崩れても紅葉が直してくれるから問題もないだろうさ。
「大丈夫ですよ。少しきついぐらいがちょうどいいんですよね?」
「きついって、どれぐらいだい」
たぶん俺とお揃いの薄い灰色の長襦袢を腰紐も使わずに着こなして、既に上に羽織るもう一
枚の着物を片手で押さえた紅葉が様子を見にきてくれた。
腰紐の間に指を差し入れられて、隙間が測られる。
「うん、そうだね。これぐらいなら龍麻にはちょうどいいよ。何かモノを食べ出す頃には、おなか
回りもゆったりしてくると思う」
「じゃあ、次は長着ね。あ…長着っていうのは今紅葉が羽織っている服の呼称よ。普通の人
が『着物』っていうとたいていは長着のことを差しているわ」
同じ様に羽織らせてもらって袖を通す。
長襦袢と違って生地がしっかりしているせいか、心持動きにくい感じだ。
これがしなやかな絹の地だからこの程度ですむんだろうけど、違う生地だったらもっとこう、
ごわごわした感じになるんだろう。
「で、これにも腰紐を巻くの……紅葉は大丈夫?」
「問題ないよ。ここまでは浴衣と変わらないからね」
「帯だけは見るわよ」
「まーさすがにバランスがあるから…それはお願いいたしかも」
「全く龍麻君がいるから、持って回ったような言い方をするんだから、この子は」
俺の腰紐を。
先ほどの長襦袢をとめてくれた時と同じぐらいのきつさで丁寧に締め終えたお母さんの指が、
ていっ!と言う掛け声と共に紅葉の膝の辺りを叩く。
「母さん!」
「いいじゃない。別にねぇ、龍麻君?」
「ええ。俺的には普段見れない紅葉が見れて嬉しいくらいですよ」
「龍麻まで一緒になるのは勘弁してくれ…」
目を細めてくすくす笑うお母さんの目をこっそり盗んで、投げ掛けたウインクは肩で付いた吐
息で、するりとかわされる。
「後は帯ね。大変なのはこれぐらいよ」
よっこらしょっとの声が聞こえたと思ったら、腰を落としたお母さんが俺の正面に膝まづく。
「まずは帯の端を三十センチくらい取ってね。縦に二つ折りにするの」
「それを着物用語で“て”というんだよ」
紅葉の方はと言えばお母さんの隣りに立って、俺が正面から見て取れるように帯を締め始
めた。
「そう。それで、この“て”の付け根を脇腹につけて、端はこうやっておなかの前まで持ってく
るの」
「……こんな感じ」
二人で手取り足取り、揚足取り…ってなもんで。
教えてくれるのはいいんだけど、俺は自分で着るつもりなんてあんましないんだよなー。
二人とも嬉しそうだから、されるがままってのに甘んじるけどな。
「で、長い方の帯をぐるっと回して、“て”の下を通して…二度目は“て”の上を通して交差」
「もう一回やり直そうか?」
「いや、平気」
わかんなかったら後で聞けばいいしな。
だいたいくどいようだけど、自分で挑戦する気なんかないんだってば。
「でもって交差したところから…そうね、ちょうど肘から手首ぐらいの長さを残しておくの。初心
者は長めの方がいいかしら?」
「長すぎるのも困るけれどね。それぐらいの長さは必要だろう…この部分は“たれ”だよ」
言葉だけを聞いていると“何のこっちゃい!”と喚きたくもなるが、紅葉が目の前で実践してく
れているので意外によくわかる。
まー俺自身の、さして興味のないことでも結構興味があるように見せたり、手順を簡単に覚え
てしまえる才能の賜物って奴でもあるのだが。
「こうやって“たれ”を“て”の下からくぐらせて、上に引っ張り上げた後で“てを斜めに折り返し
て……」
「折り返した“て”の上に今度は“たれ”の下から通して。もう一度“たれ”の下から通して斜め上
に“て”を出してやれば……」
おなかの前に、ちょこんと結び目が出来上がった。
「へー意外に簡単なんだな。同じ作業の繰り返しって話もあるけど」
「龍麻は人一倍物覚えが良いから…後は数をこなせば自分でも着られるようになるんじゃない
かな。時間がたってみないと、よく切れているかどうかはわからないからね……母さんがやっ
たから、今回は大丈夫だと思うけれど」
「あら!まだ気を抜いたら駄目よ。このままじゃちょっとお間抜けさんだわ!」
お母さんの手が俺の帯を掴んだと思ったら、それを時計回しに回して結び目がぴったりと真後
ろにくる所で止める。
「結び目は後ろにやっておかないとね!最後にはおなかを……あら?」
俺の下腹に手をあてたお母さんが不思議な顔をした。
懸命に俺の腹肉を掴もうと指をくにくにと動かしている。
「龍麻は父さんじゃないんだから、おなかはふよふよしてないよ」
「そうよね…でもおなかのお肉が全然ないってのも凄いわー。若者の証ね」
ってお母さん。
そんなに気合を入れなくてもいいんですよ?
意外とノリのいい人だよな。
紅葉とは大違いってモんか…。
「後は羽織を着れば完成だよ」
今度は紅葉が羽織を着せ掛けてくれた。
「袖は捌きやすいように、羽織の袋袖にしまって……」
「うん!完璧ね。久しぶりにしては会心の作!」
紅葉と俺の羽織は色気も模様も微妙に違うようだ。
俺が着ている方が青が濃いので、紺。
紅葉の方がもう少し淡い感じで、藍といったところか。
細かく浮き出ている模様も似ているようだか、ちょっとだけ違う。
基本的にはお揃いだが、小さな箇所が違うっていうのが、何ともお揃いで誂えたような気がし
て嬉しかった。
「……それから……足袋を履くんでしたっけ?」
「スニーカーでもいいけど、それも間抜けだろう?せっかくここまで大人しくしていたんだから、
最後まで締めておかないと、ね」
俺のやる気のなさ加減はばればれだったらしい。
お母さんがうきうきしながら草履を出してくれているので、気が付かないのが不幸中の幸い。
紅葉もその辺りは狙ってのことだろう。
「はい!お疲れ様でした」
「こちらこそ。ありがとうございました」
「男の子二人だから夜道を歩くのはまあ大丈夫だとは思うけれど、はしゃぎすぎないようにしな
さいね。風邪にも気をつけて、寒くなったら大人しく帰ってくるんですよ」
俺から見れば十分綺麗に結んである、紅葉の羽織の紐を結び直したお母さんが、ぽんと紅葉
の肩を叩く。
「母さんの方こそ、もう十時なんだから寝ないと。消灯時間はだいぶ過ぎているんだから」
不意に華奢な身体を抱き上げた紅葉は、その身体を蒲団の中にと横たえた。
「着物の片付けは僕らがやるから。このままで良いよ」
「わかったわ……」
蒲団に身体を沈ませたお母さんの顔は、訪れた時よりも随分と疲れて見えた。