AYUCA・土屋敦の現地報告日記1

 現地で活動している当会・土屋敦の日記です('99年1月22日〜2月11日)。

 この日記は土屋が個人的につけていたものです。支援活動と直接関係ない部分が多い上、意味の分かりにくい部分も多々あると思いますが、ご了承下さい。


1月22日(金)

 サン・ペドロ・スーラを出発し、飛行機を乗り継いで午後にトルヒーヨに。快晴。トルヒーヨで雨がまったく降らなかったのは、3ヶ月ぶりぐらいだという。一見町に変わりはないが、空港から町に向かう途中、あり合わせの資材で作った掘っ建て小屋が集まった場所がある。ドスボカスから避難してきた人たちが住んでいるという。また周辺の山の木々が無惨に立ち枯れしている場所もある。
 金井さんはサン・ペドロに行っており、ちょうど入れ違い。
 オアシスにゆき、タコス(トルティヤの中に鶏肉を入れ揚げたものにキャベツの千切り、トマトソースをかけたもの)を食べる。オアシスもそれほど変化がないが、実は2週間ほど前にようやく再開業し、それ以前は中庭はめちゃくちゃだったという。クリスティーナはハリケーンのあとアメリカに帰ってしまったそうだ。
 日本に無事到着の電話。3分で1800円ぐらいかかる。高い。
 パン・デ・ココ(ココナッツミルクのたっぷり入った食パン)購入。


1月23日(土)

 カラコル(貝)をガーリックバターで炒めたものを食べる。美味。夜、星が本当にきれいだ。


1月24日(日)

 朝から雨。非常に激しい降り。電話が使えないことを伝えようと思ったが、大家さん一家は不在のよう(実は居たのだが、気づかなかった)。PantryでHamburguesaを食べる。なぜか着く前からこれが食べたかった!日曜のため店などもほとんど閉まっていて、何もできない。
 午後には晴れたが、風が強い。被災した村々はどうなっているのだろう。
 ただ晴れたトルヒーヨは本当に気持ちがいい。息を吸っているだけでいい気持ちになってくる。海の青、すぐ後ろの緑の山々も本当に美しい。以前に滞在していたときより、それを強く感じる。
 時差ボケの関係か、3時頃から急に眠くなり、夕方から深夜まで寝てしまう。夕食を食べ損ねた。


1月25日(月)

 5時起床。妙に静かだと思ったら、この日は早朝から停電。また雨も降っている。朝、大家さんの家にゆく。コーヒーとパンを出してもらう。Sr.Lagosと話す。とてもいい人物。スペイン語の勉強にもなる。いろいろと助けてもらうことになりそう。
 また天候が悪く、飛行機が飛ばなくなったという。ラ・セイバ、サン・ペドロ・スーラ方面への陸路もだめ。でもゴンドラをケーブルでつって川を渡ることで、なんとか移動は出来るかもしれないと言う。
 そう考えると、長かったが、大きな問題なくトルヒーヨに来られたことは非常にラッキーだったようだ。ここ最近で、一日中雨が降らなかったのは僕が着いた日だけだというし。
午前中、ブエルタ・グランデの住人が金井さんを頼ってくる。こういった個人的なお願いは困る。
 9時半頃就寝。


1月26日(火)

 5時半起床。夜から明け方までずっと雨が激しく降っている。この分だと道の方もかなり心配だ。また電話もいまだ直らない。しかし7時ぐらいから雨はやむ。
 自分の電話が直るどころか、トルヒーヨ中の電話が使えなくなる。ayayay…
昼頃ビクトルの家に行く。しかしビクトルはテグシに行っており不在。クラリータと話す。子供たちとも久しぶりに会う。


1月27日(水)

