンにも家がある人たちの家を訪問した。皆けっこう良い家に住んでいる。しかし、だからといって彼らの生活の手段が奪われていることには変わりはない。アグアンはどこも砂地で農作物を作るのは不可能なので。
 ただ家が全くない状態の人を助けるのが先だろう。ミラモンテの彼らの家を助けることはむしろ今後の生活手段を確保するための支援と位置づけられるのではないか。
 数名はアグアンの家もミラモンテの家も崩壊している。彼らに対して早急な支援が必要だ。
 電波ニュースの谷津さん、下野さんも明日出発。躁状態の一週間が終わり、明日から一人だけのトランキーロな生活が始まる。寂しさとほっとする感じが半々。


2月23日(火)

 今日は朝からビクトルとミラモンテに行く予定だったが、彼が忙しくなり、金曜日に予定変更。
 一人でアグアンに行こうと、バスを待ったが来なかった。昨日および今日の雨でまた道がなくなったのだろう。アグアン行きは諦め、報告を書いたり、メール返事を書くなど、たまった仕事が大量にあったので、デスクワークをする事に。しかしまた停電になり、なにもできず。
 たまっていた洗濯物を洗うが、干したとたん、雨が降り出した。
 停電と雨の組み合わせ。最悪。Mala onda!


2月24日(水)

 ノートの配布に絡み、シリンの学校を再訪。さらにその奥1時間ほど行ったテソリートにも行く。テソリートはものすごく平和そうな山間の村。約120家族が住み、わずかな農地で農業をしている。東南アジアにいるような錯覚を覚える。
 到着すると「何をしてくれるのか?」「今すぐ全村の集会をするか?」などと聞かれて困ってしまう。「ただ学校の先生に会いたい」とだけ言ってその場から逃げる。貧しい村で被害も大きいようだが、ブエルタ・グランデの状況に比べればまだましだろう。120家族は我々の支援の能力を超えている。しかし良く組織された村のようで、ブエルタ・グランデの組織力のなさを改めて思う。代表の資質にもよるのだろう。
 シリンでもテソリートでも学校がようやく始まった。いいことである。
 シリンからの帰りはファミリアの兄弟に送ってもらう。
また午後から停電。懸案の報告書がまだ書けない。手書きでもう一つの懸案、ミラモンテの住民のリストを作る。
 午後はスペイン語の農業プロジェクトのテキストを読む。すぐ挫折。
 夕食はお茶漬け。


2月25日(木)

 アグアン行きのバスがない。電話のジャックの故障を、新たな部品を買って直す。これでようやく快適に電話が使えるようになる。
 昼食に招待され、魚の頭を入れたココナッツスープ。とっても美味しい。それについていたユカ(キャッサバ)から作ったせんべいのようなものも初めて食べたが美味しかった。これをトーストにしてバターを付けたものもとても美味。スープには小麦粉で作ったすいとんのようなものも入っていた。あと若いバナナを煮たもの。マンゴジュース。すべて美味しい。「美味しい美味しい」と連発していたら、夕食も招待してくれることになった。
 部屋に帰ると停電。 外付けの充電池が働くようになっていたので、協力隊へのAYUCAのプロジェクトへの助成申請の書類を書く。途中で充電池が切れる。フリホーレスを煮ながらの作業。
 1月分の電話の明細が来たが、まったく身に覚えのない地域への電話がたくさんあった。明日電話局に抗議に。
 コハダとトルティーヤをもらう。
 昨日のスペイン語の農業プロジェクトのテキストの続きを読むが眠くなるばかり。
 また夕食はイザベルの家に行きエンチラーダをごちそうになる。いままで食べた中でも特に美味しい。


 土屋日記  ←前の日記を読む 次の日記を読む→


メイン現地日記 現地からの報告 日本での活動 AYUCAについて 義援金受付 送ってください! 会員募集 ホンジュラスについて 活動地域地図 関連リンク 事業報告 AYUCA連絡先

AYUCA - ayuca@home.email.ne.jp