だいぶ無理をさせてしまったのかもしれない。
俺に向かって軽く頷いて見せ、てきぱきと十分にも満たない時間で片付けをすませた紅葉は、
いっそ素っ気ないくらいに別れの挨拶をする。
「では……また」
実の母親にするには深いお辞儀にも、僅かな微笑で返しただけだったので、さすがに心配に
なった。
紅葉に倣って腰を折る暇乞いには、目を細めて笑んでくれたけれども。
「紅葉……大丈夫かな、お母さん」
病室から離れたのを見計らって尋ねる。
慣れない草履は思っていた以上に歩きにくいので、紅葉の一歩後ろを歩く。
溜息と共に囁いた言葉に、俺を振り返った紅葉は。思いもかけない喜色を浮かべていた。
「大丈夫だよ……嬉しくてはしゃぎ過ぎただけだ。ここの所不眠気味だったようだからね。今日
は久しぶりに良く眠れるんじゃないのかな?」
「…なら、いいけどよ。顔色がかなり悪かったからさあ」
「あの程度なら良い方なんだよ……本当に。こっちこそ、悪かったね?後半なんかいい感じ
に退屈な思いをしたんだろうに」
俺の歩調に合わせた紅葉の肩が、ちょうといい位置に並んだので、腰を引き寄せた。
「ここは、病院だよ……龍麻…」
抵抗はいつもより、少なかった。
ここが母親のいる病院だから、というのもあるだろうし、こんな時間に騒ぎ立てては迷惑にな
るだろうというのもあったに違いない。
どの道、静かな紅葉の唇を思う様貪った。
「いいもん、見せて貰ったから……俺的には全然OKってとこだな」
「……外では、こんな暴挙にでないでくれよ?」
「それは紅葉ちゃん次第ってとこだな」
腰に回した手の甲を抓られてもめげずに耳元で囁きながら、俺はもう一度だけ紅葉の唇に触
れた。
病院から深夜バスで、神社行きの直行便が出ていたから飛び乗った。
どこの神社へ行くかは決めていなかったので、こういう行き当たりばったりなのも悪くはないだ
ろう。
紅葉はきちんと計画をたててどこかに行きたがるので……それは日頃仕事で慣らされた確固
たる習慣でもあるのだろうが……あまりいい顔をしないが、俺の気まぐれにはだいぶ慣れてきた
ようだ。
今も大晦日らしく込み合った車内、座れもしないというのに、乱れた呼吸を整えながら吊革を
掴んで穏やかな色を浮かべている。
「どこ行きだった?」
「……見てなかったのか……あいかわらず行き当たりばったりが好きだな、龍麻は。氷川神
社だったよ」
「あー氷川さん?」
全国各地にある系列の神社だったが病院からは一番近い神社で、病気の祈祷効果が高い
ので名を馳せている神社だ。
大きい声では言えないが、紅葉のお母さんの病気がよくなるようにと、一人でこっそり寄進
に行ったこともある。
気休めだとは思うのだが、紅葉にとって何にも替えがたい大切な存在であるお母さんは、紅
葉を大事に思う俺にとってもかけがいのないものだと考えているので、何かをしてやりたかった
のだ。
一進一退を繰り返すお母さんの容態が、黄龍の目を以ってしまえば後数年ですら生きられな
いのだとわかっていても……今俺にできることなら何でもしてやろうと思って、実行もしている。
お陰様で俺は十代の分際で、神主さんの御言葉入りの神社で行われる催しの封書が届いて
しまうくらいに、氷川神社の関係者には名前が通っている。
「行ったことが?」
「まー病気祈祷じゃ有名なトコだから。何度かは、な」
まさか紅葉のお母さんのために寄進した金額が結構なもんなのさ!なんて。
こっ恥ずかしくて言えたもんじゃない。
「普段は静かでいい所だけど、今日はどうだろうね?」
追求してこないでの内心ほっとしつつ、カーブに揺れる車内でバランスを取りながらとって返
す。
「今日はさすがに派手だろうと思うぜ。出店も境内までの通りにずらずらでるだろうしな」
「金魚掬いも、射的も、お菓子を買うのも……ほどほどにしてくれよ?今日は着物だからね。
そんなには持てない」
「お菓子ぐらいなら袂に入れるってのもできるけど。ぬいぐるみじゃそうはいかねーもんなあ」
こう見えても昔から修行修行の毎日で、小さな頃はこういった縁日だの祭りだのに来れた例が
なかった。
死んだばあさんがこっそり連れて行ってくれた盆踊り大会には、金魚掬いと型抜きしかなかった
もんだし。
だから子供じみてるってーのは百も承知で、熱くなってしまい紅葉の苦笑させる事は多かった。
「金魚も亀も懐には入れられないんだよ?」
「わかってるさー。わたがしは仲良く半分コ。リンゴ飴だってきっちり二個に割って食い終わっ
てから帰るさ。それなら付き合ってくれるんだろ?」
窓ガラス越しに見え出した提灯の明かりに手を翳してみながら、紅葉の表情を伺う。
「縁起物を値切ったりしなければ、ね。ちゃんとに付き合うよう」
バスの中の電灯は仄白い。
静かな陰影がついた紅葉の頬はガラスを通した提灯のオレンジ色の光に映えて、うっとりと惚
けるくらいには、綺麗だった。
バスを降りた途端に人の波に襲われた。
紅葉の手だけは指を絡めてしっかりと握り込んでから、境内へ向かう道の右側へと人の流れ
を泳ぐ。
「あ!」
「ん?」
「草履が脱げそう!」
足袋も履き慣れれば捌きやすいのだろうが、そんな習慣がない俺にはかなりの割合で辛かっ
た。
人込みの中で何とか草履を逃がさないようにと、足の指に力を入れていたら突然……攣った。
「てえええええええて…い、って!」
「……攣ったんだね」
俺の手の力ばかりが強かったが、小さな溜息と共に紅葉の手に力が篭もる。
俺を先導するように実にそつなく人垣を泳ぎ切ると、休憩所までさしたる苦もなくたどり着いた。
「足を出して……マッサージするから」
すっと着物の裾をたくし上げて腰を落とした紅葉が、適当な椅子に腰を下ろした俺の足を取っ
た。
ぐいっと手加減なしに親指と人差し指の間を押されて、激痛が頭の中を、かかんかーんと駆
け抜ける。
「紅葉ちゃーん!手―加減…お願い致しますデス」
「これぐらい我慢しないと?ここって確か内臓のツボもあるところだったね……日頃の不摂生
が祟ってるんじゃないの?」
「睡眠不足が不摂生なら紅葉もその一端を担っているんだろうが……だーかーら!痛いん
だってばあ!」
「下らないことを、言うからだ」
容赦なくツボを押されて始めは痛みが酷かったが、繰り返して揉んで貰うと不思議と心地良
くなってくる。
熱心なマッサージの結果。
足の攣れもすっかり引いてくれたようだ。
1月中には終わりませんでした。がっくり。