AYUCA・土屋敦の現地報告日記3

 現地で活動している当会・土屋敦の日記です('99年2月26日〜3月17日)。

 この日記は土屋が個人的につけていたものです。支援活動と直接関係ない部分が多い上、意味の分かりにくい部分も多々あると思いますが、ご了承下さい。


2月26日(金)

 朝ビクトルに会いに病院に行くが、カスティージャでマラリアが多発しているせいで、今日も忙しそうで一緒にアグアンには行けない。仕方がないので一人で行くことに。
 ミラモンテのプレゼンテのオスカルはまた少し酔っていて、よくわからない。
 一応10人の名前が書いたリストをくれたが、正確じゃないだろう。やはりアグアンに行って一人一人確認しないとだめだ。オスカルはそれでも他の住民に比べ頼りになるが(お金を持っているので自分の利益のために行動しない)、それでも酔っていると問題がある。
 今日はミラモンテの川向こうの2軒の家に行く。往復で歩いて1時間かかる。以前は田んぼだったところに雑草が生い茂っていた。家も完全になくなっていたが、骨組みを作っていて後は屋根があれば雨はしのげる。
 1時30分頃ドン・ミゲルのマキナ(大きなトラクター)に大きな荷車をつけ、その上に乗ってブエルタ・グランデへ。ボディはさび付いてほとんどなくなっている。タイヤも空気が全然入っていない。それでもばかでかいタイヤで、ゆっくり進む。ぬかるんだ道を行くときはまるで田んぼを耕しているようだ。
 おかげで川岸まで歩かないで行くことができた。ママーチャの所の子供にカヌーをこいでもらって、初めて向こう岸の先生の家に行く。
 予想以上に家は激しく倒壊し、まったく再建のめどは立っていない。周辺に家は他になく、2軒だけが独立しており、ここはフィフィには入らないという。フィフィに援助が来たとき、彼女は何ももらえなかったそうだ。また彼女はブエルタ・グランデに家を建てる予定だと言う。これだったらラミナを援助しても良いのではないか。学校がなかったため、失業状態で援助が全くなかったので、非常に厳しい状態だったのではないだろうか(ところでコミテの労働と引き替えの食料援助はブエルタ・グランデとフィフィ両地域にまたがって行われていたのだろうか? 要確認)。
 コーヒーと薪の竈で作ったパンをごちそうになる。美味しかった。
 3時過ぎまでここに滞在していたため急いで帰る。途中僕らの贈ったラミナをつけ終わった家があり、屋根がきらきら輝いていて嬉しくなる。ただ、まだ木が入手できず、家の中に置いてあったり、斜めに立てかけて日よけにしている家も多いが。
 ブエルタ・グランデでは今日アイルランドのNGOによるトウモロコシの種の配布があった。ただ前回の集会で登録しなかった人はもらえなかったようだ。僕らの配った野菜の種については、植えるために地面を耕しているという。
 4時前、道で車を待っていると、村に住むイルダがご飯を持ってきてくれた。昼ご飯を食べられずにいたのでとても嬉しかった。今日は海の魚のそぼろにトマトなどが混ざったのを炒めたものとフリホーレスとご飯。
 帰りはアイルランド軍の車をヒッチハイク。彼らは少なくとも4月までは残るという。えらい。ほかの白人と違ってヒッチハイクをすると必ず止まってくれる。
 トルヒーヨに戻った後彼らの宿泊地で軍の医師と話し、抗生物質を提供することとする。彼らはいまだにサンタ・ロサ・デ・アグアンとバラ・デ・アグアン、ドス・ボカスで診療所を作って診療を続けているが、抗生物質、特に子供のためのものがまったく不足しているという。子供用を特に重点的に集めておいてよかった! 外傷用の薬、抗生物質も提供。こちらも喜ばれた。集めるのに努力してくれた方たちに感謝。これでようやく薬が活かせる。
 また彼らはブエルタ・グランデでの診療もする予定だという。抗生物質の英語の添付文書を正確に読めるという点も良い。彼らの活動は地道かつ長期に渡っており、好感が持てる。信頼できる人たちに薬を渡せて良かった。はやくブエルタ・グランデでの診療が実現するといいのだが。
 彼らのキャンプで一つ一つの薬について夜7時近くまで説明。
 夜トルティーヤを作る。前回よりはましだが、まだへたくそ。
 またアイルランド医師に明日アグアン方面に連れていってもらえることになった。しかし待ち合わせは彼らのベースに6時。軍人の朝は早い。起きられるだろうか?