 朝5時半、リモンへ。途中、アグア・アマリーヤからアグアン川周辺の被害を初めてみる。周辺はいまだ水浸しで、湿原のようになっている。広大なパーム椰子畑でも多くの椰子が枯れている。
 道も流されなくなっており、道路があったところのすぐ脇を土砂で固めて即席の道を造っている。補修しても雨で流されるため、応急処置しかできない様子だ。
 なんとか崩れなかった橋梁も、真ん中が落ち込んで今にも落ちそうだが、その上を平気で大型トラックが通っている。橋によっては通るたびにどんどん落ち込んでいるという。
 8時頃、リモン到着。リモン周辺は一見してそれほどの被害は見えない。それどころか、半年前に来たときは通じてなかった電気が通じていた。
 ただラグーン周辺が大幅に削られており、周辺の家々が9軒流されたそうだ。
 朝食、フリホーレスフリトー、卵、バター、チキン、トルティーヤ、パン・デ・ココ。昼食はポヨフリトー(鶏唐揚げ)。


1月28日(木)

 晴れ。9時半頃にトルヒーヨを出発。トコア方面のバスでブエルタ・グランデ方面への分かれ道のところまでゆき、そこからヒッチハイクで、水がたまっていて渡れない「ランチャ」のところまで行く。そこをカヌーでわたり、また別の車をヒッチハイク。
 だいたい車は一人5lps取られるというが、政府の車をヒッチしたせいもあり、今日はただ。
 手前の村、ドスボカスでは随分たくさん援助団体が入っているらしく、村人も援助慣れしている様子。何を勘違いしたか、僕もすぐ、「歯がいたいから直してくれ」などと頼まれる。ドス・ボカスから車で20分ぐらいでブエルタ・グランデ到着。
 ブエルタ・グランデは1本道の両側にポツポツと家がある、とても長い集落。牧畜(ganado)が産業の中心か。何時間かかけて川岸までの家を見て歩く。道はぬかるみ、大きな水たまりがたくさん。靴やズボンはどろどろ。金井さんは、かなり信頼できる人々との人間関係も構築している様子。とりあえず、来週の水曜日に川岸からこちら側の住民全員と話をすることにした。
 しかし、ここまでたどり着くのが大変だと、考えてしまう。
 帰りは車もなく、1時間ぐらい歩いて、ドス・ボカスまで行き、そこで車をつかまえる。ランチャのところでアメリカの医療NGOの団体に会う。彼らはバス1台を借り切っていて、それに乗せてもらってトルヒーヨまで戻る。もし彼らにあっていなかったら、戻るのは相当に大変だっただろう。
18時30分頃家に着く。すぐ眠り込んで、夕食は食べ損なう。


1月29日(金)

インターネットへの接続を試すが一向にうまく行かない。
 夜は本物のプンタを見に行く。6時頃サン・マルティンのゴダイさんの家へ行き、ギフィティ(薬酒)をごちそうになる。そこで演奏を頼み、パントリーでピザを食べた後、また彼の家に。電気もない家の中で、ろうそくの明かりで11頃まで、プンタ、マスカロの演奏と踊りを見る。
 踊り、演奏ともに素晴らしい。子供たちの踊りもとてもかわいく、すごかった。久々に感動した。
 夜、ほかの人たちはディスコに行くと言うが、僕は帰宅。少し調子が悪く、風邪薬を飲んで寝た。


1月30日(土)

 晴れ。風邪薬を飲んだせいでよく眠れ、調子が戻ってきた。
 パソコンを試す。何度かに一回はうまく行く。メールをたくさん受け取る。
 午後、ビクトルの家に行き、話し合い。一緒にブエルタグランデに行ってくれるという。水曜日7時パルケで待ち合わせ。
 その後一時的にスコールが降る。


1月31日(日)

 電話の新たなトラブルがわかる。


2月1日(月)

 家の電話が完全におかしい。
 夕食はハンバーガーとビール。


2月2日(火)

 晴れ。電話の調子も非常によい。協力隊の方と会い、学校の資材などの提供の件で話し合い。


2月3日(水)

