どの道魂を分かつ紅葉とはまた違う存在だ。
『た、あ、だ、の、ま、ま、く、え、く、う、る、う、え』
黄龍は何より自分の存在が人にとって、どんな幸を、不幸をもたらすか、経
験上知りすぎるくらいに承知している。
だから、決して俺の身体から出ようとした事は無かった。
ただの、一度も。
すれば、世界を紅葉がいるかけがえのない世界を壊してしまうのを心底恐
れていたから。
『ただ、本能のままに狂え。いざ狂え、ただ狂え。永久(とこしえ)に』
耳から、どころか体中の毛穴から入り込んできるような錯覚。
打ち寄せる呪言に怒涛のごとく犯される。
紅葉がおらず、俺しかいなかったなら、黄龍は決して動こうとはしなかった
はずだ。
ただ、俺は身動き一つ取れず拘束され、目の前では紅葉が額にじっとりと
脂汗を浮かべて苦しみに喘いでいる。
俺と、黄龍の心配ばかりをして。
届かない指先を、それでも必至に伸ばしながら。
自分だけが、紅葉を助けられると思った黄龍を、責めるつもりは微塵も無
い。
それが、破滅しか呼ばなくても。気持ちだけはよく伝わってきたから。
己の手で紅葉を助けられるのだという、溢れんばかりの歓喜が。
「駄目だ黄龍!出るなっ。俺(うつわ)から出るんじゃない!止せ!わかっ
ているんだろうが!」
手首の鎖があたって血が滴るほどに暴れるが、痛みなんか感じない。
感じてる場合じゃない。
『紅葉……』
俺の意思に反して黄龍が、紅葉を呼ぶ。
「龍麻……」
反応した紅葉が見えない瞳を、黄龍に向ける。
それが、合図だった。
「黄龍!」
身体から、ぞろりと何かが這い出してゆく。
金色に輝いていた己の両目が黒目に戻ったのを自覚し、愕然とする。
『狂え、狂え。欲望のままに、犯せ、犯せ、その器を、微塵(ちぢ)となるまで、
犯し尽くせ!』
聞こえないはずの言葉が、耳の奥で鳴る。
膨大な呪言の波に思考が溺れる。
乱れに乱れた思考が暴走する。
暴走した思考が、俺のものなのか、黄龍のものなのか。
もう、わからない……。
『紅葉……』
はっきりとした形を持たない黄龍は、それでも酷く俺に似た人型のまま、
そろそろと紅葉に近づいてゆく。
呪文なぞ、関係ない。
ただ、紅葉の窮地を助けようとして。
黄龍の行動を何とかして止めようと鎖を鳴らせば、呪言が深くなる。
俺は額に力を集めて、全ての呪言を撥ね付けるための念を限界超えてを
溜める。
黄龍が身体に宿っていないはずなのに、右目の視界が金色に輝いた。
ぶつっと、音がして左の足首に巻きついていた鎖が木っ端微塵に砕け散
る。
視界の端で坊主が一人、無言で頭を抱えたままのた打ち回った。
「龍麻…?」
すぐ側に黄龍の気配を感じたのか、紅葉の指先が激しく踊る。
"駄目、だ。紅葉!それは俺じゃあない"
叫んだはずの声は、音にならず俺の頭の中だけで響く。
黄龍の手が紅葉の指を捕らえる。
そっと絡めた指先に、安堵する表情を浮かべた紅葉の頭の上。
紅葉を拘束していた荒縄が瞬きする間に焼き切れて、色とりどりの呪符が
それぞれの色の炎を上げながら燃え落ちた。
『もう、大丈夫だから』
まだ目の見えない紅葉の身体を、壊れ物を扱う丁寧さで、そっとそっと抱き
締める黄龍の腕の中、何かを感じたのか紅葉が黄龍の頬をなぞる。
「……黄龍?」
驚いた風な、ひどく嬉しそうな、紅葉の顔を見て。
黄龍は何を思ったのだろうか。
それはきっと黄龍がかろうじて持っていた最後の、理性の箍を外すのに十
分だった笑顔。
俺と黄龍を全く同じ感情で大切にしていた紅葉の態度が、黄龍を狂わせた
のは皮肉としかいいようがない。
"それ以上!それ以上は駄目なんだっ!"
俺の絶叫は、またしても届かない。
代わりに。
右手の鎖がじゃらんと、落ちた。
坊主が一人、高笑いしながら呪言を紡ぐ坊主の群れの中に踊りかかってゆ
く。
極々僅か。
呪文に乱れが生じたのを機に、俺は指では解けない鎖を更なる念を込める
事で千切るのに成功した。
と、思った途端。
首に見えない鎖が巻かれた。
ぎっと睨み付ければ、あの老人の仕業だった。
いまだ嘗て無い強さでがんじがらめられる俺のすぐ目の前で、紅葉の身体
への侵入が始まる。
絡めていた黄龍の指先がすうっと溶けてゆく。
黄龍を形取っていた曖昧な物体が、更に透明な存在へと変化をしていった。
「あ?」
びくっと紅葉の指先が跳ねる。
『大丈夫』
紅葉の身体に溶けいったはずの指先が現われて、紅葉の手の甲を優しく数
度撫ぜた後でゆっくりと侵食する。
紅葉の身体を労わりながら焦りなど微塵もなく。
それは一見、可能な事にも、見えた。
自然で無理の無いことだと。
ああ、陰の器も壊れる事無く黄龍を受け入れられるのかと。
一瞬、だけ。
完全に黄龍と一体化した紅葉の背骨が、折れたのではないかと思うほど激
しく撓った。
「ああああああっつ!」
紅葉の唇から一度も聞いた事が無い絶叫が放たれる。