2月27日(土)

 5時起床。フリホーレス、ケソ、トルティーヤの朝食。6時にトルヒーヨ発。7時頃にアグアンに着く。アルベルトやドニャ・サントスを探すが、不在。アナスタシアの家で、数名のミラモンテの住人にリストを完全にする作業を手伝ってもらう。
 自分たちに不利なことも正直にしゃべってくれたので、ある程度信頼できるものができたと思う。すぐにでも家が必要な人については、このリストをもとにラミナを配る予定。
 アグアンのカヌーの料金は今日は5lps。
 バラ・デ・アグアンでは仮設テントによる授業が月曜から始まるという。テレビも取材に来ていた。ブエルタ・グランデまで行き、プロフェッソーラの家を訪ねると、台所が火事で燃えていた。あわててカユコを漕いで、岸を渡る。少し消火を手伝ったが、ほとんど消し止められていた。娘が溺死し、家が全壊し、援助は受けられず、妹が病死し…。本当に不運な人たちだ。今日はさらに奥の家を訪ねられず、そのまま帰る。途中昼食をごちそうになる。
 イルダの所でもジュースを飲んでいたらさらに昼食が出てきたので、それも食べる。
 土曜の午後は交通が少なく、アイルランド人たちも昼ぐらいに帰ってしまったらしく、車を全然つかまえられない。2時間ほど待って、ようやくトルヒーヨ行きの車をヒッチして帰る。
 夜はついに教会に行く。被災者への援助活動で、トルヒーヨの神父のやり方に問題があるので、つい醒めた目で見てしまう。礼拝自体はきらいじゃないのだが。


2月28日(日)

 夜はファミリアの子供のセシリアをセントロまでアイスクリームを食べさせに連れていく。セントロの公園は人でいっぱいで、平和な夜の光景。


3月1日(月)

 とうとう3月に入った。10時半のバスでブエルタ・グランデに。着いたのは12時を過ぎていた。バスでブエルタ・グランデの学校の先生と一緒になったので、一緒に家まで行く。昼食後に問題の3軒の家に。まずカヌーで40分ほど行き、さらに1時間ほど歩いて問題の家に着いた。リオ・アマリーヨの川の近く。3家族とも家を失い、現在一軒残った親戚の家に居候中。どこからも援助が入らない状態。ミラモンテのように別に家があるわけではない。家はドスボカスやトコアに農場を持つ地主の土地に立っていて、一人は土地の管理人、後の二人は農業で食べていた。家は3軒とも確認したが、実際に会えたのは一人だけ。
 あとで確認すると、ここはエル・ベンケといわれている場所で、家は3軒しかない。
 ここに行き着く途中、一軒別の家もあったが、フィフィに避難していて、フィフィでラミナを配った際に入手したとのこと。
 家からさらに馬で駆けて、50分ほどいくとドス・ボカスからミラ・モンテ方面へすこし行ったところに出た。
 ドス・ボカスのセントロ・デ・サルーまで歩く。ここでミラ・モンテのドン・ミゲルの奥さんとパウラに会ったので、ついでにリストの確認作業をする。
 アイリッシュのデヴィッドが車で通ったのでヒッチハイクしてトルヒーヨに戻る。
 夜はイザベルのところでカルネ・アサダ。これまでで食べた中で一番美味しい。何種類ものスパイスを入れて作った自家製のソースに肉を一晩つけ込んでから焼くそう。ちょっと日本酒とニンニク、醤油につけた肉にも似た味。


3月2日(火)

 今日は朝8時から停電。結局夜の8時過ぎまで電気は来なかった。


3月4日(木)

 バスでミラモンテへ。リストを完全にする作業をするため。オスカルは飲んでいて、どこかに行ってしまっていたので、ドン・ミゲルなど数名と作業。アグアンで聞いたのと随分違う。登録した人の多くはミラモンテではなく、その先のピニエラという場所の人で、良く知らない、ともいう。
 明日、さらに作業をするため、会う約束をする。


3月5日(金)

 トコア行きのバスとヒッチハイクでミラモンテへ。今日はビクトルが同行する予定だったが、クララの調子が悪くてだめ。現地に着くとまた、オスカルが来ていない。
 オスカルを探しに行こうと思ったが、「酔っている」というので諦めた。リストを完全にする作業を続ける。
 その後、ブエルタ・グランデのプロフェッソーラの家に。まだラミナが届かないことを伝え、学校で生徒たちが菜園を作るための野菜の種子を渡す。先生は来週末に耕し始めると言っていた。
 トルヒーヨでアンティグアから来た日本人(新山夫妻)に会う。


3月6日(土)

 ビクトルとミラモンテに。リストを完全にする作業を終わらせる。たぶん完璧ではないのであとで問題が出てくるだろう。


3月8日(月)