 朝は晴れ。6時起床。
 10時から集会のはずが、今日はNGOなど3つの集会が入っているということで大幅に遅れる。川向こうの人も来るというが我々としては来てもらっても困るので、集会が終わるのを待った。川向こうの問題を解決しなければ。
 集会ではある程度わかってもらえたようだが、実際に協力体制をとって、実行に移してくれるかどうかはわからない。
 帰りはジュースを積んだ大型トラックでアグア・アマリーヤまでゆき、そこからバスに乗る。その後激しい雨が一時的に降る。
 夜はあじの開きを焼いたのとお茶づけ。


2月4日(木)

 卵6個9lps、日本の倍の値段。
 朝食は小麦粉のトルティーヤとケソと卵焼き。
 ビクトールの家にゆき、今後金井さんが不在の数ヶ月間のことを打ち合わせ。


2月5日(金)

 8時にビクトルと金井さんとブエルタ・グランデへ。バスとヒッチハイク。今日は馬を乗せた車に乗った。
 村中を2時間ぐらい歩き回り、各戸を個別訪問する。まだリストから漏れている家があった。
 あとで、その家は牛が数百頭生き残ったうえ、もとから金持ちだったため、他の人がリストに入れたがらず、本人もそれを察して名乗り出ていなかったことが判明。
 この時点で屋根の必要な家は34軒まで確認。それ以外に屋根のいらない家は2軒(神父のお母さんの家といまアトランティダにいるミゲル・ガリンの家)。
 疲れたがほぼ全員と話せてよかった。
 相変わらず、皆、水への恐怖がすごく、「サンタロサの保健センターにもカヌーに乗らなければ行けないので絶対に行かない。子供たちも絶対行かせられない」と言っていた。
 全戸に明日の午前中に村の入り口に家の代表が来るように伝える。


2月6日(土)

 8時にホルヘの車でトタン板を届けに行く。天気が不安定で、途中雨が降って不安だったが、道も流されず、ブエルタ・グランデにつく頃はすっかり快晴。皆が午後から雨になるといっていたのに。本当に良かった。
 村の人たちはもう集まっていて、とても嬉しそう。ラミナを配り始めると、「昨年11月からやってきたことが、いまようやく形になったんだな」と感慨深く、涙が出てきた。
 しかし、金井さんはてきぱきと働いているのであわてて作業を手伝う。
 村の人々も金井さんものすごく嬉しそうで、僕を含めて妙にうきうきした気分になった。
 ようやく村の人も信頼してくれたようだ。
 帰りはラミナが積んだあったトラックの荷台に寝転がって空を見ながら帰った。
 村の人たちは「あなたたちには神様がついてるから、今日も晴れたんだ」と言ってくれたが、それを信じてしまえるほどきれいで深い青い青い空。(しかし、熱射病になって、この後2日間苦しむことになる)
 帰宅後、夜はサン・マルティンのゴタイ氏の家でプンタの演奏をまた見る。前回以上にすごい。盛り上がってきたが深夜0時頃帰宅。久々にビール、ポートロイヤルを飲む。
 またゴタイ氏の家で薬酒ギフィティもまたごちそうになる。
 星も、来た日以来一番沢山出ていて本当にきれいだった。ゴタイ氏の家のあたりは電気がないのでいっそう輝いて見える。
 ホンジュラスに来て最高の週末。


2月7日(日)

 今日は熱射病で調子が悪い。金井さんがファミリアのために料理を作るのを手伝う。
 漁師から魚を買い(60lps=約600円で50センチほどの甘鯛と、同じぐらいの大きさの鯛の仲間、計2尾を買う。とれたてで、本当に新鮮。日本(京都)じゃこんな魚いくらするんだろう?ここに住みたい!)、刺身にする。まるまる一尾を、こちらの切れない包丁で捌くのは大変で結構重労働だった。
 捌きながらつまみ食いしていたら、大家さんの家の人に気持ち悪がられた。
 刺身は誰も食べないかとも思ったが、以外と皆に好評だった。しかし子供たちは一人も食べない。
 調子が悪く、夕方から寝る。10時頃起き出して、夜中まで日本への報告を書く。


2月8日(月)