 ビクトルとフレナカイン、ミラ・モンテ、ブエルタ・グランデに。木曜にミラ・モンテでラミナを配ることを伝える。トルヒーヨに戻ると停電だった。アグアン周辺の地図を入手。
 地図の入手と現地までの交通の確保がこういう活動の基本だ、と言われた。
 その両方をやっていなかった我々ってちょっと問題かもしれない……。
 深夜まで記者発表の書類作り。


3月12日(金)

 ようやくブエルタ・グランデ方面に行ける。新山夫妻に仕事を手伝ってもらった。プロフェッソーラの家にラミナを届ける。それから学校に行き、文房具を配った。ホルヘと僕と新山君の3人で手分けして持って歩いたが、80人分は非常に重かった。
 特に新山君は一人で特に重い荷物を持ちとても大変そうだった。悪いことをした。
 事前には何も知らせなかったので、突然授業中に段ボールを抱えて汗だくになった東洋人が現れ、生徒たちはびっくりしたよう。ブエルタ・グランデの子供たちはだいたいこちらを知っているが、フィフィの子供たちは特にびっくりしていた。
 ただ見るからに喜んでいる子供たちも結構いて、こちらも嬉しかった。
 それから、フィフィとブエルタ・グランデの間に住んでいたため、援助が受けられなかったプロフェッソーラの家ににトタン板をようやく渡せた。
 昼食はプロフェッソーラの家。その後、ようやくミラモンテに。皆を待たせていて文句を言われる。
 そのあと、ミラモンテでトタン板を提供。8軒分。もう屋根をつけるだけの状態になっている人に限り、家をチェックしたあとにトタン板を渡したのでとりあえず、8軒分。
 あとの人には引換券を渡し、屋根をつけるだけの状態になったら申し出てもらい、トタン板を渡すことにした。これで転売や別場所にトタン板を持って行くことをかなり防げると思う。
 まだ家を建てていない人も張り切って「すぐ家を建てる」といってくれた。ただトタン板を渡すというだけで、みんな(まだトタン板をもらっていない人も)こんなに元気そうになるなんて不思議な気持ちがする。
 家が崩壊して以降、ずっとドンミゲルの家に居候していて、あまり働かず、昼からお酒を飲んで過ごしていたドン・ネットが「すぐ家を建てる」と張り切っていたのが嬉しかった。
 ただ今日の集まりを知らない人も多かったのか、以前登録した人で来なかった人も多かったので、また集会を何度も持たないといけないと思う。
 またもし、壁や骨組みを建てる余力もない人がいたら、そういう人も考慮していかなければ。
 来週以降はビクトルが集会、引換券と引き替えのトタン板の引き渡し、家のチェックなどをやってくれる予定。


3月15日(月)

 エル・ベンケの3人に書類を渡すためミラ・モンテに行くが、時間が遅かったためすでにいなかった。ブエルタ・グランデのプロフェッソーラの家に行って、ようやく彼らを見つけて書類を渡し、水曜日に集会のあることを伝える。
 ミラモンテではドン・チャゴやパウラなどが早速屋根を取り付けていた。なんだかとても嬉しい。


3月16日(火)

 ビクトルの都合で水曜日に現地に行けなくなったため、今日ミラモンテに行くことに。さらにドン・ミゲルの所にラミナを預けていた3人のうち二人が屋根をつけていた。
 そのあとエル・ベンケに行って、集会の予定が変更になったことを連絡する。新たにエル・ベンケ地区の他の2軒の家を訪ねる。
 完全に水に浸かったため、土の壁がなくなり、家が傾いて崩壊しかけているなかに人が住んでいる。金井さんが被災直後に送ってくれた写真のような光景。被災後、時が止まったままのよう。このような場所がまだたくさんあるんだろう。金井さんの言うクアクの状態も気になる。
 当然、援助は一切入っていない。
 ただこの家族は、もうここには住みたくない、という。一家族は、ドス・ボカスに、もう一家族はモンテクリストに移住する予定だという。ただそちらに家を建てる材料もなにもない状態。どのような形で支援できるか。
 結局ビクトルは集会を土曜日に変更した。あまり変更が続くと良くないのだが。


3月17日(水)

 トコアに買い物に行く。幼稚園のためにクレヨン2箱、紙950枚、鉛筆削り一つ、鉛筆25本、引換券のコピー50枚分、種(ピーマン、トマト、ラディッシュ)。
 結局帰りは6時をすぎてしまった。あわてて松坂さんの所に行き、最後の挨拶。そのあとビクトルの家で最後の夕食。クララの調子は少しだけ良くなったように見える。
 ビクトルと最後の綿密な打ち合わせ。
 これでみなとお別れ。


【お知らせ】
 土屋は3月21日に帰国しました。
 7月には、金井、大森が現地入りし、活動を続ける予定です。


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