 朝8時頃神戸のNGO協働センターの村井さんから電話。少し寝ぼけていてちゃんと話せなかった。
 村と村との間の集落へのラミナの配布の了解をもらう。
 昼食は昨日の刺身の残りのあらを煮たものとご飯。
4時頃ビクトルの家に行き、打ち合わせ。水曜日にミラ・モンテに行き、集会、調査を経てラミナを配布することとブエルタ・グランデで野菜の種子を配布することを決める。配る際に講習会のようなものも行う方針。
 あと10日程度の滞在で間に合うのか。
(編者注:土屋は当初、滞在は2月20日頃までの予定だった。その後、帰国を延期した。)  夕食は魚のみをほぐしたものでチャーハン。


2月9日(火)

 報告などの整理。明日のミラ・モンテ訪問の準備などを行う。


2月10日(水)

 朝、ビクトルの家に行く。先日ラ・セイバに行き、帰宅が夜の10時になったらしく疲れ気味。
 病院に行き、県の車でミラ・モンテまで送ってもらう。
 9時40分頃ミラ・モンテ着。プランチャのところも道がさらに二本出来ていた。もうトルヒーヨ行きのバスも通る。だんだん元に戻りつつあるようで、嬉しく思う。
 ミゲル・ガリンの家にゆき、その奥さんと話す。土曜日に集会をここで持つ旨を周辺の集落に伝えてもらうことになった。もともと30戸の家があり、28戸が壊れて2戸だけが残る。ハリケーン後ここに残っているのは10戸ほどで残りの家の人は今はアグアンに住んでいるが、ここに家を建てようと思っているという。尚、僕たちが配ったラミナをもらった人が2人いるという。
 定期的な援助はまったく来ていないという、これまで2回食料援助があったという。
 もともとの牛の数は不明だが、生き残った牛は4頭だけだという。
 プラタノ、フリホーレス、ユッカ、米などを育てていたが全滅。若いプラタノは生き残ったが収穫までに9ヶ月から1年以上かかるという。ユッカも挿し木でいま増やそうとしているが、芋が出来るまで6ヶ月から1年かかるという。ブエルタ・グランデ以上に深刻な状態である。
 しかし、土曜日にちゃんとひとが集まるのだろうか? 不安である。
 それから川岸の方でドス・ボカスの人たち話す。ドス・ボカスは援助で大きな混乱を迎えているようだ。安易な援助には本当に腹が立つ。欧米のNGOは、援助物資をばらまいて酷い混乱をもたらしておいて、自国では「こんないいことをした」と宣伝するんだろうか。
 しかし、翻ってみると自分たちがこれから短時間でやろうとしていることとどれほど違いがあるのか? 思うところが多い。
 今日はブエルタ・グランデにも行きたかったが、ビクトルがいやがり行けずじまい。時間が少ないせいか、いらいらする。焦る。1日で色々やろうとしすぎるこちらが悪いのか。
 この国でいっぺんに色々やろうとしてもうまくゆくわけない。土曜日も予定通りには行かないだろう。
 一方で短期間で仕上げたくない気持ちもある。時間をかけなければ絶対にうまく行かないと思う。
 かつおの刺身をにんにく醤油につけた「づけ」を作る。


2月11日(木)

 朝7時、朝日新聞から電話取材。
 シリンの学校に「ウラカンミッチ義援金事務局」のノートなど文房具配布プロジェクトのため、校長の話を聞きに行く。途中、バスのエンジンが焼けふつうなら15分でつくところが1時間ぐらいかかった。授業は月曜日からで、マトリクロの最中。例年より30人ぐらい生徒が少ないという。卒業生が草刈りを手伝っていた。
 校長は、子供たちの教材、椅子よりもまず建物の材料が欲しいといっていた。たしかに木で出来た校舎は水に濡れ、随分腐っているようではあった。
 トルヒーヨに戻って買い物の後、室内で報告の作成などの作業。
 昼食、夕食、共に「鰹のづけ」を焼いたもの。


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